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 このページは井古綆先生です。
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釈文・読み下し
贈尚衣奉御井公墓誌文并序私見
 井古綆

この文は「第二回井真成シンポジウム プログラムを元に書い ています。


(02)などは桝目の行数を表す。原文はこちら




(02)「国号は日本」。「国は日本と号す」と読み下すと後々の読み下しに間違いが生じる。

(03)「銜」阿倍仲麻呂の詩に「命を銜みて本国に使いす」があり、残影が見えるようだ。「礼楽を踏し、衣冠を襲し」と読む。これは、「踏襲」を二分し、「礼楽」、「衣冠」を互文形式に対句にしている。

(04)「列」朝、私は「参朝」を考えたが列の「立刀」の部分の残影がある。「矣」は日本語では読まないが、これは現在の「!」であり、この「矣」が井真成の生涯の全てを表現している。これは重大な見落としです。「強学不倦、問道未終」は対句。

(05)ここも逢遇を互文対句形式を用い、下句の「隙は奔駟に逢う」は「白駒過隙」と同意義だが、視点を逆にして、隙(井真成の在唐 17年間)を奔駟(井真成)が急いで過ぎ去った。
 上句の「壑は移舟に遇う」とすれば、「舟壑」は舟を壑に蔵す意味で(大切にする)あれば、壑すなわち唐王朝が井真成を重用していたが、移舟すなわち彼が早々とあの世に移り去った、と推理できる。
 しかし私は「壑」を水と考えたい。(残影がみえるようだ)古来人の死に際しては、「落花流水」、「逝水」など水は重要な語であり、更に舟の縁語でもある。故に私は水(唐王朝)は「移舟(井真成)に遇い」、と考える。

(06)「?」日。ここに該当する字は一から十、廿、卅であり 葬儀が2月4日、もし元日がかれの死亡日であれば、遺体の損傷が進む のを如何にしたであろうか。冬期とはいえ無理ではなかろうか。
 嘗ては始皇帝、諸葛孔明など遠地より帰るにあたっては魚の干物を 利用したと聴く。
 玄宗皇帝が正月七日に長安を発ち、二十七日に洛陽に着いたのが史実であれば、玄宗は井真成の葬儀には接していない、と思うが如何であろうか。ただし彼の死亡は報告し、追贈を賜ったであろう。
 この追悼文は名文であり、当時は科挙も盛んで右史(右筆)にも事欠かないはずだ。以上を勘案して私は「廿」としたい。

(06)「乃」は「すなわち」ではなく「なんじ」と読む。何故ならば(08)に「即」の字があり、同意義のこの字を使う必要が無い。
 これは玄宗皇帝が井真成の死亡を確認したと、とるべきである。
 下三字分の空欄は皇帝に敬意を示すものではなく、玄宗が死者に 対する畏敬の念からで、皇上を次の行(ぎょう)の最上段よりはじめても余白は充分にある。現在我々が「私」を下段から書き出す源流であろう。

(07)「哀」傷、ここに哀を使えば三箇所に哀を使うことになり、 不自然だ。下の字が傷であれば「深く傷む」としたい。残影が見えるようだ。一字の空欄は一呼吸して重々しさを表現する為か。
(08)「給」官につづく字は「官給」があるがここでは熟語ではない。官の前の「令」は「使」と同じく使役型に用いる字であり、「葬は官を令て給わしむ」しかし「官給」は金銭、物品が主で葬に対 しては些か違和感がある。「葬は官をして行わせしむ」としたならば 行の字の残影がみえないか?

(09)「東」残影があるようだ。丹旐の行くは「哀れなり」と読み たい。

(10)嗟きて遠「望」すればと読む。「兮」は意味の無い字で前 後を繋いで調子をとるだけ。「頽暮日」は漢詩に多用する語で、「夕日」、「夕陽」など多い。「頽」を韻に用いる場合は「暮日頽」として、只単に「日が暮れる」程の意味である。「夜台」は「夜の露台」亦は「宮中の展望できるところ」、単に「宮中」をも示す。
 一字の空欄は玄宗の辞として一線を劃す為、即ち字数こそ違え絶句の形式を用いて、陽韻の「常、方、郷」をそれぞれ一、二、四句末に押韻している。

(11)「命」私も「乃」をすなわちと読んでいたため、碑文を理解するのに時間を要した。「別」の字を考え(残影が見える)「乃」を「なんじ」と読むと全文を通して意味が一貫し、惜別の情が纏綿とした追悼文に成ると思う。「於」は「于」と同じく「に」である。

         推論
 「遠方」「既に」「窮郊」に字から推測すれば、玄宗皇帝は葬儀の二月四日 には洛陽に東幸していて、この墓誌は後日に副葬したのではないか。
 若し管見の「乃と別るるは天の常か?」が正しければ、生前彼の宮中での評価を実証するもので、破格の追贈の尚衣奉御も理解できる。
 おおよそ追悼文は美辞麗句に包まれるものではあるが、この一句を以って井真成の真価を表現し亦、玄宗が楊貴妃を溺愛した後年とは違い、青年皇帝の人間味に溢れた時代を物語っている。
 ともあれ井真成は千幾百年の後、身後に名を垂れ、日中間に長橋をかけた事は、かの阿倍仲麻呂に匹敵する偉業をなしえた、素晴らしい人物には間違いない。


写真は、「第2回 井真成市民シンポジウム プログラム」(2006年3月19日藤井寺市民会館大ホール)の資料『いのまなり 市民シンポジュウム資料』より。


<付記> 我国の遣唐留学生「井真成」の墓誌が発見されたのは2004年10月10日で、翌日の新聞で大々的に発表され、わたくしも人後に落ちないで非常な感動を覚えましたが、墓誌の欠落部分の文字の推理判読を志したのは、次のような経緯があります。
 その後3年を経てようやくパソコンで写真を送信できるようになり、この度このホームページに判読した経緯を掲載して戴きました。勿論わたくしは学歴もありませんので、間違いも多々あると思います。例えば井真成の死亡日などは、我国には初七日、三七日(みなのか)などの風習を考えての推定ですが、浅学のわたくしには唐代の中国の風習には知識を持ち合わせていません。わたくしが筆名に「井」をつけていたことで、「井真成公」に勝手に親近感を抱いており、この記事文が今後広く諸兄の関心を誘い、様々な異見や議論が生まれることを切に希望いたします。







2008.5.14




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