ここでは、陸游の詩詞を集めました。
陸游、号して放翁は、南宋の前半を生きた悲憤慷慨、情熱と反逆の詩(詞)人である。、1125年(宣和七年)南宋の始まりの二年前に生まれ、翌年、京に金軍が侵攻し、皇帝が連れ去られるという靖康之変が起こり、宋(北宋)が滅んだ。嬰児の陸游は、この混乱の中、京(開封)から故郷の山陰(現・浙江省の紹興)への逃避行を遂げたわけである。抵抗の詩人の原点がここにある。彼の作った詩詞の多くは、北方に興った女真族の金との抗争を謳い、悲憤慷慨の詩詞をよくして、愛国詩人と云われている。
しかしながら、単に豪放詞派とのみは云えない。それは、彼が生きた時代、彼が経てきた体験が、その作風に大きな影響を与えたからである。そのことは、彼の詩集『劍南詩稿』八十五巻にある膨大な数の(一万近い)作品から、その制作年次が判るため、彼の生きた各時代の心情が判るということである。また、後世編纂の『放翁詞』から探り得る。彼の反逆の詩人ぶりは、その号からでも充分ではあるが。彼の号の放翁は、人が陸游の奔放無礼な態度を譏ったため、そのことに基づいて「奔放な老人(自由で、物事にとらわれない人)」と名乗ったもので、自分の人生観を号にする古来の例に則ってはいるもののなかなかユニークな号である。
陸游の人生を見るに、起伏や挫折が幾つかある。先ず、一番に挙げられるのは、妻の唐との離別である。これは「釵頭鳳(紅酥手) 」に、そのときの激情が謳われている。心が打ち震える強烈な詞である。
社会的には、1154年(紹興二十四年)進士の試験で、秦檜の孫との科挙の一位争いで、実力は陸游にあったが、政治的な配慮で秦檜の孫が勝ったとされた。その後、孝宗の時、進士出身の地位を賜り、樞密院編修を始めとした官吏生活に入る。このことなどから、秦檜を始めとする官界に対する憎しみもた持った。晩年の詩「追感往事」で「ゥ公可歎善謀身,誤國當時豈一秦。」と、五十年前のことをはっきりとうたっている。官僚機構と政治に対する反発にくわえて、北伐を主張することでも、疎ましがられた陸游は、幾度も免官になった。その間には、陶潛のように農村での隠遁生活を謳い、出仕し、南鄭の前線へ赴いては、体験を踏まえて、中原を謳ったりした。
陸游は、その時代その時代で、多様な詩詞を作った。初恋の妻唐をうたった激情の婉約詞、陥落した中原を想う豪放詞、陶淵明に通じる隠遁のうた、そのどれもに共通してあるのが、抵抗、叛逆、そして無念の思いである。とりわけ、かれの最期の詩「死去原知萬事空,但悲不見九州同。王師北定中原日,家祭無忘告乃翁。」は、その思いが滲んでいる。
それでは陸游の抵抗と激情の詩詞を味わい下さい。
一懷愁緒,幾年離索。錯,錯,錯!
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なお、詩詞の字句に異同がある場合は、出来得る限り、原初のものとされている方を採用しました。但し、意味の通りが極めて悪いと思われる場合のみ、通用の方を採用しました。その場合は、その旨を記しています。
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