本能寺 | ||
頼山陽 |
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「本能寺, 溝幾尺?」 「吾就大事在今夕。」 茭粽在手併茭食, 四簷楳雨天如墨。 老阪西去備中道, 揚鞭東指天猶早。 「吾敵正在本能寺,」 「敵在備中汝能備!」 |
頼山陽『日本樂府』 本能寺 |
「本能寺,溝 は幾尺 ぞ?」
「吾 大事を就 すは今夕 に在り。」
茭粽 手に在 り茭 を併 せて食 ふ,
四簷 の楳雨 天墨 の如し。
老 の阪 西へ去れば備中 の道,
鞭 を揚げて 東に指 せば 天猶 ほ早し。
「吾 が敵は正 に 本能寺に在り」,
「敵は備中 に在り汝 能 く備 へよ!」
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頼山陽『日本外史』卷十四の十九葉「光秀之逆」「本能寺之變」「大江山老坂」
◎ 私感註釈
※頼山陽:安永九年(1780年)〜天保三年(1832年)。江戸時代後期の儒者、詩人、歴史家。詩集に『日本樂府』、『山陽詩鈔』などがある。
※本能寺:京都にあった本能寺。ここでは本能寺の変のことを謂う。本能寺の変は、天正十年(1582年)六月二日、織田信長の家臣・明智光秀が謀反を起こし、京都・本能寺に宿泊していた主君・信長を襲い、死に至らしめた事件。(蛇足になるが、再建された本能寺の所在地は寺町御池だが、当時は西洞院小川にあった。 *この作品は『日本樂府』(写真:上段)にある。その『日本樂府』の自註では(写真:上段左部分)同一の夜の出来事とされているが、頼山陽自身の『日本外史』卷之十四の十九頁では、相当期間が長い間の出来事であったのが分かる。なお、明智光秀の『辭世』に「順逆無二門,大道徹心源。五十五年夢,覺來歸一元。」がある。
※本能寺,溝幾尺:(明智光秀のことば)「本能寺を囲むみぞの深さは、どれほどだろう」。頼山陽の『日本外史』卷之十四の十九頁表に「會于西坊爲連歌。或供粽焉。光秀不脱包而食。卒然問傍人曰。本能寺隍深幾尺。衆異之。既罷歸龜山。」(写真二段目)とある。 ・溝:〔こう;gou1○〕ほり。みぞ。『日本外史』の表記では「隍」(〔くゎう;huang2○〕堀。からぼり)。
※吾就大事在今夕:(明智光秀のことば)「わたしは今夜、大事な事柄に着手する」。 ・就:つく。なす。 ・大事:重大な事柄。ここでは、明智光秀の下克上のことになる。 ・今夕:今宵(こよい)。今夜。
※茭粽在手併茭食:(明智光秀は考え事をしていたので)ちまきを手に持って、(包んだ)皮(=竹の葉)ごと(ちまき)を食べて。 ・茭粽:〔かうそう;jiao1zong4○●〕ちまき。もち米を葦の葉や竹の葉などで包んで蒸した餅。 ・在手:手に持っている。 ・併茭食:(ちまきを包んだ)皮(草の葉)を(ちまきと)一緒に食べる。考え事をして食べることが疎かになった時の描写。頼山陽の『日本外史』では、連歌の会で本能寺の濠の深さを尋ねた時のさまとなっている。頼山陽の『日本外史』卷之十四の十九頁表に「會于西坊爲連歌。或供粽焉。光秀不脱包而食。卒然問傍人曰。本能寺隍深幾尺。衆異之。既罷歸龜山。」とある。
※四簷梅雨天如墨:四方の庇(ひさし)から滴(したたり)り落ちる激しい梅雨で、空は墨を流したようだ。 ・四簷:四方の庇(ひさし)から滴(したたり)り落ちる激しい雨のさまを謂う。 ・簷:〔えん;yan2○〕ひさし。のき。=檐。 ・楳雨:=梅雨。つゆ。「梅」字は、原典では別体の「楳」字。『信長公記』卷十五の廿九(太田牛一:信長の旧臣 角川文庫版414ページ)では、(前出『日本外史』に記述されている)西坊の連歌の会で、明智光秀が作った発句が記されている:
「ときは今あめが下しる五月哉 光秀」とあり、続けて「水上まさる庭のまつ山 西坊」と、更に「花落つる流れの末を關とめて 紹巴」とある。古来、この歌に裏の意があるということは有名。
