新和同開珎の発行年について
平成15年2月20日(初)  
平成15年6月15日(追記1)
花野 韶

和同開珎は皇朝銭最初の銭貨で多くの研究があり、諸説またそれらの逆説と言い尽くされた感はあります。そんな中で拙者なりの新和同銭の発行年は天平2年(730)であるについて順次述べます。

1.和同開珎には古和同と新和同がある。

 和同開珎(わどうかいちん又はわどうかいほう)と呼ばれ我が国最初の通貨である。なお富本銭が飛鳥で大量出土して富本銭が天武天皇12年(683)4月15日発行の本邦最初の通貨説もある。

〇古和同は続日本紀に和銅元年5月11日新たに銀銭を行う・8月10日新たに銅銭を行うとあり、和銅元年(708)に発行されて銀銭と銅銭がある。

〇新和同は出来が整然としており古和同とは字体も全く違うし、また銅銭のみしか発見されてない。これまでの発行年については和銅2年(709)および養老4年(720)の代表的発行説がある。

2.これまでの新和同の代表的発行年説について

(1)和銅2年発行説は

和銅2年の発行説として日本史小百科 貨幣(東京堂出版)の第3部 個別貨幣の古代銭(日本貨幣協会の高木 繁司氏著)の和同開珎の個所で「…元明天皇和銅元年(708)の5月の「銀銭使用」と7月の「(近江)銅銭鋳造」の令は第二群の隷開和同(注・本文では以降隷開古和同と称す)の銀銭・銅銭と対応し、和銅二年八月二日の「銅銭専用」の令は第三群の新和同銅銭と対応する」。これは和銅2年に新和同銭を発行したとなる。

また東洋鋳造貨幣研究所(所長 工藤 裕司氏)の方泉處(ほうせんか)ホームページの「皇朝銭とはどのようなものか」で「3.和同開珎(新和同)和銅元年(708)発行 銅銭のみが存在するため、銀銭鋳造停止後に造られたものと考えられます。和同開珎の価値は成人男子1日分の労働力にも相当するほど高く設定されたため、すぐに私鋳や銭価の下落を招いてしまいました」と和銅元年(708)を上げております。しかしこれは和同銭全体の最初の発行年を述べており、新和同銭については銀銭鋳造停止後で高木 繁司氏と同じく和銅2年8月2日の「銀銭の通用を停止して、専ら銅銭を使用させた」(続日本紀)より和銅2(709)年新和同発行説である。なお続日本紀の遅い方の銀銭使用禁止令は和銅3年9月18日「全国の銀銭の使用を停止した」を基にすれば和銅3年(710)が発行となる。

(2)養老4年発行説は

古銭の入門書の「古銭の集め方と鑑賞」(矢部倉吉著)の第2章の古銭をめぐる歴史で「最初に造られた和同開珎は、銅より銀の方が鋳造が容易でもあったため、文字もはっきりしている。銅の場合は鋳造が困難なためと、技術の未熟さから、創鋳後12年目養老4年(西暦720年)に、中国から技術者を招いて、鋳銭技術の改良をはかり、新しい和同開珎を造った。これを境にして、古く造られたものを古和同、新しく造られたものを新和同と呼びながら区別した。」別の古銭入門書「日本のコイン」(中村佐伝治著)の第1章古代日本の貨幣で「…その後、養老4年(720)からは唐の技術者を招いて新和銅銭が鋳造されましたが、開通元宝によく似たその頃としては立派なコインができていたわけです」。

これらの文の元はどうも「日本通貨変遷図鑑」(大蔵省大蔵事務官 渡辺正次郎編)の和同銭は支那銭に倣(なら)うの章で「…和同銭はこの開通元宝に做(さく)って創鋳したものであって、元正天皇の養老4年(720)頃からは支那人を招聘して鋳造せられたといわれている。而(しか)してこの支那人を招聘して鋳造せられたものは銅銭のみで其製品が殆ど支那の開通元宝に類似しており、依って之を新和同と稱(とな)え、…」となっており前の2つの古銭書はこれからの引用と推定できる。しかもこの引用で元は養老4年頃が養老4年と断定して書かれている。

