ベールを脱いだか謎の賈行銀銭
平成13年9月22日(初)
14年2月12日(改)
14年8月4日(追記2)
花野 韶
 賈行銀銭が発見されたのは、昭和12年(1937)12月奈良市西大寺宝ヶ丘の大和西大寺の寺領と見なされる、丘陵から発掘された。この発掘で大量の金銭・開基勝寳31枚と金板、奈良県が完全な形の大型銀銭を発見しようと徹底的に探したが結局発見出来ず、「賈行」の二文字のみ残った大型銀銭の破片(右下の部分)であった。「賈行」の二文字が付く銭名は日本銭と中国銭さらに漢字圏国の銭にも無く、謎の大型銀銭とされている。

(図・
東京国立博物館の賈行銀銭の表裏)


1)賈行銀銭(ここうぎんせん)の国籍探し

  銭名の後ろ二文字が「賈行」に関連する銭名は、まずは最後の字を一般的である「寳」として推量すると、時計回りの循読では「行寳」となるし、逆十字の対読では「賈寳」となる。  「行寳・賈寳」の可能性が無い国を推測すると@中国銭は元・通・重・泉寳以外の銭は無く賈・行寳との関連が少ないので一応除く。A朝鮮銭も同様に通・重寳のみでこれまた除く。Bこれより銭名後ろ二文字の変化が多いのは日本・安南の銭である。次に安南が穴銭を発行したのは西暦970年以降であり時代がくだりすぎるので安南銭をも除く。さらに賈行銀銭は日本で発掘されたので日本銭の可能性が高いので、ここでは渡来銭で無く日本銭であると一応国籍を定める。


2)賈行銀銭(ここうぎんせん)が鋳造された時代を考察する。

  日本銭として本銀銭が作られた時代を考証する必要がある。まず開基勝寳31枚と同時に出土していることから判断して、開基勝寳の発行された天平宝字4年(760)の少し後年から過去に溯る可能性がある。天平宝字4年(760)には銅銭は萬年通寳がさらに銀銭では太平元寳が開基勝寳金銭と共に発行された。 賈行銀銭が政府発行の銀銭ならば、天平宝字四年に続日本紀で銭名記載が無いので、太平元寳と同時には発行されなかった。これより日本書紀・続日本紀でただ銀銭とのみ記載されている、天平宝字4年(760)以前の銀銭となる。  賈行銀銭が私鋳銭ならば個人又は固有組織が専用に造らせた厭勝銭である可能性が強い。しかし同時に発掘された皇朝銭が金銭開基勝寳であり当時の特権階級以外ではまずは所有できない。これよりこの特権階級が当時では偽銭造りと疑われる私鋳は行わないと想定できる。それ故賈行銀銭は太平元寳と同じく現存数がほぼ皆無あるが、安全な政府発行の銀銭であった。天平宝字4年以前で銀銭が歴史上現れるのは古く、日本書紀の顕宗天皇2年(486)に「稲一斛を銀銭(無文銀銭と推測)一文で買う」とある。次ぎに記載があるのが天武12年(683)4月15日「今より銅銭を用いよ、銀銭を用いること莫れ」3日後4月18日「銀を用いるを止め莫れ」とある。この銅銭は富本銭と推定され、銀銭は使用禁止からも政府が責任の必要の無い、私鋳銭の無文銀銭と思料できる。また銀は用いてよいの銀は、秤量貨幣として利用する銀塊と推量出来る。これら天武12年以前の銀銭は銭名が無い無文銀銭(むもんぎんせん)であると推断し、銭名がある賈行銀銭の対象銭からは一応除く。 それから続日本紀の和銅元年5月11日「始めて(新たに)銀銭を行う」とあり、この銀銭は和同銀銭である。この和同開珎(708)から太平元寳(760)まで53年間を、日本紀の銀銭を主体にし検討する。


3)和同開珎(わどうかいちん)(708)から
太平元寶(たいへいげんぽう)(760)まで銀銭の推移

 賈行銀銭の発行時期を和同開珎発行(708)から太平元寳発行(760)までの53年の間であると一応絞りこんだ。事実和同開珎発行(708)から最後の乾元大寳発行(985)の278年間に12銭が発行されているが、平均で約23年毎に新しい銭が発行されたとなる。なお富本銭発行(683)を考慮してもやはり平均は約23年である。これに比べても和同開珎が素晴らしくヒットした銭としても、やはり53年間は長いと言えるので、この間に新銀銭の発行計画があったのでは?が拙者の推測である。

