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淸明上河圖畫讃其五 | |
魏秋颿 |
車轂人肩困撃磨,
珠簾十里湧笙歌。
而今遺老空垂涕,
猶恨宣和與政和。
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淸明上河圖 畫讃 其の五
車轂 人肩 撃磨するに 困じ,
珠簾 十里 笙歌 湧けり。
而今 遺老 空しく涕を垂らし,
猶ほも恨む 宣和と 政和とを。
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◎ 私感註釈
※魏秋颿:西台御史。
※淸明上河圖畫讃其五:『清明上河図』の画讃にある絶句の其の五。清明節の帝都の川((汴水)の畔の殷賑を描いた)絵の画讃詩其の五。或いは、天下が平和に治まっていた時代の帝都の川((汴水)の畔の殷賑を描いた)画讃の絶句の其の五。普通は前者の意を採る。 *北宋末、張擇端によって描かれた北宋の首都・汴梁(開封/汴京)とそこを流れる汴河の風物絵巻物である。『清明上河図』に書き添えられた詩。複製が北京で売られており、伊勢丘人先生が手に入れられ、絵画の後に書かれている画讃部分の詩文の釈文をされた。本ページの原詩は伊勢丘人先生のものに依る。 ・淸明上河圖:〔せいめいじゃうがづ;qing1ming2shang4he2tu2〕画題。普通は『清明節の帝都の川((汴水)の畔の殷賑を描いた)絵』の意とするが、果たしてこの絵は本当に清明節(新暦・四月五、六日頃)を描いたものか。『天下が平和に治まっていた時代の帝都の川((汴水)の畔の殷賑を描いた)絵』の方が相応しくないか。北宋末、張擇端によって描かれた汴水の流れる北宋の首都・汴梁(開封/汴京)の賑わいを描いた絵巻物。 ・淸明:天下が平和に治まる。または、清明節で、二十四節気の一。新暦の四月五、六日ごろに当たる。 ・上河:帝都の川。また、川を溯る。 ・畫讃:絵に書き添えたほめことばや詩歌。
※車轂人肩困撃磨:(過去の都のさまを回想すれば、)車の車軸や人の肩先が行き詰まってうちすれあう(程に賑やかであり)。 ・車轂:〔しゃこく;che1(ju1)gu3○●〕くるまのこしき。「轂」は車の矢骨の集まる所。 ・人肩:ひとの肩先。 ・困:くるしむ。なやむ。ゆきづまる。こまる。つかれる。また、うつ。たたいてかたくする。≒捆。 ・撃磨:うちすれあう。=撃摩。
※珠簾十里湧笙歌:(街並みは)美しくて立派なカーテンが、十里ほども続き、(そこでは)笙(しょう)のふえにあわせた歌声が湧き起こって(繁栄したありさまであった)。 ・珠簾:〔しゅれん;zhu1lian2○○〕真珠のすだれ。美しくて立派なカーテン。 ・十里:5662.54メートル(宋・元)。『東京夢華録』(孟元老著、入矢義高・梅原郁訳注 平凡社・東洋文庫) の「東都の外城」33ページ「旧京城」では、「旧京城は周囲およそ二十里ばかり。」とある。内城の街の端から端までを抜く距離である。 ・笙歌:〔しゃうか;sheng1ge1○○〕笙(しょう)のふえと歌。笙(しょう)にあわせて歌う。
※而今遺老空垂涕:(それらのような麗しい光景は過去の夢となり、)この節、(北宋の)遺民が(北宋を偲び)空しく涙を流して。 ・而今:この節。現今。きょうび。今。南宋・岳飛の『滿江紅』登黄鶴樓有感に「遙望中原,荒煙外,許多城郭。想當年,花遮柳護,鳳樓龍閣。萬歳山前珠翠繞,蓬壺殿裏笙歌作。到而今、鐵騎滿郊畿,風塵惡! 兵安在?膏鋒鍔。民安在?填溝壑。歎江山如故,千村寥落。何日請纓提鋭旅,一鞭直渡淸河洛。却歸來、再續漢陽遊,騎黄鶴。」と、似た部分ある。 ・遺老:南宋・陸游の『夜讀范至能攬轡録言中原父老見使者多揮涕感其事作絶句』に「公卿有黨排宗澤,帷幄無人用岳飛。遺老不應知此恨,亦逢漢節解沾衣。」
や・南宋・張孝祥の『六州歌頭』に「長淮望斷,關塞莽然平。征塵暗,霜風勁,悄邊聲。黯銷凝。追想當年事,殆天數,非人力。洙泗上,絃歌地,亦羶腥。隔水氈鄕,落日牛羊下,區脱縱橫。看名王宵獵,騎火一川明,笳鼓悲鳴,遣人驚。 念腰間箭,匣中劍,空埃蠹,竟何成!時易失,心徒壯,歳將零。渺神京,干羽方懷遠,靜烽燧,且休兵。冠蓋使,紛馳鶩,若爲情?聞道中原遺老,常南望,羽葆霓旌。使行人到此,忠憤氣填膺,有涙如傾。」
とある。 ・垂涕:涙をたらす。 ・涕:なみだ。鼻水。
※猶恨宣和與政和:なおも恨めしく思うのは、(北宋末期・徽宗の時代、政務や軍備を怠って「花石綱」というような趣味を重んじた政治を行い、退嬰的で驕奢な生活に明け暮れた)宣和時代や政和時代のことである。 ・猶:なお。 ・恨:心に深くうらみをもつこと。 ・宣和:〔せんわ、せんな;Xuan1he2○○〕北宋の年号。宣和元年(1119年)~宣和七年(1125 年)の間。徽宗の治世で用いられた。北宋末の贅沢で無駄遣いの多かった時代(自註)。張公燕の『淸明上河圖畫讃其一』に「通衢車馬正喧闐,祗是宣和第幾年。當日翰林呈畫本,昇平風物正堪傳。」とある。 ・與:…と。 ・政和:〔せいわ;Zheng4he2●○〕北宋の年号。政和元年(1111年)~政和八年(1118 年)の間。徽宗の治世で用いられた。北宋末の贅沢で無駄遣いの多かった時代(自註)。「猶恨宣和與政和」の句では「宣和・政和」の順になっているが、歴史的には「政和・宣和」(政和元年~政和八年(=重和元年=1118年)・重和二年(=宣和元年=1119年)~宣和七年(翌・1126年は靖康元年で、翌・1127年に(北)宋滅亡)の順。これは平仄との関係のため。この句は「●●○○●●○」(猶:○)とすべきところで、もしも「猶恨政和與宣和」とすれば「○●●○●○○」となり、第六字めが不都合となることに因る。
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◎ 構成について
韻式は、「AAA」。韻脚は「磨歌和」で、平水韻下平五歌。この作品の平仄は、次の通り。
○●○○●●○,(韻)
○○●●●○○。(韻)
○○○●○○●,
○●○○●●○。(韻)
2010.7.26 7.27 7.28 7.29 |
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