DB小説目次HOME

風のように

10

1112131415161718192021


第3章

 そのあと、悟空は外に大きなかまどを作って、その上にドラム缶を据え、散水栓からホースを伸ばして中に水を入れて、かまどの火を点けた。
 食器を洗いながら台所の窓からそれを見ていたチチは、
(キャンプみてえだな)
と苦笑した。
 ドラム缶の八分目まで水を張り終えてから、悟空は家の中に入ってきてチチの横に立つと、泡のついた皿を手早く水で流し始めた。
「あ、おらがやるからいいだよ、悟空さ」
「ふたりでやった方が早く片づくじゃねえか。その間に風呂も沸く」
 チチが洗剤を含ませたスポンジで食器を洗っていくそばから、悟空がそれを水で流してゆく。やっているうちにだんだんと二人の息があっていき、まるで熟練工の流れ作業のようにスムーズに進んだ。
 いつの間にか鼻歌を歌っている悟空の横顔を、チチは時々盗み見ては幸せな気持ちに浸っていた。
(これが夫婦ってもんだべ)
 あっという間に片づけは終わり、湯加減を見に行った悟空が、
「まだぬるいみてえだな」
と戻ってきた。
 チチは思い出して、台所の収納から大鍋のフタを取り出すと悟空に渡した。
「フタした方が早く沸くべ」
「そりゃそうだな。おめえ頭いいな、チチ」
 ドラム缶にフタをしに行った悟空がしばらくして外から叫んだ。
「沸いたぞ!」

 チチの勧めで悟空が先に風呂に入ることになった。石鹸やタオルをチチから受け取ったあと、やおら立ち上がると、悟空はいきなり道着を脱ぎ捨てた。
 隆起した胸の筋肉を見て眩しそうにまばたきするチチの前で、次は無造作に下着に手をかける。
 とたんにチチはうぎゃーっと叫び、慌ててくるりと背を向けて叫んだ。
「悟空さ! 家ん中で裸になんねえでけれ!!」
「へ?」
悟空は目をキョトキョトさせた。
「風呂入るのに裸になんねえでどうすんだ?」
「とっ、とにかく、おらの前で裸は禁止だ! わかっただか」
 それだけ言い捨てると、チチは急いでまた寝室に飛び込んだ。
「変なやつ……なんで家ん中で裸になっちゃいけねえんだ?」
 仕方なく悟空は脱いだ道着を丸めて持つと、外に出て風呂の前で下着を取った。

 寝室でチチは動悸が収まるのを待って、「結婚の心得」を開いた。「第5章 初夜の心得」のページを繰ると、震える指で一行一行たどりながら読み進んだ。
(そうだべ……このあとが大事なんだべ。裸くれえで驚いてちゃいけねえんだ。しっかりするだよ、チチ)
 一生懸命自分で自分を叱咤激励するものの、今までボーイフレンドひとり作らずに来たチチにとって、この難関をたったひとりで乗り越えるのはあまりに心細かった。耳年増な分、知識だけは腐るほど持っていたのだが……。

 その時、家の外から悟空の呼ぶ声が聞こえた。
「チチー、おーい、チチー、ちょっと来てくれー」
「なんだべ、悟空さ。おらに背中でも流して欲しいんか」
 勝手口から出てきたチチは、頬を染めながら悟空の方を見ないようにして言った。
「違うって。なんか足の下に敷くもんねえか? あちっ、何でもいいから持って来てくれ。あちちっ」
「へ?」
 見てみると、悟空はドラム缶の縁に両腕をかけ、ぶらさがるようにして風呂につかっている。聞けばドラム缶の底が焼けて足をつけられないほど熱いらしいのだ。

