温和な立憲君主主義者
グルノーブルの富裕な毛織物商の子。地元の大学で法律を学び、21歳で弁護士となり、政府高官(国王代訴人)の娘と結婚。翌年、王室付き判事の職を23,000ルーブルで買い、25歳で貴族となった。
1788年、グルノーブルで起きた「屋根瓦の日」では同郷のバルナーヴと共に活躍し、三部会を作り、第三身分擁護のヴィジル決議を全国に呼びかけた。1789年の三部会の代表に選ばれ、信望を得た。しかし、彼は民衆の行き過ぎた行動を恐れ、イギリスを模範とする心からの王党派として温和な立憲君主政を望んでいた。そのため、急進的な人民の反乱は望まず、議会の衝突を避けるため、室内球戯場での会議開催を提案、「テニスコートの誓い」の発案者の一人に名を連ねた。
1789年10月のヴェルサイユ行進のとき、国民議会議長としてパリのおかみさん連中と共に、国王に「封建制廃止令」と「人権宣言」の認可と食料危機の現状を訴える任務を負わされ心を傷めた。
数日後、国王への忠誠心と憤りに揺れて議員を辞職し、故郷に戻った。そこで反革命を企てたが失敗し、1790年、スイス、ドイツに亡命し、ナポレオン時代にフランスに戻り、知事や参事官となった。
メルラン (メルラン・ド・チョンヴィル) 1762-1833勇敢な議員で戦場のメルランと言われた。
弁護士。立法議会、国民公会の議員。ダントン派の派遣議員としてヴァンデ地方にも行っている。公安委員会が権力を握っている1793年12月、独裁の緩和を狙って委員会の三分の一の改選を求めたがあえなく却下された。
独裁を嫌い、ロベスピエールとは不倶戴天の敵と言われ、テルミドールの蜂起の前に様々な人と密談を行ったが、テルミドール九日には、ロベスピエールに向かって一言も攻撃せず、沈黙を守った。
反動後五百人会議議員。以後、引退。ルイ16世の裁判中は、地方に派遣されており、投票しなかったので王政復古にも追求されなかった。