この「日本通貨変遷図鑑」の編集には松浦数雄氏始め多くの各権威者が協力した。なんと言っても大蔵省の造幣局長の渡辺逸亀氏が題言を書いてある。今日で言えば貨幣の最高権威者が互いに協力して昭和32年2月10日に発行した、古銭の聖書のような本である。当時の権威者のご説につき疑問・反論の余地はまずは起こらない。まさか言い伝えの語り部が現代までいるわけがないので、「日本通貨変遷図鑑」の元引用を探ってみると、どうも風山軒泉話(今井 貞吉著 明治22年)にある「…和同銭は李唐の開元銭に倣(なら)い、工夫も唐より雇い来ると云、故に銭形開元銭にさも彷彿(にたり)…」と養老4年は別として引用したと思料する。



3.両説の比較

 和同開珎については多くの方が諸説を唱えていますので、この他にも新和同の発行年も各説がありえますが、拙者には把握しきれてないのが現実です。この和銅2年(709)説と養老4年(720)説の比較では、和銅2年説では古和同は隷開古和同を除き銅銭が銀銭より現存数が少ないことから銀銭鋳造停止後に新和同銭発行で合致している。しかし古新の両和同銅銭の鋳造技術に大きな相違があり、はたして鋳銭司が銅銭増産中に新旧切替で中断を伴う決断ができたかの弱点がある。

一方養老4年(720)新和同銭発行ならば、古新和同の造りを比較しても判るように鋳造技術革命で銅銭の鋳造量が増加して、銅銭の下落が起こった。根拠は養老5年(721)が銀1両100文であったものが養老6年(722)には200文となって銅銭下落状況に合致しているとなる。さらに前々年の養老2年(718)12月13日に唐の文化を持った遣唐使が日本に帰り着いている背景がある。だが続日本紀等に本説の記録が無く何月何日から鋳造開始等の具体性に欠ける難点がある。

4.金属のDNA鑑定?

続日本紀では和同開珎に古新の区別がなくすべて銅銭または銭として扱われている。すなわち古新は後世の古銭家が和同開珎で明らかに造りが違うので古和同・新和同と種類分類したものである。これより新和同銭の発行年を国史すなわち続日本紀のみで推定するのは無理があり別のアプローチが必要となる。

銅銭は銅を主成分にして鉛・錫が入っている場合が多い。まずは古和同銭の金属成分分析では純銅に近く鉛成分は少ない。しかし新和同銭では銅を主成分に鉛・錫成分が多く混じっている(引用;貨幣研究論文・和同開珎銅銭の非破壊分析結果について 岡田茂弘・田口勇・斉藤努各氏)。鉛には同位体としてPb204・Pb206・Pb207・Pb208で性質は変わらずにわずかな質量のちがいがある。これはウラン・トリウム等放射性物質が放射線を出しながら鉛になっていく、この何億年の経年で同位体の混合比が違う鉛が生まれる。一度鉛だけになると同位体Pbへの変化は停止する。これより鉛の同位体の混合比率を調査することでどこの鉱山で採掘されたがわかる。(引用:お金の不思議 国立歴史民俗博物館編で和同開珎の復元製作 斉藤 努著) 新和同銭の鉛分及び萬年通寳以降の皇朝11銭の鉛分はすべて長門の長登(ながのぼり)銅山及び周防の蔵目喜鉱山の鉛に一致した。なお長登銅山の鉱石は銅の他に副産物として鉛・銀・鉄などがある。

【参照1】

皇朝十二銭の鉛同位体比図

K=朝鮮 E=華中〜華南 J=日本 長登銅山・平原遺跡出土資料)



