(架空)山田正紀選集 第5巻

エンジェル・エコー



序文

 (架空)山田正紀選集第5巻『エンジェル・エコー』をお届けする。

 本書は、文庫書き下ろしという形で、しかもSF色の強くない出版社から刊行されたこともあってか、山田正紀の膨大な作品群の中にあっては言及されることの少ない、どちらかといえば地味な部類に属する作品といえる。しかし、山田正紀の(実は)数少ない宇宙SFの一つであるという点では貴重な作品ともいえるのではないだろうか。そして、傑作『チョウたちの時間』にも匹敵する叙情性、そして青春小説ともいえる要素を備えている(その意味で本書は、例えば徳間デュアル文庫などで復刊されるべきであったかもしれない)上に、山田正紀の重視する“物語そのもの”をテーマとした作品でもあるのだ。したがって本書は、山田正紀という作家の全貌を把握するためには、決して見逃すことのできない作品といえるだろう。

 <カクテル・グラス>・<シェイカー>・<マドラー>など、カクテル用品からその名をとられたガジェットが登場し、<ドライ・マティニ>と命名されたプロジェクトを描いた本書は、それ自体、きりっと冷えたドライ・マティニの清涼な味わいを残す佳作である。“バーテンダー”山田正紀の冴えた腕前を、じっくりと堪能していただきたい。



作品内容の簡単な紹介と感想はこちら→『エンジェル・エコー』

解説
―― 山田正紀と物語 ――

 山田正紀作品の中には、連作短編とも長編ともつかない、一種独特の構造を持ったものが数多い。これは、ミステリにおける<連鎖式>に通じる部分がある。この<連鎖式>とは、「一応は一話完結でありながら、少しずつストーリーに一貫性を持たせていき、全体を通して読むと長篇にもなっている、というかたちの連作」(日下三蔵氏による、山田風太郎『明治断頭台』(ちくま文庫)解説より引用)というものであり、例えば山田風太郎の『明治断頭台』『妖異金瓶梅』などが有名である。また、若竹七海『ぼくのミステリな日常』や加納朋子『ななつのこ』、あるいは倉知淳『日曜の夜は出たくない』など、東京創元社からデビューした作家が効果的に使用したのもよく知られているところだろう。そして、山田正紀もまたこのような形式の作品を多く書いているのだ。

 その典型的な例として挙げられるのは、やはり初期の本格ミステリである『人喰いの時代』だろう。この作品では、「人喰い船」から「人喰い雪まつり」まではごく普通の(と表現しては語弊があるかもしれないが)連作短編でありながら、最後のエピソードである「人喰い博覧会」に至って、それまでのすべてのエピソードに新たな光が当てられるという、ある種のどんでん返しが仕掛けられている。これは前述の山田風太郎『明治断頭台』で使われたものとよく似た巧妙な仕掛けであり、この『人喰いの時代』が山田正紀によるミステリの初期の代表作と位置づけられている所以といえる。

 しかし、山田正紀がこのような手法を用いるのはこの作品が初めてではなく、また本格ミステリに限られているわけでもない。例えば、最初期の代表的なSF作品である『地球・精神分析記録』でもすでにこれに近い手法が使われているし、これまた初期の犯罪/ゲーム小説である『ふしぎの国の犯罪者たち』も同様である。このような、それぞれのエピソードが一応の結末を迎えながら、それらがまとまって長編としての形が作り上げられている形式の作品は、全体を通じたどんでん返しや仕掛けが用意されていないものまで含めると、枚挙に暇がない。だが、仕掛けの有無を別にしても、その構造を詳しく見てみるといくつかのパターンが見受けられる。

 まず一つは、前述の『人喰いの時代』『ふしぎの国の犯罪者たち』のように、(長編としての構想が先にあったにせよ)比較的独立性の高い個々の短編としての形が先行しているタイプである。他にも『ジュークボックス』『花面祭』『SAKURA 六方面喪失課』などがあるが、特に『花面祭』の長編としての構想は後付けだったという(日下三蔵氏による講談社文庫版解説を参照)。つまり、連作短編として雑誌に掲載された後で、全体をつなぐアイデアがひねり出された(そのため、雑誌掲載から単行本の刊行までに5年という年月を要している点にも注目すべきだろう)という、短編先行の典型的な例といえる。

 一方、前述の『地球・精神分析記録』や、『闇の太守』『天動説』『ジャグラー』『電脳少女』『天保からくり船』といった作品では、物語全体の中から個々の戦いや事件などのエピソードを一つずつ取り出し、それぞれ決着させていくことで物語を進行させるという手法が使われている。山田風太郎の忍法帖シリーズなどにも通じるこの手法は、長編がいくつかのユニット(エピソード)に分割されたものといえるだろう。謎→推理(捜査)→解決という基本フォーマットからの逸脱が困難なはずの長編ミステリにおいても、一つ一つの疑問点に基づいて分割された『阿弥陀』のような作品があるし、『ミステリ・オペラ』などに見られる、複数の謎と解決を小出しにしていくかのような手法もまた、物語のユニット化に通じるものだろう。

