日 記

(2012年3月)


<Welcome from Fukushima - Konno>

◇ 3月31日、2011年度の年度末です。私も、今日で特任教授の任期が切れます。
 1973年4月に秋田大学に赴任して以来、39年間の大学所属の身分から、初めて離れます。敢えて表記すると「無職」ということになるのでしょうか。
 実態的には、「年金生活者」ということになるのでしょうか。ドイツに滞在していた時に、「年金生活者」という職業があると錯覚するように、目につきました。ドイツ語会話の本に、「私は年金生活者です。」という例文がありました。必ずしも高齢者という感じではなく、ドイツの「定年」は、年金受給を意味し、労働者は待ち遠しいような感じでした。
 日本では「無職」という感じで、支えられる人という感じですね。申し訳なさがあります。高齢社会なのですから、もっと高齢者が社会的役割を果たしていくべきと思いますが。

 そんな感慨はあるものの、当面の課題は、研究室の明け渡し。
 書籍はほぼ見通しが出て、午後7時に自宅に運び、夕食を取ってから、また研究室に戻り、10時半着の第2回運送帰宅。
 今後、厄介なのは、パソコン関係でしょうか。書類や手紙をついつい見てしまいます。いろいろないい思い出や嫌な思い出とともに。
 明日は孫たちが応援(?)に来るかもしれませんが、何とか3日までに「飛ぶ鳥、後を濁さない」ようにしたいものです。(3/31)<10922>


◇ 今日金曜日は3月30日。年度末は土曜日。今日が実質の最終日です。明日は、休み。しかし、退職者には休みはありません。

 ここ2日が研究室整理作業の山と考え、意気揚々。整理・掃除に専念。
 30年前のドイツ留学の時に集めた資料(コピー)の整理は上手くやっていたつもりですが、どうしても読む時間がなく、コピー論文の意義も失ってしまいました。残念ながらゴミ集積場へ。
 整理とは、青春の淡い夢を消していくのかもしれません。初めて、自宅に持って帰る書籍の第一便。自宅の書籍の整理も同時に進めなければならないでしょう。

 今日がウィークディ最後の日として、年度末で離れる学類内の教員・職員に対する学類長主催の送別茶会。美味しいケーキも。ありがたい。
 忙しい中、大学・学部・学類を去りますが、落ち着いた段階で、感慨に耽ることになるのでしょう。

 帰宅後、東北楽天の開幕戦を見る。見始めたっときには5対0でロッテのリードだったが、5対3まで追い詰めたが、惜敗(?)。先発・田中が痛い敗戦投手。故障でなければいいのだが。今年の東北楽天、すこしクリネックスに通うかな?
 慎ましい生活と両立すまい。(3/30)<10889>


◇ 昨日・28日は会津若松市に宿泊。会津若松市議会の委員会に頼まれて、社会保障制度の勉強会の講師。

 勉強会は午後1時半からなので、県の委員会でご一緒している会津若松のOさんのお誘いで、瀟洒な喫茶店・軽食のお店で、昼食を戴くことになった。
 鶴ヶ城入口の「アドリア 北出丸カフエ」。鶴ヶ城の石垣とお濠を眺めながらの昼食。まさに贅沢です。
 偶然、いつもお世話になっている福島のNさんが入ってきて、3人での昼食となりました。
 荘厳なオーラを醸し出すオブジェは樹齢1000年の大ケヤキの一枚板。本当に素敵なお店で、料理も美味しかった。
 会津若松市に在住の方だから、いいお店に行くことができました。本当にありがとうございました。

 午後の勉強会は、20人ほどの参加ですが、議会が政策立案の勉強会を行うのは、まさに議会改革が進んでいる会津若松市議会だからこそ。
 2010年2月に締結した福島大学と会津若松市及び市議会との協力協定の調印の際に、議事堂で講演をさせていただいた以来のこと。
 大学と協働のなかで、全国的にも注目される議会改革が進んでいます。
 懇談会の後、夜の懇親会は、大変心温まる話し合いでした。2人の女性議員を含む10人ほどの会合で、久しぶりのお酒も美味しかった(会津むすめ、飛露喜)。
 硬い・古いという会津のイメージ。しかし城下町のせいか、魅力的な街です。何か、市及び市議会との接点が、個人的にも広がることを期待しています。