なお、頼山陽の『日本樂府』の自註では、「時者今天下知五月哉」(時は今だ、天下を統治する梅雨の五月であることだなあ)(上段写真の左部分)となっている。 ・明智氏は土岐氏の出で、「土岐」とは、ここでは明智光秀自身を指す。
ときは 今 あめが 下 しる五月 哉 時 は今 雨 が下 濕 る五月 哉 (今は、雨が降って湿っている梅雨の五月であることだなあ) 土岐 は今 天 が下 治 る五月 哉 (土岐=明智が今天下を統治する梅雨の五月であることだなあ)
※老阪西去備中道:老の坂を西に行けば備中(=織田軍の西部戦線の展開していたところ)への道程となるが。 ・老阪:地名。「おいのさか」。=老の坂(=老ノ坂)=大江の坂。京都盆地(の現・京都市)と亀岡盆地(の現・亀岡市/旧・(丹波国の)亀山)との境にある峠。山陰道の京都西口に該る要衝。名勝・嵐山の南西側。天正十年(1582年)、明智光秀軍は毛利征伐の支援軍として、亀山(現・亀岡)を出発したが、老ノ坂を東に下って行き、京都の本能寺へ主君・信長を討ちに向かった岐路となった所の名。頼山陽の『日本外史』卷之十四の十九頁裏に「宣言奉命西援秀吉。夜度大江山。至老坂。右折則備中道也。光秀乃左馬首而馳。士卒驚異。既渉桂川。光秀乃擧鞭東指。颺言曰。吾敵在本能寺矣。衆始知其反也。」とある。 ・備中:(びっちゅう)。備中国(びっちゅうのくに)のこと。現・岡山県西部。当時、羽柴秀吉は、織田軍団の西方軍の長として、備中高松城を攻めていた。織田軍の西部戦線の展開していたところ。
※揚鞭東指天猶早:(明智光秀は)鞭を振りあげ、東の方(=信長の宿泊している京都の方)を指す(その信長打倒の決断の指揮をした時)、夜明けには、まだ早かった。 *『日本外史』卷之十四の十九頁裏に「宣言奉命西援秀吉。夜度大江山。至老坂。右折則備中道也。光秀乃左馬首而馳。士卒驚異。既渉桂川。光秀乃擧鞭東指。颺言曰。吾敵在本能寺矣。衆始知其反也。」とある。 ・揚鞭:むちを振りあげる。 ・東指:東の方を指さす。老いの坂から東の方に該る信長のいる京都の方を指すこと。 ・指:さす。さししめす。ゆびさす。 ・天猶早:夜明けは、まだまだ早い意。未明のさまの意。
※吾敵正在本能寺:(光秀のことばで)「わが敵(信長)は、ちょうど本能寺にいる」。 *『日本外史』卷之十四の十九頁裏に「宣言奉命西援秀吉。夜度大江山。至老坂。右折則備中道也。光秀乃左馬首而馳。士卒驚異。既渉桂川。光秀乃擧鞭東指。颺言曰。吾敵在本能寺矣。衆始知其反也。」とある。 ・吾敵:わが敵。光秀にとっての「敵」とは信長のこと。 ・正在-:ちょうど…にいる(ある)。
※敵在備中汝能備:(歴史を記録する者としての頼山陽よりのことばで)「(光秀を討つことになる本当の)敵(秀吉)は備中にいるので、なんじは、そちらの方の備えをしっかりとするように」と。 ・敵:「備中にいる敵」とは、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉のことになる。 ・汝:おまえ。なんぢ。この語は作者・頼山陽から当該歴史の主題となる者(ここでは、明智光秀)に対して呼びかけて使う。『史記』の著者・司馬遷が「太史公曰:…」と、歴史上の人物に対して批評を下す手法に倣う。 ・能:よく。 ・備:そなえる。あらかじめ用意する。
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◎ 構成について
楽府体。韻式は、「aabbccdd」。韻脚は「尺夕 食墨 道早 寺備」で、平水韻入声十一陌(尺夕)、入声十三職(食墨)、上声十九皓(道早)、去声四寘(寺備)。この作品の平仄は、次の通り。
●○●,○●●?(a韻)
○●●●●○●。(a韻)
○●●●●○●,(b韻)
●○○●○○●。(b韻)
●●○●●○●,(c韻)
○○○●○○●。(c韻)
○●●●●○●,(d韻)
●●●○●○●。(d韻)
平成24.11.23 (11.24〜25嵐山紅葉狩) 11.26 11.27 11.28 11.29 |
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