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風のように

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第8章

 山の緑は猛々しいほどに日毎に濃くなって行く。植物も獣も虫も夏に向かってどんどん生命力を増して行くのが、ここにいると肌で感じられる。
 気の早いセミが鳴き出す声にチチは耳を澄ませた。ふっくらと乾いた洗濯物を畳んでしまっているうちに太陽は向こうの山に沈み、空はだんだんとかげりを帯びて行く。
 悟空はまだ帰って来ない。このところ日が長くなったせいだ。
 お日様が沈んだら帰ってくるだぞ―――小さい頃、外へ遊びに行く自分に父親がよくそう言い聞かせていたのを思いだし、チチはひとりでクスッと笑った。
(悟空さってほんと、子どもみてえだべ。おらは結婚したんじゃなくて、子どもを一人産んだようなもんだな)
 気長に待とうと腹をくくってから、悟空と早く夫婦にならなくてはと焦る気持ちはチチの中からすっかり消えていた。あきらめとも開き直りとも違う。悟空というひとりの男と一緒に暮らすことがチチには面白くなっていた。
 整った顔立ちとたくましい体つきは充分 “男” なのに、そのイレモノの中に入っている心はいつまでも無邪気な子どものままだ。
 そして、何気ない彼の仕草にチチが密かに胸をときめかせていることなど、当の本人は露ほども気づいていない。
 それが切なくて悔しい反面、何ものにも縛られないこの男が、自分を生涯の伴侶に選び、今こうして共に暮らしているということが嬉しく、誇らしくてたまらない。

 悟空が帰ってきた。
「お帰り、悟空さ」
「おう、ただいま」チチを見て悟空がにこっと笑い、それから鼻をちょっとくんくんさせて「今夜は何だ?」と訊く。
 もう何十回と繰り返されたやりとりなのに、悟空の足音が聞こえ、ドアが開くたびにチチの胸は弾むのだ。
 チチはいつものように微笑んで答える。「冷しゃぶだべ。今日は暑かったからな」

 夕食の片づけを終え、チチはくつろいでいる悟空の前にいそいそとやって来た。後ろ手に何か隠している。
「悟空さ。晩御飯のあとのお楽しみと言ったら何だべ?」
「デザートか? もうちょっとだけ待ってくれ。オラ、食い過ぎちまって今は入らねえ」
 チチは唇をとがらせて言った。
「うぅーん。相変わらず食い気一本槍だな」
 それから後ろに回していた手を悟空の目の前に突きだした。
「じゃーん!」
「何だそれ」
 チチは目を丸くした。
「悟空さ、花火知らねえんけ? やったことねえんけ?」
「うん。オラ、やったことねえ」と答える悟空に驚きながら、チチは小さな花火のセットの袋を開け、にこにこして言った。
「今日、買い出しに行ったらおまけにくれたんだべ。いつもたくさん買ってくれるお礼だって」
 チチは結局牛魔王に頼んで大量に物が入る新しいカプセルをいくつかもらったのだった。そのお陰で毎回悟空を引っ張って行かなくてもひとりで買い物が出来るようになった。

 二人は外へ出て空を振り仰いだ。満月がくっきりと明るくあたりを照らしている。でも、花火をするのに邪魔になるほどではない。
 悟空はまだ火を点けてない一本を手に、しげしげと物珍しそうに眺めている。チチはマッチを擦ってそれに火を点けてやった。
 とたんにシャーッという音と共に先端からまばゆい光が吹き出し、悟空は肝をつぶしてそれを放り投げた。
「うわっ、何だこれ」
「あーあ、しょうがねえだな」
 チチは投げ捨てられた花火を拾って手に持って見せた。
「こうやって持ってるだよ」
「それをどうすんだ」
「どうにもしねえだ。見てるだよ。きれいだべ」
「見てるだけか」悟空はつまらなそうに言った。
「ほら、早く次のをつけねえと消えちまうだよ」
 チチに促され、悟空は手に持った花火に火を移した。こぼれ落ちる火のしずくをおっかなびっくりのぞき込みながら、煙にむせて咳き込んだ。
「臭えな」
「これが夏の夜の情緒ってもんだべ。まだちょっと早えけどな」
 チチは小さく笑って目を細めた。
「小っちぇえ頃、おら、夏が来るたびにお父と一緒にいっぱいやっただよ。お父は打ち上げ花火が好きなもんだから、山ほど買い込んで来ては派手に打ち上げるんだべ。おら、大きな音が怖くっていつも耳を塞いでただ」
 そうやっているうちに花火はいつの間にかなくなり、あとは数本の線香花火だけが残った。
「やっぱり最後の締めはこれだべ」
 チチは悟空の持つ線香花火にそっと火を点けた。一気に燃え上がった火薬は橙色の滴になってぽとりと落ち、あっけなく消えてしまった。
「だめでねえか、悟空さ。落っこちそうになったらちょっと傾けてうまく球にするだよ」
 チチは大きな球になって美しい火の花を咲かせている自分の線香花火を悟空に示した。悟空も負けじと何度かやってみたが、あと少しというところでやっぱり地面に落としてしまうのだった。
「意外とぶきっちょなんだな」
 チチはいたずらっぽい目で悟空を見上げ、最後の一本に火を点けた。橙色をした菊の花のようなはかない明かり。暗がりの中でそこだけがほんのりと浮かび上がっている。
 じっとそれを見つめていた悟空は、遠い目をして問わず語りにつぶやいた。
「思い出した……。オラ、花火やったことあるぞ。一度だけだけどな。じいちゃんが買ってきてくれたんだ」

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