 ホテルで目が覚めた今朝。午後から大学で行われる社会保障法学会の研究会(報告予定者中心の研究会)のための準備。
 かける時間が少なすぎました。しかし、時間もあるので、ホテルでの勉強は終止符を打って、帰途。
 朝食場から見る、四方、山に囲まれた会津若松市。山並み・街並みの美しさ。こんな城下町に住んでみたい。そんな夢みたいなことを考えつつ、大学へ。
 磐越道から見る磐梯山もいつになく美しい。サービスエリア・磐梯山で休み、なんとなくお土産売り場をみて、忘れものに気づく。
 そうだ、妻に頼まれた「五郎兵衛飴」を買うのを忘れていた。わー、失敗。
 戻るわけにもいかず、また会津若松に行くよと、当てのないことをいう。やはり年のせいか。

 午後の研究会は5時間、秋の学会報告の下準備。15人が参加。
 もう少し、焦点をはっきりさせたモノにしたかった。これから、これから。
 夜は、皆さんと夕食を共にした(御山角屋)。
 大阪の青木弁護士さんは、仙台でお世話になった弁護士さんの息子さん。世の中は狭いものだ。
 超過密の2日間だったが、明日・明後日は、研究室明け渡しに集中することにしよう。(3/29)<10860>


◇ 感動の卒業式の翌日。ゼミ卒業生がテレビでインタビューされていました。結果的には当日、会うことができなかった卒業生が多かったのですが、「おめでとう」との携帯メールに対して、何人かの卒業生がメールを寄せてきました。
 「やりました!昨日の夕方のニュースに出ましたー!NHKのネットを見てくださいねー」、「先生の下で学ぶことができ、充実した学生生活を送ることが出来ました。直接ご挨拶することが出来ず、申し訳ありませんでした。今、東京へ向かっているところです。明日からまた研修が始まり、4月からは社員になりますが、福島大学で学び得た力でこれからも頑張ってゆきたいと思います。本当にありがとうございました。」。何も指導ができなかったが、活躍を期待している。

 午前中は、ショートスティから帰る義母を迎えに老健施設へ。すぐに大学へ。
 途中、携帯のベルがなります。親友・研究仲間が、再入院したとの連絡。行こう行こうと思っていたが実現していないので、お見舞いに行きたいが、実効ある支援ができないでいる。今は、遠くから快方に向かうことを祈っている。
 研究室で、なかなか進まない掃除と明日の会津若松での話の準備。少し、ワタワタしています。早く落ち着いて本も読みたいものだ。午後4時からの国際交流協会の評議委員会。在留外国人の生活支援問題、原発事故でなかなか大変であるが、いまは継続することが重要なのだろう。出席者である福祉関係の幹部に、我がフォーラムでの報告をお願いして快諾。ありがたい。
 午後6時からは、福島市内での飯舘村弔慰金審査会の会議。避難で大変な生活状況を知ることになる。8時前、大学の研究室へ。夜に研究室に戻るのは、久しぶりだが、若い研究者の灯りが少なくない。こうした経験もあとわずか。明日の会津若松の話の準備。何とか片づけて、11時前の帰宅。(3/27)<10812>


◇ 昨日25日の日曜日。ゼミ卒業生の結婚式で宇都宮市へ。
 2003年卒業の福島大学行政社会学部生同士の結婚です。相手の新郎は同僚・松野先生のゼミ生。
 朝の新幹線は松野先生と同行。教会式の結婚式と披露宴
 ゼミ卒業生は石巻出身ですので、同郷の後輩の感。出席者には、私の女川時代からの親友・山田君や平塚君の高校時代の恩師である川田先生(福島大学名誉教授)の奥様も列席。新婦の伯母様です。そんなことは考えていなかったのでびっくり。
 披露宴開始後1時間は過ぎたあたりで、失礼したので、お色直しはじっくり見ることもできず残念。
 2時30分の新幹線に乗り、福島に戻りました。

 自宅に戻り、孫の誕生祝を積み込んで、一路、塩竈へ。
 1年前の震災直後の26日の誕生。日曜日の夕方、1日前倒しの誕生祝
 一生餅を担いで、歩いてくれました。
 大変な時代に生まれたので、元気で大きくなってほしい。大賑わいの誕生パーティです。ここに宿泊。