◎銀銭の時系列分析
 ここで続
日本紀の銀銭を時間発生順の時系列に並べ、上下の時点の銀銭が同一であれば○違えば×で分析してみると

・和銅元年(708)5.11   :新たに銀銭を発行【和同銀銭】

   〇上下の銀銭はともに和同銀銭で同じ銀銭

・和銅2年(709)1.25:銀塊を回収で銀銭発行したが偽銭が出た【和同銀銭】

  〇上下の銀銭はとも和同銀銭で同じ銀銭

・和銅2年(709)3.27:銭3文以下は銅銭、銀銭4文以上銀銭【和同銀銭】 
  上下の銀銭はとも和同銀銭で同じ銀銭

・和銅2年(709)8.2  銀銭を廃し、専ら銅銭のみ発行【和同銀銭】 

 
 上下の銀銭はとも和同銀銭で同じ銀銭

・和銅3年(710)9.18:全国の銀銭の使用を禁止 【和同銀銭】          

 
×上が銀銭禁止にも関わらず下で政府が交換比率記載するのは
おかしい

・養老5年(721)1.29銀銭1(文)を銅銭25(文)に換算し【不明銀銭】

            銀1両を100銭に用いよ

  ×大平元銀銭は新銭で上下の銀銭が違うのは当然

・天平宝字4年(760)3.16:大平元銀銭発行 【大平元

◎続日本紀で銭種が不明は養老5年(721)の銀銭のみであり銭種を検討する必要あり。


無文銀銭    和同銀銭    大平元
       

4)続日本紀養老5・6年の銀銭の関連文。

  この時代の銀銭文を解釈にあたり関連文の現代文訳をここで表示してみると。
○養老5年(721)の銀銭検証に入る前に和銅2・3年の銀銭禁止の解釈・現代文訳   和銅2年8月「銀銭を廃止して、もっぱら銅銭を発行させた」和銅3年9月「全国の銀銭の使用を禁止した」 和同銀銭は偽銀銭が現れた為、わずか1年4ヶ月で使用禁止となった。
○続日本紀で
養老5年(721) 1月の銀銭及び銅銭の解釈
・現代文訳    「天下の人々に命じ、銀銭1枚を 銅銭25枚に換算し、銀1両を100銭に換算するようにさせた」
  使用禁止になったはずの銀銭が10年4ヶ月で再度復権している。それ故この養老5年の銀銭が和同銀銭か新規に発行された銀銭か検証が必要となろう。またこの両替文は和同銀銭の新換算値の発令文が通説であるが、そうならば1銀銭25銅銭・銀1両100銅銭の両替文から銀1両は4銀銭となる。銀銭が和同銀銭ならば1両が平均6g×4個=24gと軽すぎ、1両が37.5gならば銀銭1枚は9.375gと重すぎるこれら矛盾を誰も説明出来ない。これは銀銭種及び両単位が既成概念を越えたところにある、それ故検討範囲を和同銀銭以外の銀銭及び唐目単位(1斤=160匁 1両=37.5g)以外の重量単位に拡大する必要がある。
 養老6年(722)2月に元正天皇自ら詔して銀1両を200銭に引き上げている。
・現代文訳「次のように詔した。市で行なう交易については、もとより物の値段が定めれている。ところがこの頃規定が守られていないことが多い。その為こうした不法の根本を断絶しようと思うと、生業を失う家があり、末端の不法を禁止しなかったら、よこしまな者たちがはびこる。そこで新たに銭を使用する上の便宜をはかり、人民が利益を得るようにしたい。そこで銭200文を銀1両にあてることにせよ。そして買物の値打によって、価格の多少は時の状況によって定め、これを永らく変わらぬ方式とせよ。もし違反する者あらば、職事官の主典(さかん)以上の者はその年の勤務評定を除去し、その他の者は保釈金を問わず杖60の刑にせよ。」
銅銭の両替レート切下げが初めて行われた、レートが下がる原因は和同銅銭の鋳造量が増えて銅銭が市場に溢れた為と思料できる。また天皇は通貨の増大がインフレを引き起こすことが理解出来なくて、史上初めて発生した銭のインフレに市の銭両替商など関連者に八つ当たりしている。
さらに養老5年(721)に銀銭が新たに発行されたと推定できる伏線が続日本紀にある。霊亀2年(716)5月太宰府の人民が白鉛(元字では鉛を外字の金偏に葛、拙者は講談社・新大辞典より白鑞と同意味で、錫と鉛の自然合金説を採る、他説の銅・アンチモン・砒素の自然合金説とは異なる)を隠して持っていて密かに売買し、さらにこの白鉛は偽銭(金属の色から偽銀銭)の原料になるので没収せよと天皇が勅している。この文は養老5年の5年前から新規銀銭の発行計画があったことを示唆する。新銭発行で重要な為天皇自らの詔となり、そうでなければせいぜい大宰府の地方長官の宣言で済むはずである。余談であるが和同銀銭で1年を待たずしてあんなに素早く偽銭が出現した初期の偽銀銭は、鋳造容易い融解温度が低い現代のハンダに類似した、自然錫・鉛合金であった為と推測できる。当時の人々には色が似ているので錆びる前の自然錫・鉛合金と銀との区別が困難であったともいえる。この銀の品位決定は江戸時代でも銀の切断面と手本銀との目による光沢比較であったので、銀と比重が似ている自然錫・鉛合金の重さが許容範囲内ならば和同銀銭の真偽の判定は当時の一般人にはなおさら困難であった。かつての中国で銀銭を入手にすると噛む習慣があったがこれは硬度で真偽判定した。