5.結論は天平2年か

続日本紀の天平2年(730)3月13日「周防国熊毛郡にある牛嶋の西の汀と、同国吉敷郡の達理山から産出する銅を、治金精錬(原文:治錬)してみたところ、いずれも実用に堪えることがわかった。そこで周防国に命じて採鉱・冶金させ、隣りの長門の行なう鋳銭に充てさせた。」とある。この達理山が長登銅山の近傍の防府市と山口市の境目にある金山(かなやま)であると言われている。金山は明治時代の銅鉱の採掘場があり、また近くに銅の精錬所跡の切畑南遺跡がある。牛嶋は光市の沖合いの牛島と推定されるが銅鉱採掘跡は見当らない。長門鋳銭司跡(下関市)からは新和同銭の磚笵(せんぱん:焼型)が発見されており長門鋳銭司で新和同銭を鋳造したのは明白である。難波宮(副都・細工谷遺跡)で新和同銭の枝銭が750年頃の排水溝跡から出土しており、750年ごろからは難波宮とおそらくは平城京にも新和同銭の鋳銭分工場が存在したと推量できる。それから天平宝字4年(760)の萬年通寳発行までは新和同銭であった根拠ともなる。

なお周防の銅関連の古い記録は文武天皇2年9月25日(698・続日本紀)に「周防国が銅鉱を献じた」と和銅元年(708)正月16日の「武蔵の国(秩父)から自然にできた熟銅(にぎあかがね)を献上した」より約10年前にある。長門長登銅山で出土した木簡のもっとも古いのは一部年号が消えているが和(銅4年)(711)9月24日とあり、698年ごろの古くから周防・長門の銅鉱の存在があった。

世界史では紀元前3千年前からあった銅鉱の精錬を日本への伝達を伝えなかった為か、当時の日本には副産物(不純物)を含んだ銅鉱の精錬技術が低くかった。それは秩父から精錬を必要としない自然銅が発見されると国家の慶事として元号まで和銅にしたことより窺える。周防・長門の銅山の産銅が銅銭に使える品質にするには、文武天皇2年(698)3月5日の「因幡国が銅の鉱石を献じた」同年9月25日「周防国が銅鉱を献じた」から、33年目の天平2年(730)3月13日にやっと銅の精錬の技術が成功した。

結論として、和銅2年・養老4年等の他説より年代が下るが、長門鋳銭司で天平2年(730)3月13日から周防(達理山・牛嶋)の銅材に長登銅山及び蔵目喜鉱山の鉛が混入されて新和同銭の鋳造が開始された。なお周防(達理山・牛嶋)銅山は短期間で枯渇し長門長登銅山の銅材になったと推定される。また新和同の鉛鉱山が両方とも山口県にあるのは長門の鋳銭司近傍の鉛鉱山からの輸送とするのが自然である。これは新和同銭が長門鋳銭司で鋳造開始された証でもある。和同銅銭の通貨鋳造は原価が一文以上にならない様に鋳銭原価削減が最優先施策になるが、原材料産地近傍の長門で鋳銭の方が総合原価は優れる。すなわち天平2年(730)は鋳銭可能の精錬銅が完成した年であると共に長門で新和同が鋳銭開始された年でもある。なお新和同銭が長門でなくもし平城京等近畿で開始されたのであれば、重い鉛を山口県からわざわざ運ぶことは無く日本最大の鉛鉱山で且つ養老年間発見と言われる神岡鉱山(岐阜県)又は古くからある白浜温泉(和歌山県)の鉛を使用したはずである。しかし質量分析の結果新和同銭の鉛は山口県の長登銅山及び蔵目喜鉱山の鉛でありむしろ最初は長門で新和同銭が開始され、後年銅と山口県の鉛が混じった銅材を長門(山口県の精錬所)で生産し平城京及び難波宮に運び、新和同銭が都の分工場でも鋳造されたとする方が自然である。