 翌朝の今日26日は、孫宅の近くに出店すべく準備している女川の姪の店に立ち寄って、福島に戻る。
 大学に出勤したのは12時。今日は卒業式。車の路上駐車ではしばらく入れません。
 研究室で掃除作業と、ゼミ卒業生への対応。
 ロンドンでの語学研修から帰ってきたゼミ生も帰ってきました。素敵なイギリス土産をお貰いました。充実した語学研修だったようです。そのうちに花開くでしょう。お世話になっている職員から、これも素敵な写真スタンドをいただきました。退職のお祝いということですが、ありがたい。

 午後4時からは県庁での委員会の会議、その後、4月に移動になる職員の送別会・宴会。楽しい語らいでした。
 忙しい2日間が終わります。(3/26)<10775>


◇ 土曜日の今日は、朝、仙台の美術館巡りなどのバス旅行に出かける妻を福島駅西口まで送って、自宅に戻り、大学からの書籍などを搬入できるよう、自宅の書籍の整理・処分。
 少々、出勤は遅くなりましたが、研究室の整理。捨てるものと、後任者に受け取ってもらう書籍など振り分けて、進めていますが、やはり捨てきれない本も少なくありません。可能かどうかわかりませんが、底流には、もう一度読み直してみたいという勉学意欲(?)。それも自然でしょう、可能かどうか分かりませんが。

 夕方は、事務系職員有志が呼びかけていただいた、松野先生と私の「追い出しコンパ」
 行政社会学部創設時から、学部でまた本部で「同じ釜の飯」を食った仲間たち。
 年度末の忙しい土曜日なのに、多くの皆さんが駆け付けてくれて、ありがたい。盛岡から、また仙台からも元職員(社会人学生の卒業生)も、わざわざ駆け付けてくれました。
 一人一人が思い出を話していただいて、昔のことが走馬灯のように思い出されます。若手の職員も、いまや中堅幹部です。しかし、こちらの年齢も忘れて、昔のような話し合い。

 事務系職員と教員、また管理職等、常に同じ立場ではありませんでしたが、こうして一堂に集まって、ワイワイガヤガヤできることは、他大学と比して稀有な出来事です。本当に、幸せです。時間が許せば、一人ひとりとゆっくり話したいのですが、時間は早く過ぎてしまいます。
 女川の津波の被害に対する私への配慮を感じて、申し訳なく思います。みんなに精神的な負担をかけてしまって・・という反省をしています。
 心温まる思い出も持って、自分にできることを進めていこうと思っています。
 みんなのご多幸を、心から祈っています。ありがとう、皆さん!!(3/24)<10724>


◇ 「女川つながる図書館」のオープンニング・セレモニーに行ってきました。
 せっかくの機会ですので、早めに行って、わが母校・女川第一小学校で活動している「女川向学館」を訪ねました。
 NPOカタリバの今村代表ともお会いできて、お話ができました。
 ちょうどお見えになっていた近畿大学の教職員の皆さんと一緒に説明を伺いました。近畿大学からは、通学用のバスが贈られました。
 特に家庭における学ぶ場所の喪失のなかで、学ぶ意欲を高めてくれました。進学も希望にそった成果が上がったようです。
 正常化しつつある学校教育とどのように連携するのか、地域社会の教育に対する要望も高まってきているなかで、新しい教育改善につなげてほしいと思います。

 午後からの「女川つながる図書館」開館式は、保育所の幼児も参加して、新町長や来賓のあいさつなど、そしてテープカットがなされました。
 女川町勤労青少年センターの2階の2部屋。一方は絵本中心の「ちゃっこい絵本館」(第2小学校内にあるものと併設です)、他方は大人の図書室、結構広いです。
 2万冊の図書が集まりました。
 さっそく、子どもたちが絵本を手に取って嬉しそう。全国的な継続的支援の仕掛けを作る必要があるでしょう。私は、野鳥のペーパークラフトと、そのキッドを持っていきました。喜んでくれるといいですね。

 女川の湾を見て、役場に寄って、帰ってきましたが、疲れたのか睡魔。石巻の平塚君宅によって、コーヒーをいただき歓談。6時になってしまい、雨、みぞれの三陸道、東部自動車道、東北道と、遂に菅生PAで暫し休憩。何とか無事、帰宅。今日は、一日女川デーでした。(3/23)<10695>