5)大安寺伽藍并流記資財帳(だいあんじらかんならびにりゅうきしざいちょう)の古銀銭は


 当時の続日本紀以外の参考資料に大安寺伽藍并流記資財帳(以下「大安寺資財帳」と略す)がある。大安寺資財帳は大安寺の起源から歴史合わせて寄進及び財産までの記録を天平19年(747)2月に時の政府に提出した。この大安寺資財帳で養老6年(722)12月に元正天皇が大安寺に各種寄進した記録がある。その寄進物に銀銭がありその記述文「
合銀銭千五十三文 仏物八百八十六文 之中 九十二文古、菩薩物二十三文、四天王物六文、聖僧物百三十八文」で、仏物886銀銭の中に92古銀銭ありと注釈している。この古銀銭を巡って各説がある。
(比較)古銀銭の各氏の説を列記
○黒田幹一氏の説   新銀銭:養老5年(721)に新鋳の和同銀銭を発行、重量が4分の1両の和同銀銭。古銀銭:和銅初年(708〜)頃の和同銀銭
 著者の論評:当時新と古銀銭は明確に区別できるには、銭名が違うことではないか?と利光三津夫氏は指摘している。著者も同感で例えば古和同銅銭と新和同銅銭は銭名が同じなので当時には和同銅銭の新古の区別記録は無い。さらに和同銀銭の重さは最大で約2匁であり2.5匁以上の大型は無いと利光三津夫氏は指摘。しかし養老5年に新規銀銭を発行した説には著者は同意できる。
○利光三津夫氏の説  新銀銭:和銅初年(708〜)頃の和同銀銭。
古銀銭:天武12年(683)の銀銭で賈行銀銭としている。
著者の論評:天武12年(683)の銀銭は政府が排除しようとしているので、私鋳の銀銭すなわち無文銀銭と著者は思料する。さらに古銀銭がこんなに古いと和同銀銭発行の和銅元年(708)を過ぎて古銀銭の記載があるはずなのに無い。
○今村啓爾氏の説   新銀銭:和銅初年(708〜)頃の和同銀銭。
古銀銭:天武12年(683)の銀銭で無文銀銭。               
著者の論評:和銅元年(708)を過ぎて前銀(銀塊)とあるが、古・前銀銭とは記載がない。これより利光氏同様年代の遡りすぎと著者は思料する。本説は古くは横山氏が指摘しており通説となっている。
○拙者の説    新銀銭:養老5年(721)に新発行の
賈行銀銭。古銀銭:和銅初年(708〜)頃の和同銀銭。
著者の論評:元正天皇からの寄進は、状態の良い最新の銀銭つまり前年の養老5年に発行された賈行銀銭がほとんどであった。しかし一部に価値が違う古銀銭の和同銀銭があった為に注釈した。


