徳川の大判・小判に葵紋が無い理由
平成20年4月 花野 韶

                                    

  家紋は日本と英国にのみ現存します。日本の家紋の歴史は各説があるが、一般には平安時代末期頃遠くから何家と判るように、目立つ物に付けられた。それが武家時代になり羽織・裃にもつけられ、名札の役わりになった。家紋に対する各家の思い入れは強く、例え苗字が変わっても家紋はまずは変えないと言われた。天皇家の菊紋は有名で、第二(裏)紋として桐紋があった。桐紋は功績のあった足利尊氏・太閤秀吉に賜与(しょ)された。また足利将軍から織田信長・豊臣秀吉にも再度授けた。従って太閤秀吉は2度桐紋を賜った。太閤秀吉が天正大判を後藤家で作らせた時に桐紋を使うことを許可した。桐紋は幕末には約2割の武家(ほとんどが五三の桐)で使用され権威も落ちていたが、明治になり皇室の裏紋として、内閣総理大臣の紋となり権威が戻った。

 大判は貨幣と言うよりは恩賞に使う勲章の代わりと考えればいい。それで自分の権威を誇示するべく家紋を付けた。この傾向は明治新政府になって発行された金貨・銀貨・大半の銅貨・紙幣に菊紋がある様に権威者の象徴でもあった。

 江戸時代の大判・小判には太閤から受けついだ桐紋しか用いられなかった。家紋に対して思い込みの強い時代にむしろ例外的事柄であった。この理由を考察してみる。

1)葵紋の由来 

  葵紋は京都賀茂神社の神紋であり、賀茂(加茂)神社の神主・氏子・信仰者に葵紋が広まった。三河から伊豆には賀茂と言う地名が残っており、賀茂神社の勧請や社領が多くあった名残である。三河に居た松平氏・本田氏・伊那氏・島田氏が葵紋を使っていた。徳川家康が天下を取ると、葵紋の独占を計り他家の使用を止めさせた。ただし本田氏のみが賀茂神社神官の出なので、徳川家康の要望を「殿こそ新田の一引紋に変更されたら」と断り立ち葵の紋を用いた。徳川の葵紋は三つ葉葵紋でこの家紋だけは徳川の直系でさらに認可を受けた家系のみが使用された。
賀茂神社 三つ葉葵 立ち葵
一引紋 五三の桐
2)徳川家康の判金つくり

  豊臣秀吉に許可を貰い、京都後藤家から弟の後藤長乗光栄と橋本庄三郎が文禄4年(1595)「文禄2年説もある」に、建設中の江戸に下向した。長乗は早々に京都に帰ったが、橋本庄三郎(手代)が中心になり、武蔵墨書小判を作ったのは文禄4年(1595)とされる。この武蔵墨書小判(楕円)は天正大判を参考に約4.4匁の1/10の定位定量であり、薄く延ばす技術を必要とし橋本庄三郎のアイデアとされる。関東ではそれまで甲州金が使われていたので、金工達は旧武田の流れであった。一方徳川は天正大判を作っている後藤家の権威ある判金を作りたかった。橋本庄三郎は大判の欠点が高額で、貨幣として使用しにくいので一両判(即ち小判)を江戸町奉行の板倉勝重に提案して、徳川家康の許可を得た。当時関東の甲州金は武田氏が滅んで信用性が薄れ秤量貨幣としてか通用しなくなっていた。

武蔵墨書小判は京都後藤家の婿養子(徳乗の次女、2歳年上になる出戻り娘のお亀)になる条件で、扇面に五三の桐紋の極印を打つことを許可された。この扇面桐紋は後藤本家の丸に五三の桐紋と違えてあるが、最終者豊臣秀吉の認可を得た可能性はある。

[武蔵墨書小判] [慶長大判]
[慶長小判]
3)後藤庄三郎光次の後藤本家に対する態度
  養子になった後藤庄三郎光次は証人に兄の山崎喜六と共に証文を後藤徳乗・栄乗に慶長元年(1596)出している。趣旨は(1)大判の墨書き・極印打ちは本家が行うことを守る。(後藤庄三郎は大判には手を出さない)(2)小判の桐紋(扇面)は子孫まで守り使う。(3)後藤の苗字は変えることなく子孫まで使う。(4)黄金3枚を毎年子孫代々本家に贈る。(5)これらに背けば小判等製造の収入を残らず本家に差し上げ、役儀も返上する。これは絶対服従の誓いと言える。
4)家康への食い込み

  慶長3年(1598)後藤庄三郎の理財の才能を見抜いた、家康より戦争(後の関が原の合戦)の為の軍用金調達を命じられる。この軍用金調達に成功して多額を家康に収める。どうも米相場が儲け元であったようだ。例えば後年伊能忠敬が全国地図測量に自己資金で歩いたが、各地の米の作柄情報を店に送って米相場で稼いだようだ。関が原の合戦(慶長5年・1600)後に後藤庄三郎光次は金銀改役(きんぎんあらためやく)に抜擢される。