◇ 午前、11時に研究室に訪ねてくるという学生に合わせて出勤。学類の卒業証書を受ける総代を頼まれたらしい。ゼミ始まって以来の快挙(?)。
 とはいっても、学籍番号の一番初めだからということらしいが。簡単になれるものではない。
 2年前までの学長時代なら、自らゼミ生に手渡すことができたかも。

 午後、県庁で開かれる委員会に出席。確実に職務をこなすことは不可欠だが、まさにこの復旧復興の時代に相応しい提起が必要と考える。
 早めに会議が終了、銀行に寄って、けんぽ協会(任意延長にしてもらう)で話を聞いて、いったん帰宅。
 少し休んで6時半からの「ふくしま復興支援フォーラム」の準備に出かける。今日は、「福島復興再生特別措置法案について」、中井さんに報告してもらったが、テーマが硬かったのか20名ほどの参加。
 いろいろ議論が出たが、詰めるべき課題が明確になってきたので、有意義だった。
 浩さんと、久しぶりの握りずしの夕食。明日は、女川往復。眠くならないよう、休むことにしましょう。(3/22)<10674>


◇ 午後、労働審議会が開催されるので、午前中、短時間、研究室滞在。
 朝から、選抜高校野球。開幕式、なんといっても石巻工業の主将の選手宣誓。ラジオでボリュームを上げて聞きました。実力があるとは思いませんが、全力を出して戦ってほしい。勝つことを期待するよりも、どれほどベストを尽くしているかが見ものです。明日の試合。
 長女が、リハビリ医の専門医試験に合格したという。就学前の3人の子どもを育てながら、頑張ったよね。夫君の協力も決定的。まずはおめでとう。

 午後の審議会は、震災後、特に原発事故による雇用問題への対応が主テーマ。労使公益とも熱心な審議が行われました。
 頭に圧し掛かったような、大問題。どのように困難を跳ね返していくか、課題は多い。
 帰宅の途中、散髪。アマゾンから「まげねっちゃ」の本が届いている。女川の子どもたちの豊かな表現。物理的な復興は大変だが、心の復興がまず必要。一緒にがんばりましょう。(3/21)<10644>


◇ 好天の春分の日です。デイサービスの日でもあり、マイナスイオン全身浴・イオラに行こうかと話してましたが、研究室の明け渡し業務が進んでいなかったので、心を鬼にして大学へ。
 なんと、同じように退職して引っ越しする先生や、耐震のための書籍の整理等、研究室の整理の先生方が多く、ゴミ収集場はごった返しです。私も台車で5回の往復。何とか片面は整理しました。あと半分、ウィークディの業務の中でですから、そう簡単には進まないでしょうが。気を緩めないで進めましょう。
 子どもたちが小さいころ、研究室に遊びに来ましたが、そんなメールをしたら、「そうそう!クリープ飲んだねー。あと、よく掃除してた」??と。掃除で明け暮れた研究室かな?クリープって、コーヒーに入れるやつかな。ああ、貧しい昔。
 宮崎県の諸塚村の資料が出てきて、みんなと一緒に調査に入ったことを思い出しました。多くは、忘れていますが、この研究室をベースキャンプに出陣したのだなあと思います。あと10日間、何とか綺麗にして、感謝の気持ちで明け渡したいと思います。(3/20)<10605>


◇ 休みの合間の月曜日。朝、雪が舞っていました。
 近くの病院に義母が行く予定なので、順番確保のために7時前に病院へ。仲間の高齢者が待っています。
 内科が多いのでしょうが、そうではない科なので1番の番号。競争相手はいませんが、2番だと少し診察が遅れます。
 みんなもそうですが、朝飯前の仕事。帰宅して診察時間に間に合わせます。ご本人もいるのでしょうが、順番待ちは、私のような家族でしょう。