6)賈行銀銭(ここうぎんせん)を調査して


 大安寺資財帳の銀銭の寄進文は、養老
6年(722)12月の時期に銀銭ではほとんどが新銀銭で少数の古銀銭が混在して使用されていたことを我々に教えてくれる。賈行銀銭のデ−タが不明瞭で復元重量が利光三津夫氏は8.5匁(31.9g)かたやボナンザ社貨幣手帳説で15gと大きな開きがあり、疑問を解消すべく東京国立博物館に賈行銀銭の映像検索の仕方を問うと共に電子メ−ルを送った。丁重にご返事を頂きポイントを述べると「長3厚0.6(cm)重量 不明、ただし収納ガラス箱が開錠できず正確には未確認」とありました。長さ3cmは外縁から外縁への最長の個所と理解できた、しかし厚さ6mmとは日本銭では見たことのない餅型の銀銭(例えば大型の天保銭で肉厚が2.5mm)で、利光三津夫氏の8.5匁(31.9g)は厚さが2.3分(6.9mm)としており利光三津夫氏の説が正しいか? だが肝心の銀銭の破片重量が不明では判断のしようがない。そこで東京国立博物館のホ−ムペ−ジで賈行銀銭の画像を検索した。まず一般に見る賈行銀銭の表の画像があった。期間を置いて探すと別に表裏が写っている賈行銀銭画像を偶然見つけた。この裏を見て特異なのは裏の郭が無い、どうも軽量化を考えて鋳造段階から裏郭なしで製造した痕跡が見受けられた。また銀銭破片の中央部の最短部で12mmであるが、その半分の6mmの肉厚には画像では見えない。しかし博物館からはっきりと数字で返事が来ているのでボナンザ社貨幣手帳の15gの賈行銀銭説、及び厚さ6ミリの比例計算で復元重量は約37.5g(和同銀銭との体積比例から41gと算定で、裏郭が無いので軽めで且つ6gと匁で割り切れる数値にして)で直径33mmと予想算定される分厚い賈行銀餅説で検討する必要がある。その後賈行銀銭の厚さが「麗悳荘泉譜」に掲載されているのを教わった。その縁拓本から厚さは6〜7mmであり、且つ破片重量は4匁3分(16.125g)と記載されていた。これよりボナンザ貨幣手帳の復元重量15g説は棄却され37.5gに絞られた。

 (図・麗悳荘泉譜の賈行銀銭の拓本)

また賈行銀銭の銭名で利光三津夫氏は中国の書周礼に「司市以商賈阜貨而行布」とあり 、現代訳で「市の役人は商賈(商い)をもって貨を阜(富ま)して布を行う」とあり「商賈行布」が銭名である推測している。この銭名は恐らく正しいか近いと拙者は思料します。しかしながら和同開珎の珎また萬年通寳の寳にしても、珎(珍)・寳ともに「たから」の意味である。従って他の銭名では著者は素直に最後を寳にして「商賈行寳or商賈行珎・商売を行う宝」が思料できる。


7)和銅元年から養老5年までの銅銭インフレ率は

 さて養老5年(721)正月に続日本紀では計数貨幣で1銀銭25銅銭・秤量貨幣で銀1両100銅銭に換算せよと記載されているが、和銅元年(708)の計数・秤量とも貨幣換算の記載がないので和銅元年の計数貨幣換算の各説がある。各説を挙げると1銀銭1銅銭の今村氏説・1銀銭4銅銭の吉田氏説・1銀銭10銅銭の西村・森氏ほか説・1銀銭25銅銭の栄原氏説とこれだけある。これは和銅元年から養老5年までの銅銭のインフレ率をどう決めるかで、各説とも数字上では比例計算で一見正しく見えて出口のない討議になってしまう。すなわち平行四辺形の面積で縦と横の長さが判明しているが高さが判らないので面積は0〜縦×横まで無限の解答があるのに似ている。この様に比例計算では上記の高さに相当する第3のファクター(要素)を解明しないと解答は無い。そこで第3ファクターとして和銅元年から養老5年までの銅銭のインフレ率を取り上げ検討した。インフレ率が判り安い籾を代表にした、籾インフレ率は和銅4年(711)[籾1斗5文(1文で籾6小升を大升に換算)]から天平元年(729)[籾1斗10文(銀1両=米1石=籾20斗=銅銭200文から換算)]までの18年間では2倍であった。さらに養老6年(722)2月に1両100銅銭から200銅銭へ銅銭レ−ト切下げがあり、和銅4年から銅銭換算で2倍・銀換算では1倍の籾のインフレ率であった。これより和銅4年から銅銭切下げ前の養老5年(721)までは10年間インフレが無かった。銅銭発行が少なかった和銅4年以前の4年間もインフレが無いとして、和銅元年(708)から養老5年(721)まで銅銭もまたインフレ率は1倍(無し)であったと思料する。また天平元年(729)から天平勝宝3年(751)までの22年間の籾のインフレ率は2.5倍であった。これは天平勝宝3年の正倉院文書で市の売買事例で米6升30文を換算籾1斗25文から算定した。だがこの時代長期的には籾価格は安定していたが、日経ダウ価が伸びない株価の様に短期の年度内では約2倍の籾価格差があったと記録から読み取れる。なお著者の説のポイントは和銅4年の「1文で籾6升」を小升としている点である。これがもし大升ならば[籾3斗5文]の換算となり和銅4年〜天平元年までのインフレ率が6倍である。しかし天平元年(729)以降22年間の籾インフレ率が2.5倍であり、天平元年(729)以前の21年間で籾インフレ率を6倍では無く2倍とするのは妥当である。従って和銅4年の「1文で籾6升」は小升で且つ天平元年の「銀1両米1石」は大升となるし、遡った和銅元年から養老5年までの銅銭インフレ率は1倍であったと推断できる。