 だが、長編が分割されているとも、また短編がつながっているともいい難く、どちらのタイプにも当てはめにくい作品もある。例えば、四人の登場人物たちがそれぞれの視点から、主役となる人物の思い出を語っていくという構成の『延暦十三年のフランケンシュタイン』。また、二人の登場人物が交互に、不思議なサーカスにまつわる物語を語っていく『ゐのした時空大サーカス』。あるいは、あるモチーフが少しずつ形を変えながら繰り返される『デッドソルジャーズ・ライヴ』。これらは、色々な方向から描かれた、ある種並列的なエピソードをちりばめていくことによって、物語世界が構築され、長編としての流れが浮かび上がってくる手法、といったらいいだろうか。そして、完全な長編ではあるものの、主人公のとりとめのない回想、その一つ一つのエピソードが積み重ねられていくことで、主人公の人生が描き出されていく本書『エンジェル・エコー』も、同じような手法が使われた作品といっていいだろう。

 いずれにせよ、短いエピソードの積み重ね(あるいは組合せ)によって一つの作品を作り上げるという手法の多用が、山田正紀の物語の組み立て方における一つの特徴といえるのではないだろうか。もちろん、すべての作品がそうだというわけではないのだが、少なくとも山田正紀がこのような手法を好んで使用しているのは明らかだろう。

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 山田正紀の作品においてはもう一つ、メタフィクション的手法の多用も特徴的である。ここでいう“メタフィクション的手法”とは、物語(と現実)の階層構造に言及し、あるいはその階層を意図的に曖昧なものとするような手法を指している。山田正紀はしばしばこのような手法を用いているのだが、一口にメタフィクション的手法といっても、その具体的な扱い方は比較的ストレートなものからトリッキーなものまで様々である。

 例えば、『螺旋の月 宝石泥棒II』が最もわかりやすい例かもしれない。この作品の前半部は、主人公である緒方次郎が次世代コンピュータを介して戦士ジローの冒険を体験するというものである。ところが、この“戦士ジローの冒険”とは、『宝石泥棒』(及びその後の物語)に他ならない。つまり、『螺旋の月 宝石泥棒II』の中に『宝石泥棒』という既存の物語が取り込まれることで、作中に階層構造が作られているのだ。そして、後半部に至って緒方次郎の物語と戦士ジローの物語が絡み合っていき、階層(あるいは境界)は曖昧なものになっていく。

 また、『エイダ』ではやや違った手法がとられている。作中の現実がフィクションによって浸食されていくこの作品は、物語の階層構造の破壊をテーマとしており、作中の“現実”にはフランケンシュタインの怪物やシャーロック・ホームズなど登場し、また登場人物であるSF作家は、かつて自分が書いた作品とほぼ同じ状況に放り込まれてしまう。ところが、このSF作家が明らかに山田正紀自身をモデルとしているところが曲者で、山田正紀本人をモデルとした作中のSF作家が、かつて書いた作品――これがまた山田正紀自身の作品(『襲撃のメロディ』)としか思えない――と同じ状況に陥ることで、作中のフィクションと作中の“現実”だけでなく、さらに現実の世界までが渾然一体となった奇妙な状況が作り出されている。『魔術師』という物語を執筆中のSF作家が登場する作品『魔術師』においてもまた、同じような手法が使われている。

 さらに、『人喰いの時代』『ジュークボックス』などでは、かなりトリッキーな手法が使われている。未読の方の興味を削いでしまってはいけないので、ここでは詳しく説明することができないが、興味のある方はぜひ一度これらの作品を読んでみていただきたい。

 ところで、山田正紀作品では、作者自身(の分身)が登場する例もしばしばみられる。前述の『エイダ』『魔術師』だけでなく、『宇宙犬ビーグル号の冒険』(各篇の前口上)や「暗い大陸」(『物体X』収録)、「誰も知らない空港で」(『1ダースまであとひとつ』収録)などがあるが、やはり短編集『渋谷一夜物語』が極めつけだろう。この作品は、全体をまとめるエピソードが書き足されて一つの作品となった“枠物語”の形式であるのだが、その書き足されたエピソードが“作家”を主人公としたものになっており、さらにその“作家”自身を主役とした「わがデビューの頃」という作品が含まれている上に、“山田正紀”による「後書き」にまで仕掛けがあるという、二重三重に凝ったものとなっている。このような作者自身の登場が、“物語”と“現実”との境界を曖昧にすることを意図したものであることは明らかだろう。

 このように、山田正紀の多用するメタフィクション的手法は、例えばジョン・ディクスン・カーが『三つの棺』でフェル博士に「わしらは推理小説の登場人物なんだから」と発言させたような、物語の虚構性を強調するものとは対極に位置するように思われる。山田正紀にとって“物語”は単なる虚構ではなく、もう一つの“現実”を生み出すものであるがゆえに、“物語”と“現実”との境界は曖昧なものでなければならないのではないか。つまり、すべての“物語”は“現実”とほぼ同等に位置づけられることになるのだ。このような考え方は、「宿命城殺人事件」という作中の探偵小説を物語の中心に据えた『ミステリ・オペラ』に強く反映されている。この作品では、作中の“現実”と作中の“物語”(「宿命城殺人事件」)が同等に扱われている。いや、時には作中の“現実”よりも“物語”の方に重きが置かれている場合さえあるといっても過言ではない。

