ここの背景画像は「SWEET HOME PAGE」さんからお借りしました。
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一言で説明すると…「人権宣言」を認めないルイ16世に抗議してパリの女性達が、ヴェルサイユまで行き、国王一家をパリに連れ戻しました。これはブルボン王家の葬送でした。 |
ルイ16世は「封建制廃止令」も「人権宣言」も承認しませんでした。議会は君主制にのっとっているので、国王の承認がない限り法律は成立しません。市民の怒りが高まっていきました。
その頃、パレ・ロワイヤル(おおっ。オルレアン公が住んでいるところ!)では、国王を取り巻きから引き離すため、国王と議会をパリに移すべきである、と言う意見が聞かれるようになってました。カミーユ・デムーランらが中心となり、ヴェルサイユにデモ行進しようとしましたが、市民軍に制圧され断念しました。
一方、ムーニエやマルーエ等の王党派は、議会をパリ市民の影響から切り離すため、ソワッソン等別の場所に移すことを提案しました。ネッケルは賛成しましたが、国王は躊躇し、その代わりに王権強化の目的で千人のフランドル連隊を呼び寄せることにしました。
10月1日、ルイ16世はフランドル連隊の歓迎会を催しました。国王夫妻も出席したこの席上で、酔った参列者達は、国王の色である「白」をたたえ三色旗を踏みにじり、反革命的な行動を取りました。このことがカミーユ・デムーランらの新聞で大げさに伝えられ、市民の怒りは爆発しました。
市民達は「腐敗している宮廷から国王を守るために、国王をパリに連れてこなければ」と考えたのです。つまり、市民は国王をまだまだ敬愛しており(ただし、マリー・アントワネットは別。王妃はとことん憎まれています)、悪いのは取り巻きだと信じていたのです。
パリの女性がパンを求めて ヴェルサイユまで行進しました。 |
女性達はパンを求めてヴェルサイユに向かいました。夕方、二万人の男達がそのあとを追いかけました。六時間かかってヴェルサイユに到着した女性達は、15人の代表を議会に送りました。
代表者は雨に濡れ、泥にまみれた貧しい服装で、男性が2人、残りの13人が女性でした。彼らは「食料の高騰とフランドル連隊の暴行について」訴えました。ロベスピエールが代表団を支持する演説をし、議会は直ちに国王のもとに代表を送って、パリ市民の要求を認めることを決議しました。議長ムーニエが、その任務をまかされましたが、心からの王党派である彼にとってこれは辛い仕事でした。
王は狩に行って留守でした。宮殿の外には待ちくたびれた数千人の群衆がいます。夜の八時、狩から帰った国王は、議会が要求したことを受諾しました。
深夜、ラファイエットが宮殿に到着して、王の安全を守ることを申し出ました。
ラファイエットに付き添われ、国王、王妃、王太子はバルコニーに現れました。群集は国王にパリに戻るよう要求しました。王妃は自分への憎しみを口にする群衆の前で、この世のものとは思えないほど優雅にお辞儀をしました。その気高さに、さすがのパリのおかみさん連中もしーんとなったそうです。
国王一家は馬車で パリに連れて行かれました。 |
議会も数日後、テュイルリー宮殿北側の王立馬匹調教場に移りました。
これ以後、国王と議会はパリ市民に直接監視されることになりました。国王は「封建制度廃止令」と「人権宣言」を認めざるを得ませんでした。国王がパリ民衆に連れ去られたと言う衝撃は強く、議長ムーニエは傷心のあまり辞任し亡命しました。他にもラリー・トランダル等100人以上の議員が辞職、亡命の道を選びました。
これはバスチーユに続く民衆の勝利です。ある有名な歴史家(ミシュレ)の言葉を借りれば、「男はバスチーユを奪い、女は国王を奪った」のです。
しかし、民衆は国王に反感を持っていたわけではありません。国王を「善良なパパ」と呼び、信頼していたからこそ、腐敗しきったヴェルサイユからパリに移したのです。
また、これにより、国王と議会と民衆は一時的に友好関係を保ちました。もちろんこれは真の友好ではなく、差し当たって国王側に巻き返すだけの力がなかったに過ぎません。しかしながら、この安泰は二年ほど続きました。議会はその間に、憲法、宗教、財政、植民地政策などに取り組みました。H13.1.29.UP
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