8)和銅元年の重量1両が10匁の換算で正しいか
注:外字 狩谷エキ斎のエキは木偏に夜

 続日本紀で大宝2年(702)3月8日 始頒度量于天下諸国「初めて度量の基準器を天下諸国に頒布した」とある。これは度と量すなわち物差しと枡は配布されたが、衡(重さ)の基準器は除外されている。すなわち正確な重量の分銅を数多く製造することは当時の技術では非常に困難であった。また大安寺資財帳の記載文で「合丹三斤七両 仏物二斤四両 之中六両唐 通物一斤三両」(丹の合計3斤7両 仏物2斤4両この中に唐目単位で6両 通物1斤3両)これは丹(水銀と硫黄の化合物)だけが6両唐とわざわざ注釈している様に唐目単位(1両=10匁・1斤=160匁)がむしろ少数派であった。政府の度量衡政策とは異なる旧重量単位が、天平19年(747)頃までトップクラスの寺でさえ養老5年(721)から26年後でも根強く残っていた根拠である。また1両を10匁とした江戸時代の狩谷エキ斎は、清の書籍を主体に唐の計量単位しいては大宝の度量衡を導いたので、当時巷に普及していた旧重量単位の換算値は研究していない。銀貨幣の天秤計量は古くから経済活動に密着して行われており保守的であった。これより貨幣計量を中断せずに基準器も配布されなかった新しい唐目単位に一斉に切り替えることは不可能であった。大宝の度量衡制定(702)以前の金銀貨幣の旧重量単位は両(コロ:両は借字)と発音されたが、広い地域で相互決済出来る旧来のコロ両で行われたと推断する。現在でこのコロ両のグラム換算値をどう求めるか?その方法は和銅元年の銀1両に両替できる和同銀銭の枚数は、経済活動で損得者を出さない為均衡の等重量価値なりを利用する。すなわち銀1コロ両は両替した和同銀銭の枚数の重量に等しい、なお銀銭の銀の品位はおそらく銀銭製造費を捻出の為錫鉛を混ぜたとしてもあくまでも両者の重量は等しい。大安寺の銀工芸品はコロ両で計量して斤・両で記載されている、この値を利用してコロ両のグラム換算値を推定する。


9)養老5年の銀銭候補並びに1コロ両のグラム換算値の検討

 養老5年正月の銀銭の候補は(1)通説の6gの和同銀銭(2)参照:未見の大型和同銀銭(3)37.gの銀餅の賈行銀銭になる。銅銭インフレ率が1倍でインフレがなかった前提で養老5年の銀銭の候補を検討する。
(1) 和同銀銭ならば和銅元年の両替は1銀銭25銅銭、銀1両100銅銭となる。これは銀1コロ両が和同銀銭4枚で銀銭を平均6gとして24gとなる。
(2)参照:度量衡の衡(重さ)で唐目単位の1両37.5g(和同銀銭6.25枚)が和銅元年ごろは施行されていたと仮定する、すると養老5年の銀銭は未見の大型和同銀銭(=9.375g)が発行されたとなる。和銅元年の両替は1銀銭16銅銭、銀1両は100銅銭である。
(3) 銀餅の賈行銀銭では和銅元年の両替は1銀銭4銅銭、銀1両は100銅銭である。すなわち銀1コロ両は150g(和同銀銭25枚)となる。

以上3候補銀銭を日本書紀の大宝令(702)以前の記述と大安寺資財帳の金・銀工芸品の重量記載文で検討する。なお金は銀と同一の重量単位であったと仮定する。
注:@=(1) A=(2) B=(3)の重さ数値は各候補銀銭でのグラム換算値である。なお大安寺資財帳の文より1両は4分、1斤は16両と確認できる。
【日本書紀】
・推古天皇13年(605) 高麗国が金300コロ両を献上許す。

