ここの背景画像は「SWEET HOME PAGE」さんからお借りしました。
順番に読んでいってもかまいませんし、興味のあるところから読んでも大丈夫です。お好きなところからどうぞ。
下線の部分をクリックすると飛びます。
|
一言で説明すると…相次ぐ戦争、またアメリカ独立への莫大な投資によって国家は破産状態になっていきました。よく言われていることですが、「赤字夫人」マリー・アントワネットの浪費などこれらに比べれば微々たるものでしかありません。 |
フランスがほとんど破産状態になっていった主な理由はふたつあげられます。
戦争よって労働者や農民はほとんど利益を得ることができません。それどころか、懲役や増税で、ただでさえぎりぎりの生活を送っているのに、余計圧迫されるだけです。しかも、飢饉が来たりすれば肝腎の収入がなくなります。これらの人々が突破口を待っていたのは当然のことでしょう。
絶対王政にとって戦争は不可欠のものです。(もちろん勝たなくては意味がありませんが…)戦争による領土の拡大、航海・貿易・植民地の増加は、貴族とブルジョワを喜ばせますし、同時に国王の偉大さを民衆に知らしめる絶好の機会だったのです。
しかし、敗戦が続くと王権への信頼が揺らぎ、国庫への負担が重くなり、重税が民衆を襲います。
特に、イギリスへの意地で行ったアメリカ独立戦争への加担は、確かにイギリス人に対する優越感を満足させたかもしれませんが、勝利したとは言え、フランスに何の利益ももたらしませんでした。残ったのは、破産した国庫と重税です。
もちろん、このような危機を前にしてただ手をこまねいたわけではありません。1774年、即位したばかりのルイ16世は、「啓蒙思想家を政府内に入れ、特権階級の免税を止め、民衆の不満を緩和しよう」と考え、1774年、リモージュでの県知事をしていた百科全書派の47歳のテュルゴを、はじめ海軍大臣に引き抜き、ついで財務総監に任命しました。
宮廷も民衆もテュルゴに期待しました。リモージュの県知事時代の財政建て直しが見事だったからです。ディドロやヴォルテールもテュルゴこそ改革を断行するだろう、と思っていました。宮廷の最大の浪費家マリー・アントワネットさえ、彼の誠実な人柄に打たれて、「財政にとって大事な方です」と母マリア・テレジアに手紙で書いているくらいです。
財政は極度に悪化していました。その上、不作と穀物の高騰で食糧事情も最悪でした。
1774年、テュルゴは穀物取引の自由と輸入の自由を布告しました。この政策は長い目で見れば有効なものでしたが、商人の投機や買占め、売り惜しみを引き起こし、さらに、1770年、1772年、1774年と不作が続いたためテュルゴの思うようには進みませんでした。
1775年の春には各地で食糧暴動が起こりました。中でも5月、パリで起こった「小麦粉戦争」は大きなものでした。 テュルゴはこの暴動の鎮圧に成功しましたが、それは民衆の不満を呼びました。テュルゴを財政立て直しの旗手とは見ずに、暴動の弾圧者と見るようになったのです。
1776年、テュルゴは次のような思い切った改革をしました。
ところが、こんなにも特権が傷付けられるわけにはいきません。マリー・アントワネットを中心とする旧勢力は、王がいったん了承したことを覆し、テュルゴは何もできないまま、5月12日、失脚させられ、勅令は取り消しとなりました。(マリー・アントワネットの遊興費など物の数ではありませんが、自分のお小遣いのために政治に口をはさんだことは、確かに責められるべきものでしょう。)
テュルゴの後を継いだのは、就任後半年で死亡したクリュニーでした。その後をスイスの銀行家、ネッケルが就任しました。彼は就任早々財務長官の手当てを辞退して人気を得ました。外国人でもあり新教徒でもあった彼は、総監にはなれませんでしたが、実質的には同じ権力を持っていました。 ネッケルは若干の改革は行いましたが、テュルゴの改革案に反対していました。銀行家としての個人的な信用を利用して、1776年、アメリカ独立戦争で費やした20億リーブルを償うために公債を発行しました。しかし、これはただ借金を増やしただけで、国庫は相変わらず破産状態でした。 1781年、不正確なものではありましたが、国家財産の「財政報告書」を発行し、異常な人気を得ました。絶対王政の下でこのような秘密を人民に暴露したのは空前のことであり、このことから、民衆は王室の政策や乱費に目を開いていったのです。 テュルゴに反対していた彼も結局は特権階級からの徴税というような根本的な改革しか国庫を救う道はない、と判断しましたが、宮廷と特権階級は大反対し、また、新教徒でもある外国人ネッケルに対する反感から1783年11月、ついに辞職に追い込まれました。
戦争に勝たない限り、財源を増やす唯一の手段は増税だけです。当時のフランスの税制は複雑でばらつきがありますが、ここでは主なものをご紹介します。
ある文書によると自営農民が12束収穫したとすると次のような形になるそうです。
税金として6束(内訳:領主に3束。教会に1束。国に2束)
これでは暮らしていけません。だって、お給料を24万円もらったとして、税金で12万取られ、家賃とか光熱費とかで10万円取られ、食費も含めて(!)自分で自由になる金額がたったの2万円てことですよ。それじゃあ、ばかばかしくてやってられませんよね。根本的な税制改革を民衆が望んだのも当然のことです。
つまり、これらが全て実施されればブルジョワの望む商業の自由は確保されるはずです。そして、ルイ16世もテュルゴの方針を了承し、1776年3月12日、勅令を発しました。改革は成功したかに見えました。
必要経費に5束 (内訳:来年の種子用に2束、耕作費用に3束)
手元に残るもの1束。
←←概略の目次へ | ←i.旧制度の危機へ | iv.啓蒙思想へ→ | |
←ii.階級制度の矛盾へ | |||
←iii.経済危機へ |