慶長6年(1601)慶長小判・慶長一分金を発行。

慶長6年(1601)慶長大判を長乗名で発行、徳乗は石田三成方に味方し家康に睨まれていた。ここでも丸に五三の桐紋が使われた。家康は太閤亡き後葵紋の大判を発行したかったと思われる。庄三郎は本家への証文もあり、家康へ断る呼吸を知り、庄三郎が徳乗弟の長乗を名目にして粘り強く掛け合った。

慶長6年(1601)京都伏見に銀座開局を命じられ、末吉孫左衛門を差配にして、品位を一定し大黒常是(だいこくじょうぜ)の極印を打った。慶長丁銀・豆板銀である。

慶長8年(1603)江戸幕府を開いた。

慶長9年(1604)お亀が長男銀之助を産む。

慶長9年(1604)家康から側室阿茶の局の連れ子、お岩(大橋の局)を庄三郎に下げ与えられる。大橋の局は家康の子供(他説・2代将軍秀忠の子供)を宿しており、家康の命令で庄三郎に与えられた。また阿茶の局は青山家出身の女傑で後年将軍秀忠の娘和子が後水尾天皇に入内する時付いて行き、難しい朝廷対策を任された。大橋の局が生んだ次男がお松で、後に実子の銀之助を差し置いて二代目金座当主後藤広世である。また9代金座当主後藤光暢は青山家からの養子。

慶長10年(1605)秀忠に征夷大将軍を譲り家康隠居。

元和元年(1615)大阪の夏の陣、豊臣氏滅亡。

元和2年(1616)家康死去

寛永2年(1624)後藤庄三郎光次死去、家督は後藤庄三郎広世が継ぐ。なお元和3年(1617)に隠居した説もある。

5)徳川家康の影響力

徳川家康も後藤光次も共にガマン強い慎重居士でわが身よりは、それぞれ徳川家・後藤家を第一に考える似た性格の持ち主であった。家康は自分の希望を部下に押し付ける暴君型では無いし、家康は庄三郎に軍資金(カネ)と大橋の局(女)及び子供(家康の実子or孫)と大きな借りを作ってしまい、葵紋の大判・小判作りを強制しなかった。

恐らくは家康が死んだ後も、家康の遺訓(意思)として徳川将軍家に残り後藤の桐紋は徳川の判金に受け継がれたのであろう。家紋には思い入れが強い時代で、松平→徳川(得川)と苗字を変えても、葵紋は変わらずむしろ独占を図った。また将軍も功績のあった者に葵の羽織(孫の代まで着てよい)とか葵紋の付いた脇差を与えている。それらより年代が経てば追従する幕閣が将軍に「葵紋の大判を与えれば、賜わった者に恩賞効果があります」などけしかけたと思う。それにも関わらず歴代の徳川将軍は、自分達の先祖である家康の遺訓は神(東照宮)の言葉として守ったので、葵紋の判金が出現しなかったが理由であろう。なお江戸時代の幕閣達にも大奥・金座・朝廷にはうっかり手が出せない「三禁物」として、家康の遺訓が受け継がれた様です。
  

6)それでも葵コイン発行計画があった模様
  利光三津夫著(前日本貨幣協会会長)の古貨幣七十話・第38話によれば、幕末の老中稲葉正邦の「淀稲葉家文書」に慶応3年銘の一両コインの企画図らしき葵紋の円型コインがある。実際には計画倒れであったようだが、金座では発行せずにどうもフランスに依頼しようとした様である。コイン図には重さも表示され2匁2分5厘とあり、金貨ならば明治旧5円金貨2匁2分2厘に非常に近い。明治旧5円金貨は品位90で純金量は2匁である。葵一両コインが金貨ならば品位は不明であるが、混合金で金の耀きを保つには14金なら純金量1匁3分で安政小判金(純金量1匁3分6厘)に近く、18金なら純金量1匁6分8厘で天保小判金(純金量1匁7分)に近い。いずれにしても万延(雛)小判金の1両で純金量5分よりはるかに価値のある葵一両金貨になる。金の価値を安く設定し小判等の海外流失を経験した後で、過剰価値金貨を発行するはずは無いと思われる。従って慶応3年銘(1876)で出そうとした、葵一両コインはあくまでも推測の域を出ないが、1836年頃誕生し発達していた、先端の電気金メッキ金貨を発行しようとしたと思われる。
[淀稲葉家文書の企画1例]
引用:黄金の華 火坂雅志著、日本の貨幣 小葉田淳著、日本史小百科貨幣 金座歴代当主、古貨幣七十話 利光三津夫著