跋 | ||
河上肇 |
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平生所志略幾酬, 生死一如不繋舟。 何事未成松下土, 病軀呵筆復値秋。 |
平生志 せし所略 ぼ酬 ゆるに幾 く,
生死 一如 繋 がざる舟。
何事 ぞ 未だ松下 の土と成らざる,
病躯 筆を呵 して復 た秋に値 ふ。
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◎ 私感註釈
※河上肇:明治十二年(1879年)〜昭和二十一年(1946年)。マルクス主義経済学者。山口県の人。東京帝国大学卒業後、大学教授となり、次第にマルクス主義に近づき、やがて、新労農党、共産党と活動して、治安維持法違反で検挙された。主義のため、信念を貫くために地位と名誉を捨てた。詩作は検挙後に始めたというが、その詩は、作者の専門外とはいうものの、見事なものである。詠物、叙景の詩が文人の作詩の主流となっている現代日本詩では異色であり、興味をそそられる慨世の作品群を遺している。
※跋:あとがき。作者の詩集・『旅人』の跋文の中の詩。
※平生所志略幾酬:平素の志すところは、ほぼほとんどこたえている。 ・平生:つねひごろ。平素。 ・所-:動詞の前に附き、その動詞を名詞化する働きがある。…(する)ところ。…する(とき)。 ・略:ほぼ。 ・幾:ちかい。ほとんど。事理の近いこと。ほとんどそうであること。また、かすか。あやうい。 ・酬:むくいる。こたえる。
※生死一如不繋舟:生と死とは、表裏一体であって切り離すことはできないもので、繋がれていないで、波に漂う舟のように(心に不満や不信などの何もない、無心)である。生と死とは、波に漂う舟とまったく同じことだ。 ・生死一如:生と死とは、表裏一体であって切り離すことはできないもの。生と死とは二つであって一つである。 ・一如:〔いちにょ〕仏教語で、主観と客観が分かれず一体となっていること。また、〔いちじょ〕純一で混じりけのないこと。すべて…とまったく同じこと。ここは、前者の意。 ・不繋舟:繋がれておらずに、ただ波に漂う船。心に不満や不信などの何もない、無心の喩え。『莊子・列禦寇』に「巧者勞而知者憂,無能者無所求,飽食而敖遊,汎若不繋之舟,虚而敖遊者也。」とある。
※何事未成松下土:どうしたことか、まだ(墓地の)松の木の下(に埋葬されて)土と化していない(で、まだ生きながらえており)。 ・何事:どうしたことか。何ということか。 ・未成松下土:まだ(墓地の)松の木の下(に埋葬されて)土と化していない、意。=まだ生きながらえている、意。南宋・陸游の『舟中作』に「湖海飄然避世紛,汀鴎沙鷺舊知聞。漁舟臥看山方好,野店沽嘗酒易醺。病骨未成松下土,老身常伴渡頭雲。美芹欲獻雖堪笑,此意區區亦愛君。」とある。 ・松:「松」や「柏」や「白楊」は墓地の樹木(白楊:ハコヤナギ 柏:コノテガシワ)でもある。東晋・陶淵明の『挽歌詩其三』「荒草何茫茫,白楊亦蕭蕭。嚴霜九月中,送我出遠郊。」や『古詩十九首之十四』「去者日以疎,來者日以親。出郭門直視,但見丘與墳。古墓犁爲田,松柏摧爲薪。白楊多悲風,蕭蕭愁殺人。思還故里閭,欲歸道無因。」陶潛『擬古・九首』其四「松柏爲人伐,高墳互低昂。」 とあり、『古詩十九首之十三』に「驅車上東門,遙望郭北墓。白楊何蕭蕭,松柏夾廣路。下有陳死人,杳杳即長暮。潛寐黄泉下,千載永不寤。浩浩陰陽移,年命如朝露。人生忽如寄,壽無金石固。萬歳更相送,賢聖莫能度。服食求~仙,多爲藥所誤。不如飮美酒,被服與紈素。」とある。陶潜の『諸人共游周家墓柏下』「今日天氣佳,清吹與鳴彈。感彼柏下人,安得不爲歡。」、や劉希夷の『白頭吟』(代悲白頭翁)「今年花落顏色改,明年花開復誰在。已見松柏摧爲薪,更聞桑田變成海。」に墓場の樹木の意で出てくる。陶潛『擬古・九首』其四「松柏爲人伐」や、沈佺期の『邙山』「北邙山上列墳塋,萬古千秋對洛城。城中日夕歌鐘起,山上唯聞松柏聲。」とある。
※病躯呵筆復値秋:病気に罹っている体で、(凍っている)筆に息をはきかけ(て温めながら文筆活動をしているうちに)また秋にあって(しまった)。 ・病躯:病気に罹っている体。病気がちな体。前出・陸游詩『舟中作』で謂えば「病骨未成松下土」。 ・呵筆:(凍っている)筆に息をはきかけ(て温める)。=呵凍、呵硯。 ・呵:〔か;he1○〕吹く。息を吹きかける。 ・復値秋:また秋にあう。「復逢秋」ともする。ここでは、後者の方「…逢…」が平仄的には適切。 ・値:あう。
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◎ 構成について
韻式は、「AAA」。韻脚は「酬舟秋」で、平水韻下平十一尤。この作品の平仄は、次の通り。
○○●●●●○,(韻)
○●●○●●○。(韻)
○●●○○●●,
●○○●●●○。(韻)
平成30.11.22 11.23 11.24 11.25 11.26完 12.28補 |
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