  @7.2kg A11.2kg B45kg ※いずれも許容範囲内。
・持統5年(691) 伊予国より白銀3斤8コロ両献上。
    @    1.3kg A2.1kg B8.4kg

※@Aは献上にしては少なく見栄えしない。
・持統5年(691) 音・書・医・呪禁博士に銀20コロ両与える、さらに持統6年(692)陰陽博士に銀20コロ両与える。
    @約0.5kg A0.75kg B3kg ※@Aは異常に少ない。
【大安寺
資財帳注(外字):カン=金偏に完 香ロ=ロは外字で獣偏に廬
・カン(金属のわん)仏物218口 之中全金1口 重7両1分 銀15口 重合13斤3分

   ○銀のカンでは1個平均約13.9コロ両
    @334g A525g B2.1kg ※@Aは異常に軽い。
     ○金のカンは1個で7コロ両1分
    @74g A275g B約1.1kg 
    ※@Aは異常に軽いBはどうにか範囲内。

多羅(化粧箱) 仏物31口 之中銀3口 重合16斤15両
    ○銀の多羅では1個平均約90.3コロ両
    @2.2kg A3.375kgB13.5kg ※化粧箱は大小あり判断しにくい。
・香杯(こうはい) 仏物36合 之中1合銀重1斤3両3分
    ○銀の香杯(著者推定:高坏【たかつき】のことか?)約19コロ両3分
    @474g A740g B2.96kg ※@Aは少し軽いが香杯が判らず結論は出せず。
・香ロ(こうろ)仏物18具之中 1具銀重3斤10両2分
    ○銀の香ロは約58コロ両

@1.4kg A2.2kg B8.7kg ※@はすこし軽い。
・合子(蓋つきのわん)仏物27合 之中銀3合重合11両1分    
   ○銀の合子は1合平均約3コロ両3分
   @90g A141g B563g ※@Aは異常に軽い。Bはどうにか範囲内。
(正倉院に銅製佐波理の合子が現存するが、蓋がタワー飾りで重い工芸品と思料する)
・壷(つぼ) 合壷十三口 仏物九口 之中銀五口 重合四斤十三両三分 一口水精二口白銅 一口金塗 温室分物四口 之中二提壷        
  ○銀の壷は1口平均約15.55コロ両

(注)正倉院南倉の現存する銀壷の底裏に「東大寺銀壷 重大五十五斤 甲 蓋實台惣重大七十四斤十二両 天平神護3年(767)二月四日」と刻印がある。この銀壷は胴径が約62cmで本体重さ55斤と刻字されている。これは大安寺の銀壷に比べ重さが約57倍と極端に重い。天平神護3年(767)は大安寺資財帳の政府提出時天平19年(747)より約20年後であり東大寺(正倉院)では唐目単位で計量したのが重量からも判る。従って正倉院南倉の銀壷は唐目55斤すなわち33kgである。重量は表面積に比例で大安寺の銀壷でそれぞれ候補銭での重量より胴径を求める。
@6.6cm【373g】A8.2cm【583g】B16.4cm【2.33kg】@Aとも異常に小さくて壷とは呼べない(小型の壷は提壷と区別されている)。Bはどうにか範囲内で、両寺の壷の重量値格差からも大安寺のコロ両は唐目単位より大分重いと思料できる。以上3候補から最適な重量単位を各工芸品の大きさ・重さを判断しながら選択すると、銀ではもっとも重いBの銀1コロ両=150gとなる。すなわち銀1コロ両(コロ目単位と名づける)は唐目単位の1両=37.5gの4倍である。さらに養老5年の銀銭は和同銀銭とする通説も危うくなった。

 
(図・正倉院:銅製佐波理の合子/正倉院南倉の銀壷)

 「まとめ」コロ目単位は唐目単位の4倍の重量であった。
・和銅元年の銀銭両替:1和同銀銭は4和同銅銭と交換できる。
     銀1両(コロ)は100銅銭と交換できる。
        銀1両(コロ)は約150gであった。
・養老5年正月の銀銭:およそ37.5gの分厚い賈行銀銭である。
     1
賈行銀銭は25和同銅銭と交換できる。
        同じく銀1両(コロ)は100銅銭と交換できるし、
        銀1両(コロ)もまた約150gであった。