夏目漱石無題　日本漢詩選詩詞世界　碇豊長の詩詞：漢詩


無題

	夏目漱石
老去歸來臥故丘，蕭條環堵意悠悠。透過藻色魚眠穩，落盡梅花鳥語愁。空翠山遙藏古寺，平蕪路遠沒春流。林塘日日敎吾樂，富貴功名曷肯留。

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無題

老い去りて　歸り來(きた)って　　故丘に臥(ぐゎ)す，
蕭條(せうでう)たる　環堵(くゎんと)　　意悠悠(いういう)。
藻色(さうしょく)を透過(とうくゎ)して　　　魚眠(ぎょみん) 穩(おだや)かに，
梅花(ばいくゎ)を落とし盡(つ)くして　　　鳥語(てうご ) 愁(うれ)ふ。
空翠(くうすゐ)　山(やま) 遙(はる)かにして　　古寺を藏(ざう)し，
平蕪(へいぶ )　路(みち) 遠(とほ)くして　　春流(しゅんりう)を沒(ぼっ)す。
林塘(りんたう)　日日(にちにち)　　吾(われ)を樂ましむ，
富貴(ふうき )　功名(こうめい)　　曷(な)んぞ肯(あ)へて留まらん。

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◎　私感註釈

※夏目漱石：明治期の小説家。慶応三年（１８６７年）～大正五年（１９１６年）東京出身。名は金之助。東大英文科卒。松山中学教諭、五高教授を経て、イギリスに留学し、帰国後一高教授。『明暗』では、自我を越えた所謂「則天去私」の世界を志向した。

※無題：この作品は、作者晩年の連作の一。大正八年の夏の作。

※老去帰来臥故丘：年をとってから帰ってきて故郷の丘に横にな（れば）。　・老去：年をとる。＝老来。＊「老去」と「老来」との使い分けは、平仄に因るもので、「老去」（●●）は、詩中「●●」とすべきところで用い、「老来」（●○）は、詩中「○○」とすべきところで用いる。　・帰来：（よその土地から郷里/自宅/祖国に）帰ってくる。　・臥：ふす。横になる。　・故丘：故郷の丘。唐・杜甫の『解悶』に「一辭故國十經秋，毎見秋瓜憶故丘。今日南湖采薇蕨，何人爲覓鄭瓜州。」とある。

※蕭条環堵意悠悠：もの寂しげな狭い家での心は、遠く遥かで限りがない。　・蕭条：〔せうでう；xiao1tiao2○○〕もの寂しいさま。雨や風の音などの寂しいさま。　・環堵：〔くゎんと；huan2du3○●〕四面土塀(べい)に囲まれた小さくて狭い家。本来の意は、（家の）周りの垣根。（家の）四面の意で、一面が一堵（約２．２メートル）で囲まれた小さな家や垣のこと。日本風に言えば「方丈の庵（いおり）」。「蕭条環堵」は、「環堵蕭然」から来ている。「蕭条環堵」（○○○●）は、句中の「○○●●」とすべきところに適するようにした表現。なお、詩のここは「○○●●」とすべきところ。本来の「環堵蕭然」は狭く質素な家の荒れ果てたさま。東晉・陶潛の『五柳先生傳』に「先生不知何許人，不詳姓字，宅邊有五柳樹，因以爲號焉。閑靜少言，不慕榮利。好讀書，不求甚解，毎有會意，欣然忘食。性嗜酒，而家貧不能恒得，親舊知其如此，或置酒招之，造飮必盡，期在必醉，既醉而退，曾不吝情。環堵蕭然，不蔽風日，短褐穿結，箪瓢屡空，晏如也。常著文章自娯，頗示己志，忘得失，以此自終。」とある。　・意：心。思い。考え。　・悠悠：〔いういう；you1you1○○〕うれえるさま。遠くはるかなさま。限りないさま。長く久しいさま。また、行くさま。ひまのあるさま。『詩經・王風』の『黍離』に「彼黍離離，彼稷之苗。行邁靡靡，中心搖搖。知我者，謂我心憂，不知我者，謂我何求。悠悠蒼天，此何人哉。」とあり、『詩經』・周南』の『關雎』に「關關雎鳩，在河之洲。窈窕淑女，君子好逑。　　參差荇菜，左右流之。窈窕淑女，寤寐求之。求之不得，寤寐思服。悠哉悠哉，輾轉反側。　　參差荇菜，左右采之。窈窕淑女，琴瑟友之。參差荇菜，左右芼之。窈窕淑女，鐘鼓樂之。」とあり、『古詩十九首之十一』に「廻車駕言邁，悠悠渉長道。四顧何茫茫，東風搖百草。所遇無故物，焉得不速老。盛衰各有時，立身苦不早。人生非金石，豈能長壽考。奄忽隨物化，榮名以爲寶。」とあり、盛唐・高適の『宋中』に「梁王昔全盛，賓客復多才。悠悠一千年，陳迹惟高臺。寂寞向秋草，悲風千里來。」とあり、崔顥（さいかう：Cui1Hao4）の七律『黄鶴樓』に「昔人已乘白雲去，此地空餘黄鶴樓。黄鶴一去不復返，白雲千載空悠悠。晴川歴歴漢陽樹，芳草萋萋鸚鵡州。日暮鄕關何處是，煙波江上使人愁。」とあり、初唐・張若虚の『春江花月夜』に「春江潮水連海平，海上明月共潮生。灩灩隨波千萬里，何處春江無月明。江流宛轉遶芳甸，月照花林皆似霰。空裏流霜不覺飛，汀上白沙看不見。江天一色無纖塵，皎皎空中孤月輪。江畔何人初見月，江月何年初照人。人生代代無窮已，江月年年祗相似。不知江月待何人，但見長江送流水。白雲一片去悠悠，青楓浦上不勝愁。誰家今夜扁舟子，何處相思明月樓。可憐樓上月裴回，應照離人妝鏡臺。玉戸簾中卷不去，擣衣砧上拂還來。此時相望不相聞，願逐月華流照君。雁長飛光不度，魚龍潛躍水成文。昨夜閒潭夢落花，可憐春半不還家。江水流春去欲盡，江潭落月復西斜。斜月沈沈藏海霧，碣石瀟湘無限路。不知乘月幾人歸，落月搖情滿江樹。」とあり、北宋・蘇舜欽の『中秋夜呉江亭上對月懷前宰張子野及寄君謨蔡大』に「獨坐對月心悠悠，故人不見使我愁。古今共傳惜今夕，況在松江亭上頭。可憐節物會人意，十日陰雨此夜收。不惟人間重此月，天亦有意於中秋。長空無瑕露表裏，拂拂漸上寒光流。江平萬頃正碧色，上下淸澈雙璧浮。自視直欲見筋脈，無所逃遁魚龍憂。不疑身世在地上，祗恐槎去觸斗牛。景淸境勝返不足，嘆息此際無交游。心魂冷烈曉不寢，勉爲此筆傳中州。」とある。