 そして、ここでは具体的に触れないが(後述)、本書『エンジェル・エコー』もまた、ある意味で“物語”と“現実”の境界を曖昧にする作品といえる。それはとりもなおさず、“物語”が本書の重要な要素であるということを意味しているのだ。

***

 山田正紀は、前述の『ミステリ・オペラ』以外にも、北欧神話をモチーフとした宇宙SF『デッド・エンド』や、南海の小島に伝わる伝説を扱った『夢と闇の果て』など、物語そのものをテーマとした作品をいくつか書いている。これらの作品に共通してうかがえるのは、物語を語り継ぐことの重要性、そして“すべての物語は忘れられることなく残されなければならない”というメッセージである。そして本書『エンジェル・エコー』にも、「忘れていいことなど、この世にひとつもない」という主人公の言葉として、そのメッセージが具体的に登場している。

 だが、“物語が忘れ去られてはならない”のは、一体なぜなのだろうか。山田正紀の物語に対する姿勢を理解する上でおそらく重要となるであろうこの考え方は、一体何に由来しているのだろうか。その疑問に対する答は、ユニークな形で本書に示されているように思われる。

 主人公の回想で幕を開ける本書は、最後まで主人公の一人称で語られている。幼い頃の思い出から現在の状況に至るまで、ここで語られているのは、主人公の人生そのものである。本書には「どんな人間でも自分の人生をもとにして、ひとつだけ長編小説が書ける」という一節があるが、まさに本書自体がこの言葉を体現したものとなっているのだ。

 もちろん、この言葉自体は山田正紀のオリジナルでも何でもなく、どちらかといえば使い古された表現といわざるを得ないだろう。しかし、山田正紀は本書で、これを鮮やかにひっくり返してみせている。“人生は物語になり得る”――これを裏返せば、“物語は人生の記録である”ということに他ならない。物語は単なる虚構ではなくもう一つの“現実”であり、そしてその中に生きている登場人物の人生の記録であるがゆえに、忘れ去られてはならないのだ。

 しかも本書では、それを強調するかのような、非常に巧妙な手法がとられている。
 (以下、『エンジェル・エコー』の内容に触れるのでご注意下さい;一部伏せ字
 本書を最後まで読めばお分かりのように、主人公は超空間から脱出するために、そして彼にとっての“宿命の女{ファム・ファタール}”である香青玉を救うために、香青玉の代わりに自分の情報――すべての記憶――を失ってしまうことになる。主人公が自分の人生を語り続けてきたのは、その物語――彼の人生の記録――をどこかに残しておきたいと考えたからなのだ。結末で暗示されている通りに彼が記憶を失ってしまえば、それまでの彼の人生は、彼が語った物語という形でしか残らなくなってしまうのである。
 (ここまで)
 そのため、読者の頭の中には、“登場人物の人生の記録である物語が、忘れ去られることがあってはならない”というメッセージが、より強く印象づけられるようになっているのではないだろうか。

 そしてまたこの手法は、読者をより積極的な形で物語に関わらせることにもつながっていく。つまり、単なる“読者”ではない、主人公の語る物語の“受け手”としての立場を意識せざるを得なくなり、物語世界の一員として参加することになるといえるのではないだろうか。それでなくとも、回想場面以外では誰とも言葉を交わしていない主人公は、明らかに読者に対して語りかけているのだから。その意味で、本書もまた、“物語”と“現実”の境界を曖昧にするメタフィクション的手法が使われた作品の一つといえるだろう。

 なお、これは余談になるが、前記の伏せ字にした部分のアイデアから筆者が連想するのは、SF作家堀晃のいくつかの作品である。特に、堀晃の第一短編集『太陽風交点』に収録されたある作品(具体的な作品名は伏せておく)は、そのアイデアに伴う物語の送り手と受け手の存在という点で本書と関連しているともいえるが、その処理の仕方に大きな差がある。したがって、その観点から本書とその作品を対比してみるのも面白いのではないだろうか。



 最後になるが、本書『エンジェル・エコー』が“物語”をテーマとした宇宙SFというだけでなく、印象的な青春小説であるという点も見逃せないところである。子供の頃のトラウマを引きずりつつ成長してきた“ぼく”は、やがてそのトラウマの一つの要因でもあった“宿命の女{ファム・ファタール}”・香青玉と再会することになる。それは運命でも何でもなく、“ぼく”の手の届かない巨大な力による“必然”であった。その巨大な力に対して、また香青玉という存在そのものに対して……挫折と無力感を味わいながらも、“ぼく”が香青玉に向ける想いは、哀しいほどに純粋である。決して甘くはないが苦くもなく、ただひたすらに澄みきった味わいのドライ・マティニは、読者には名前さえ知らされない主人公の心を象徴するものであるのだろう。


2003.02.15 SAKATAM


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