ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしました。

人物スケッチ  か行


フランス語のアクセント記号は、文字化けするので省略してます。正しくは書籍などを参考にしてください。


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クラヴィエール (エティエンヌ・クラヴィエール) 1735.1.29-1793.12
Etienne Claviere (H13.1.13.UP)

外国人でありながら革命に身を投じた。

ジュネーヴの銀行家でミラボーの財政問題での協力者。アッシニア紙幣を考え出した一人。

1792年ジロンド派の大蔵大臣となる(その時、ロランが内務大臣、ダントンが法務大臣となっている)。10月、ジロンド派と山岳派の闘争の中で、ジロンド派がダントンの機密費の使用報告を求めた際、それを監査し承認する。1793年12月、獄中で自殺。

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クレベール (ジャン・パプティスト・クレベール) 1753.3.9.-1800
Jean-Baptiste Kleber (H13.2.24.UP)

革命下で活躍した軍人。

1789年ベルフォールの国民衛兵。1792年、オ・ランの義勇兵第四大隊長、1793年、将軍としてヴァンデ軍制圧に赴く。9月にはトルフの隘路で敗退したものの、12月にはヴァンデに壊滅的な打撃を与えた。

1794年初夏にはオーストリア軍相手に勝利する。1800年カイロで暗殺される。

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グレゴワール神父 (アンリ・パプティスト・グレゴワール) 1750-1831
Henri Baptiste Gregoire (H11.4.24.UP)

革命派聖職者の指導者。
グレゴワール神父

司祭。三部会に聖職者代表で選出され、革命派聖職者の指導者として立憲議会(国民議会)で活躍。ダヴィッドのテニス・コートの誓いの絵では中心に立っているように、特に聖職者に対する影響力が強かった。

その後、聖職者民事基本法に宣誓しブロワの宣誓司教になる。国民公会ではジャコバン派には属さないものの、山岳派として働く。非キリスト教化には反対の立場を取り、1793年には、公安委員会と手を組んで理性の祭典の開催を妨害しようとしたが、国民公会の決議を変えることはできなかった。

テルミドール反動後、五百人会議議員ナポレオンの元では立法府、元老院の議員となる。コンコルダに反対して司教を辞任。ナポレオン帝国では伯爵に叙され、王政復古期に引退。

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クレルモン−トネール 1757-1792
Clermont-Tonnerre (H11.4.6.UP)

貴族出身の立憲君主派議員。

ドーフィネの貴族として生まれ、革命直前まで各地の司令官を歴任した軍人。三部会の貴族身分の議員として1789年に選出され、第三身分代表との合同を推進するのに寄与した。最初は封建的諸特権廃止に自由主義的立場から賛成。しかし、革命の進展に伴い、イギリス的立憲君主制である二院制を唱え、王の拒否権を支持したため、民衆の反感を買った。

ジャコバン派に対抗するため、王党クラブを結成したが、バルナーヴに激しい非難を浴びてまもなく解散。以後、政治的発言を控え、立法や財政などに関与するのみであった。しかし、1792年、八月十日のパリ市民の蜂起で虐殺された。

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コロー・デルボワ 1755-1794
Collot d'Herbois (H11.3.9.UP)

ロベスピエールを裏切ったが、ロベスピエール派として流刑された。

金銀細工職の子としてパリに生まれる。劇団に入り、各地を巡業し人気を得る。革命では、当初「一七八九年クラブ」に属した。1790年の連盟祭では革命劇を上演し大成功した。

ジロンド派内閣への入閣を図ったが失敗。その後、山岳派に移る。1792年8月10日の革命以降、パリ・コミューンの一員となり九月の大虐殺に加担。1793年には公安委員会に入る。

職業柄鍛えられた発声法による扇動的演説は、革命の士気鼓舞に貢献した。恐怖政治の主唱者であった彼は、リヨン虐殺を行い、この責任を問われることを恐れロベスピエールを裏切り打倒に動いた。

しかし、結局、テルミドールのクーデターの後は恐怖政治の責任を追及され、テルミドール派によってギアナに流刑され、同地で亡くなった。

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コンドルセ 1743-1794.3.29. (H11.2.16.UP)
Marquis de Condorcet

元数学者の革命家。

侯爵の子としてピカルディに生まれた。初め、「積分論」などを著し、数学者として名声を得た。のち、テュルゴヴォルテールなどに接近して経済論文を書いた。「百科全書」の経済学の項目を執筆するなど刊行に協力し、1782年、アカデミー・フランセーズの会員になる。また、夫人はサロンを開いた。

革命では、立憲王党派の立場を取ったが、ヴァレンヌの逃亡後、王政廃止に傾く。立法議会では財務委員を務め、公教育委員会委員長として公教育の組織に関する法案を発表し、これがその後のフランスの教育制度の基礎となった。

国王裁判では、処刑に反対山岳派との対立を次第に深めた。1793年、ジロンド派憲法の草案を起草し、ジロンド派追放ではジロンド派支持のパンフレットを発刊してロベスピエールらから非難された。

いずれの党派にも属さなかったが、恐怖政治の下では、ジロンド派に属すると嫌疑をかけられ、逃亡潜伏を続けた。

逃亡中に、「人間精神進歩の歴史概観」を執筆していたが、完成間際に逮捕され、獄中で服毒自殺した。

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