和銅2年(709)の銀銭中止の古和同銭で隷開古和同が最終型なら、天平2年(730)までの21年間はどんな後期の古和同銅銭であったのか興味が湧いてくる。これはまたこの天平2年(730)説及び養老4年(720)説にも言えるが後期古和同銅銭の未見が弱点である。なお最近和同銭種類別の質量分析が進み、新和同でも「野崎和同(大潤縁)」はなぜか古和同に近い金属データ数値であるので、後期新和同銭の現在の定説を否定するが野崎和同は後期古和同型と考えられる。これは野崎和同が内郭はバリが付いた未仕立てで外縁側が簡単な磨き仕上げになっている、すなわち新和同銭の様に内郭に角棒を通したロクロ仕上げではなくむしろ古和同銭の造り形式で、新和同銭より以前に鋳造されたと思料できる。また銭種分けが確立されてないので、外見では区別出来ないが標準型(正字)の一部にも古和同に近い金属データ数値で先行新和同型もある。この先行新和同型は造りから古和同の鋳潰し鋳銭の新和同の可能性が高いが取りあえず先行新和同型と名づける。いずれにしてもこれらの空白問題は今後の検討課題になろう。(引用・古代銭貨に関する理化学的研究 「皇朝十二銭」の鉛同位体比分析および金属組成分析 斉藤努・高橋照彦・西川裕一著 日本銀行金融研究所)

http://www.imes.boj.or.jp/japanese/jdps/fjdps2002_index.html


【参照2】

            新和同発行年の各説の比較一覧


和銅2(709)説 養老4年(720)説 天平2年(730)説
1)続日本紀の関連文 有り:和銅2年8月2日 なし 有り:天平2年3月13日
2)後期古和同銅銭 必要なし:すぐに新和同 未見 未見
3)鋳銭場所 近畿圏と推定 近畿圏と推定 長門で鋳銭した銭笵出土
4)銅の産地 不明・秩父の自然銅の確証なし 不明・秩父の自然銅の確証なし 周防の達理山・牛嶋の精錬銅から長門長登銅山へ
5)鉛の産地 山口県の長登銅山・蔵目喜鉱山 山口県の長登銅山・蔵目喜鉱山 山口県の長登銅山・蔵目喜鉱山
6)原料製品の輸送コスト 原料が遠地で高額となる 原料が遠地で高額となる 総合的に見て安価



6.おわりに

 「古和同は和銅元年以前に発行した」との和銅元年以前説があるが、秩父市の和銅会報のホームページでは、和同開珎の鉛分を質量分析した「鉛同位体比による青銅の産地推定」(国立歴史民俗博物館編93年:科学の目で見る文化財)では8世紀の始め(すなわち和銅元年:708年)から日本産地の銅材で和同開珎の鋳造が行われた。これよりやはり国史(続日本紀)の和銅元年の記事は正しかったと自然科学的に立証されたといってよいと記載されている。(引用・秩父市和銅保勝会/和銅献上と和銅改元/自然科学的立証のホームページhttp://www.chichibu.co.jp/~wado/ wadokaichin/kenjyou.htm)。
そこで確認をこめて質量分析を行った国立歴史民俗博物館の斉藤努氏に手紙を出した所、ご丁重に返事を頂きました。そこでした質問は(1)不隷開タイプ古和同銅銭(2)隷開タイプ古和同銅銭(3)新和同標準タイプ(4)後鋳和同ノ木タイプで各銅銭の鉛分の質量分析結果です。それの回答は(1)(2)の古和同はバラツキがあるが長登鉱山以外の鉛成分、さらに秩父産と考えられる鉛同位体比を示すものは確認されていません。(3)(4)の新和同はいずれも基本的には長登鉱山及び山口県の蔵目喜鉱山の鉛ですとの回答でありました。この結果から当たり前であるが古和同銭は新和同銭より古いことが裏付けられる。しかし和銅元年(708)の秩父の熟銅で古和同銭を鋳造したことは確認出来なかった。一方和同銀銭の鉛成分の同位体質量分析は出雲発掘の一枚の銀銭だけだが実施されており、朝鮮の鉛分との結果が出ている。(引用・和同開珎 藤井一二 元資料・出雲国庁跡出土の和同開珎の科学的調査 馬淵久夫・平尾良光 )
 銅銭での鉛同位体の質量分析には限界がある。それは銅と鉛の合金で例えば国内の銅材と中国からの輸入鉛が混じった場合分析の結果は中国産となる。これより今後は鉛だけではなく他の金属の同位体質量分析が必要となろう。鉛(Pb)以外の金属同位体はCu(銅)Ag(銀)Fe(鉄)Zn(亜鉛)他(Al・Cd・Ni・Li・Mo)があり、これら金属の質量分析の方法も進歩している。金・銀・銅・鉄等の金属貨幣はほとんどが合金化しているので、鉛以外の金属同位体の質量分析法の補完で、金属貨幣の新しい真贋鑑定・製造地の銭種分析の道具になることを期待したい。古銭界に支持者が多い和同開珎(古和同)の和銅元年以前説と教科書での和銅元年説で、田中啓文氏が戦後「銭幣館」誌に発表した以来の論争は、古和同銅銭特に不隷開及び隷開タイプの鉛同位体以外の補完質量分析(なお銅と錫の同位体混合比は地球上でほぼ一定で産地分析には不向き)の結果発表で決着する可能性がある。本論の新和同銭の発行年代も又補完質量分析で確定するかも。     以上