 チチは慌てて台所にとって返すと、何か底に沈めて足場に出来るものはないかと考えた。
「鉄鍋の木ブタ……じゃ足が一本になって不安定だな。そうだ、これがいいべ」
 悟空のところに戻ると、チチは持ってきたものを差し出した。
「まな板!?」
「んだ。これなら安定がいいだろ? この上に乗ればいいだよ。悟空さ」
「そっかぁ。やっぱ、おめえって頭いいな、チチ」
「んだども、これを風呂用にしちまうと、明日っから食事が作れねえだな」
 悟空がまな板を風呂の底に沈めてからチチがそう言うと、悟空は死ぬほどうろたえて叫んだ。
「ええっ、そっ、そんな―――」
 チチはおかしそうな顔でくすくす笑った。
「うそだよ。それは予備のやつだべ。ほんとに食いしんぼだな、悟空さは」
「なんだ、オラ、本気にしちまったぞ。……ああ、よかった。チチのうめえ料理を食えなくなったらどうしようかと思ったぞ」
 無邪気に笑っている悟空の顔を見ながら、チチも満ち足りた想いで笑った。


 満天の星が広がっている。湯船の中からチチは空を見上げた。一番近いお隣さんまで数キロはある、この静かな静かな新居に今、夫とふたりきりなのだ。
 光と言えば台所からもれる灯りだけで、家の周りは漆黒の闇が広がっていた。
 チチは風呂につかったまま、台所の窓ごしに家の中をうかがった。悟空の姿はない。「絶対に見ねえでけろ」としつこいくらいに念を押しておいたので、きっと先に寝室にでも行っているのだろう。
 寝室―――その先のことを考えただけでチチの心臓は早鐘を打った。なるべく頭の中を空っぽにして風呂から出ると、体を拭き、純白のパジャマに着替えた。花嫁ならネグリジェの方がそれらしいかとも思ったのだが……。
(やっぱりネグリジェは腹が冷えるべ)

 チチはそっと寝室のドアを開けた。悟空は先にベッドに入り、こちらに背中を向けている。「第五章 初夜の心得」を思い出しながら、後ろ手にドアを閉めた。

―――初夜の心得   夫は先に床に入り、妻はそのあとからそっと入ります。恥ずかしい時は「お願い、あっち向いてて」などと言って、夫に向こうを向いていてもらいましょう。あなたの恥じらいが伝わり、夫のあなたに対する愛情も増すことでしょう。

「お、お願げえだ……。あっ、あっち向いててけろ」
 ひっくり返った声で悟空の背中に向かってそう言うと、チチは思い切ってその隣に滑り込んだ。すでに向こうを向いている相手にあっちを向いてくれというのも変だとは思ったが、そういう場合にどう言えばいいのか本には載っていないのだからしょうがない。
 悟空は無言だった。
(悟空さも緊張してるんだべ)
 チチの体は今や全部が心臓になったようにバクバク言っている。まるで自分が丸ごと時限爆弾になったみたいだ。
(お、おら、悟空さに触れられたら爆発しちまうかもしんねえ……)
 のどがカラカラに乾いている。チチは生唾を何度も飲み込みながら、体を固くして悟空の反応を待った。
 実際にはほんの5分ほどだったのだろうが、時が止まってしまったかのような長い長い緊張の時間が過ぎた。
チチは少し体の力を抜いて、かすかに身じろぎした。
「ご、悟空さ……?」
 蚊の鳴くような声でそうっと呼んでみる。
 返事はない。
「悟空さ!?」
 がばっと跳ね起きると、耳をすました。
「ま、まさか……」
 いや〜な予感がして、相変わらず壁の方を向いている悟空の顔を両手でひっつかみ、こちらへぐいっと向けてみた。
「悟空さーーーーーーっ! 寝るなっ、花嫁をほっぽってひとりで寝るんじゃねえ!」
 肩すかしをくらったチチの叫びが空しくパオズ山に響き渡る。健康優良児の悟空は夜は早く眠くなってしまうことなど、チチには知る由もなかった。

第2章へ / 第4章へ

DB小説目次へ戻る

HOME