※透過藻色魚眠穏：藻の色を透過して（見れば、）魚は穏やかそうに眠り。

※落尽梅花鳥語愁：（気候は）梅の花をすっかり落として（季節は移ろうとして）、鳥は悲しげに鳴いている。　・梅花：梅の花。〔早春のものとして〕北宋・王安石の『梅花』「牆角數枝梅，凌寒獨自開。遙知不是雪，爲有暗香來。」、南宋・姜夔の『除夜自石湖歸苕溪』「細草穿沙雪半銷，呉宮烟冷水迢迢。梅花竹裏無人見，一夜吹香過石橋。」がある。なお、盛唐・李白の『與史郎中欽聽黄鶴樓上吹笛』中の「一爲遷客去長沙，西望長安不見家。黄鶴樓中吹玉笛，江城五月落梅花。」の「落梅花」は笛の曲名。　・鳥語：鳥が鳴く。また、鳥の囀り。

※空翠山遥蔵古寺：空に聳え立つ山の木々の緑の山は遠くにあって、古寺を隠している（かのようである）。　・空翠：空に聳え立つ山の木々の緑。滴るような緑。清・張著の『雨後』に「西風無意嫪纖雲，掃盡千峰雨脚痕。一片秋光淸似水，家家空翠滿柴門。」とある。　・蔵：かくす。

※平蕪路遠没春流：雑草の茂った野原の路は遠く続き、春の川の流れが（その中に）消えていく。　・平蕪：〔へいぶ；ping2wu2○○〕雑草の茂った野原。　・春流：春の川の流れ。

※林塘日日教吾楽：（自然界の）林や池は、わたしを日々（取り巻いて）、楽しませてくれる（が）。　・林塘：林とつつみ。林とため池。　・教：（…に）…させる。使役表現。

※富貴功名曷肯留：（人為的な）功名富貴といったものは、どうして留まろうとしないのか。（留められないで、移ろって行くのだなあ）。　・富貴：財産も地位もある。　・功名：〔こうめい（こうみょう）；gong1ming2○○〕（科挙に合格した）てがらと名声。「富貴功名」は「功名富貴」を平仄に合わせて換えたもの。「富貴功名」（●●○○）は、句中の「●●○○」のところに適した表現。なお、「功名富貴」（○○●●）は、句中の「○○●●」とすべきところに適した表現で、詩のこの部分は「●●○○」とすべきところ。　・曷肯：どうして…しようとしないのか。≒不肯：しようとしない。承知しない。　曷：〔かつ；he2●〕なぜ…しないのか。なに。なんぞ。いづくんぞ。疑問・反語の語。　・留：とどまる。とどめる。

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◎　構成について

韻式は、「ＡＡＡＡＡ」。韻脚は「丘悠愁流留」で、平水韻下平十一尤。この作品の平仄は、次の通り。

●●○○●●○，（韻）
○○○●●○○。（韻）
●◎○●○○●，
●●○○●●○。（韻）
○●○○○●●，
○○●●●○○。（韻）
○○●●◎○●，
●●○○●●○。（韻）