参照3】関連和同開珎の拓本

 古和同銭     隷開古和同銭    後期古和同銭?

(銀・銅 不隷開型)  (銀・銅)   (銅 野崎和同・大潤縁)

先行新和同銭?   新和同銭    後鋳和同銭
(銅 一部の標準型) (銅 標準型) (銅 ノ木型)




引用】

収集の手引き・日本貨幣商協同組合/貨幣の日本史・東野治之著・朝日選書
続日本紀・宇治谷 孟著・講談社/日本の貨幣の歴史・滝沢武雄著・吉川弘文館 
国史体系・吉川弘文館 貨幣手帳・ボナンザ社/ 日本古典文学大系・岩波書店 
古銭の集め方と鑑賞・矢部倉吉著・金園社/皇朝銭史・増尾富房著・東洋古銭図録
和同開珎・藤井一二著・中公新書/古貨幣夜話・利光三津男著・慶應通信
古事類苑泉貨部・内外書籍 /  富本銭と謎の銀銭 今村啓爾 小学館
日本史小百科貨幣・滝澤武雄西脇康編・東京堂出版/日本のコイン・中村佐伝治著・豊文社
お金の不思議 国立歴史民族博物館編 山川出版
科学の目でみる文化財 国立歴史民族博物館編アグネ技術センター
研究論文・和同開珎銅銭の非破壊分析結果について岡田茂弘・田口勇・斉藤努日本銀行金融研究所
日本通貨変遷図鑑 渡辺正次郎編大蔵省財務協会/風山軒泉話 今井 貞吉著 明治22年
鉄と銅の生産の歴史 佐々木稔編 雄山閣
ベールを脱いだか謎の賈行銀銭 花野 韶 作成ホームページ
(http://www5a.biglobe.ne.jp/~otukai/kokoupage1.html)
秩父市和銅保勝会/和銅献上と和銅改元/自然科学的立証のページ
(http://www.chichibu.co.jp/~wado/wadokaichin/kenjyou.htm)
古代銭貨に関する理化学的研究・「皇朝十二銭」の鉛同位体比分析および金属組織分析
・斉藤努・高橋照彦・西川裕一著 
日本銀行金融研究所 http://www.imes.boj.or.jp/japanese/jdps/fjdps2002_index.html     他


【追記:平成15年6月15日】嬉しいことに発表後平成15年5月1日刊行した「日本貨幣収集事典・原点社」の和同開珎のページに、著者と同説で新和同銭は天平2年に発行とする大家の阿部謙二氏の説が紹介されています。著者が天平2年説を発表するかなり以前に発表されたと後で判りました。発表説は田中啓文氏の和銅元年以前に和同開珎を発行の説の流れにありますが、新和同銭については天平2年(730)発行としています。この阿部謙二氏の説で大いに感銘を受けたのが和同銀銭を新和同銅銭の発行前(即ち天平2年)まで鋳造してることです。これは後期古和同銭の未見が本説の弱点としたことを覆すことになりました。即ち和銅2年(709)の銀銭中止と一見矛盾してるようですが、銀銭鋳造が続いていれば和同銀銭にまつわる多くの謎が解明できます。まず銀銭の重量は小は3gから大は6.6g(藤井一二・和同開珎の記載のデータのみ)までと範囲がバラツイています。それから「和同開珎」の記載に埋没時代が明確なのが2件あります。

(1)和銅3年(710)ごろと推定できる藤原京左京二条一・二坊の銀銭3枚で量目はほとんど同一の平均6.4g・径平均24mmの大字と分類されます。
(2)神亀6年(=天平元年「729」)埋蔵、奈良県山辺郡の小冶田安万侶の墓からの銀銭10枚でバラツキがある量目平均4.8g・径平均24mmであり、和同銀銭鋳造中止後20年経っているが数量が多いので神亀6年ごろでも銀銭鋳造していた痕跡か?。

 これらから推量させてもらえば和銅2年8月2日の銀銭鋳造中止以前は、量目に気を付けて銀銭を鋳造して和銅3年9月18日までは計数貨幣(所謂銀銭X文)として通用していた。これはまた著者が「ベールを脱いだか謎の賈行銀銭」で和銅元年ごろの和同銀銭の重量代表値を6gと和同銀銭平均(5g)より重くした根拠でもあります。しかし磚笵(焼型)で厚みを同じにし銀銭重量を均一に造るのは並大抵ではありません。それと計数貨幣と言いながらバラツキがあると高価値の銀銭は、なおさら撰銭争いが絶えません。これ等理由により和同銀銭は計数貨幣としては短期間で使用禁止となったと思われます。しかし銀として使用するときは計量の必要があります。計量器はどこにもそう置いて無いので、体積で代用したと考えられます。すなわち和同銀銭の径はバラツキが少なく平均24mmで穴に紐を通して長さを計れば銀X両が判ります(コンビニの硬貨計測器)。これは和銅3年9月以降は和同銀銭を秤量貨幣と扱っていることになります。
 続日本紀で和銅3年9月以降銀銭の名称では養老5年(721)1.29「銀銭1枚を銅銭25枚に換算し、銀1両を100銭に用いよ」にありこの銀銭は計数貨幣です。従って和同銀銭とは違い著者のいう賈行銀銭の可能性が強いようです。銀1両は1コロ両(150g)で和同銀銭(後の豆板銀もどき)で30枚巾と思われる長さで紐に括られます。しかし実際は重さ即ち厚さにバラツキがあり30枚は前後します。また大安寺資財帳の養老6年12月元正天皇の寄進物で「合銀銭1053文仏物886文 之中92文古・・」の銀銭は前年の賈行銀銭で古は計数貨幣としての古い和銅2年以前鋳造の和同銀銭と考えられます。また後期古和同銭は探す必要が無くなり、既存の古和同銭を和銅元年(708)から天平2年(730)までの22年間に展開すれば良いのではないでしょうか?その銭種は「大字」は始りの計数貨幣であり、秤量貨幣の最初は郭の小さい「笹手」それから中穿の「縮字」さらに「広穿類」で、最後は「隷開古和同類」の経過と予想しました。なお和銅元年発行の教科書説で2年間の短期間にも関わらず銭種が多いとされた矛盾は、古和同銭(銀銅銭)は比較的長くの22年間の鋳造で銀銭現存数が比較的多い事実とも妥当となります。さらに続日本紀で天平2年(730)以降は銀X両の秤量貨幣の記事が消え商売取引は新和同銅銭に一本化されたか?新和同タイプの和同銀銭の製造は無かったと思われます。なお和同銀銭最後の史料は「令集解」において古記で入学に当り先生へのお礼とし博士に銀三文(注・銀銭では無いので秤量貨幣の3分比量か?)と助博士に銀二文を贈るとあります。この古記が養老令の1世代前の大宝令の注釈集でありますから天平10年(738)ごろに出来たと思われます。これより和同銀銭は天平10年ごろまで一部で利用されいたようです。(引用・利光三津夫/古貨幣七十話)以上