 9時前に病院に送って行って、診察終了の連絡が来れば、迎えに行きます。10時半過ぎ。
 それから大学へ。研究室の清掃です。残日程も少なくなってきました。焦っています。
 とはいうものの書籍の仕分け。書類も多い。30年近く前に秋田から福島へ、福島で教育学部から行政社会学部へと、捨てられていない書類が出てくる。
 大体、ゴミも仕分けられなくて、次のゴミの置き場(研究室)に移動。でも捨てられなかったことも事実。
 三つの学部を超えた「談話会」をやったが、海外の風土病で急死した珠玖さんの名前(世話人)もある。本当に信頼していた経済の先輩。
 そして「地域政策研究会」を組織して、かなりの回数を繰り返している。何か新学部ができて、共同の研究を発展させようと熱に浮かされていた感じです。
 最近「ふくしま復興支援フォーラム」に燃えている(若木ではなく、古木になりましたが)のも、これらの延長か。
 成果が目に見えるものではなかったかもしれないが、大学の発展・展開と軌を一にしている感もある。間違ってはいない。
 大学内レベルではなく、県レベルではあるが、県民の協働のきっかけを作れるかも。
 そんなことを考えながらやっているので、あまり進まないが、何とか進めている。
 会議もないのは、明日くらいで、仕事を一気に進めなければと思いつつも、少なくなった営業日のイオラに行こうかと、少々、揺れ動いている。我慢して、4月になってからにせよとの、声が聞こえそうだ。(3/19)<10584>


◇ 好天の日曜日。研究室の整理が進まず、まずは「真面目に」日曜出勤。
 そもそも引っ越しが嫌なのだが、今度だけは平行移動の引っ越しではなく、受け入れのスペースが狭くなるので、引っ越し物を厳選するしかない。
 平行移動の引っ越しだと、家から家へ、研究室から研究室へなので、気分は楽だった。今回は8割捨てて、2割を残す感じかな。
 家も狭くなっているし、持っていても読めないだろうなということ。惜しい気もするが仕方がない。

 8階の研究室でシコシコと終わるあてのない作業をしていたが、2階では松野先生の送別会。
 彼の活動の広さ、人徳のおかげか、なかなか心の温まる企画。
 本人の研究生活の軌跡の話と、昼食、そして最近、同僚の千葉先生と発刊された岩波新書(『飯舘村は負けない―土と人の未来のために』)の話や、言い残したいことという満載の企画。
 それも、ゼミ卒業生が遠方から前日に集まって集会。今後も継続的に集まるという。また、飯舘村のお母さんたちによる昼食の仕出し、そして自治体関係者等。
 彼の丁寧な人間関係形成の成果。同僚としては羨ましくなる。それだけ、時間をかけて丁寧に指導してきたということだろう。
 と、いうものの、私は同じ退職者の立場なので、出席は遠慮したので、Facebookや周りからの情報による。
 本当に「までいな」研究者生活である。
 福島を離れて大宮に行くことになるのかもしれないが、ぜひ、今後とも福島大と卒業生、そして地域社会への指導をして欲しいものだ。(3/18)<10553>


◇ 土曜日。小雨の朝です。今日3月17日は、私の母親の命日。「立ち日」(郷里では「たつ日」と訛る。)。旅立つ意味である。
 1967年の今日、亡くなりました。随分経ちました。45年です。
 1967年3月25日は私の大学の卒業式。1週間ほど前です。みんな賑やかに喜んでいる卒業式だったが、重い気持ちでした。
 今でも思い出すが、宮崎都城在住の児玉さん(1年留年していた)とともに、卒業証書1枚を持ちながら、川内から駅前だったか、一緒に歩いてくれた。
 天気がよく、気持ちと裏腹の行程。
 だから、都城で口蹄疫問題があったり、噴火があったりすると、いの一番に心配して連絡する。
 残念ながら、都城で、最愛の奥様(仙台出身)を亡くされて、近くで彼の心痛に寄り添えなかった無念さを、今でも思い出す。
 3月21日の葬式の日。その3年後の日に結婚式を挙げた。娘夫婦まで同じ日。
 昨夜、送別会でもらった花束を、妻が、飾ってくれた。

 午前中の病院での定期診察、あまり芳しくないが、主治医は、送別会の連続ではやむを得ないと慰めてくれるが、食事とともに、運動だね。
 午後、仙台の研究会。学会のリハーサルでもあり、東京からも学会理事が3人も見えられ、いつになく活発な議論ができた。
 研究会の合間、私の研究先輩が、手術したとの噂を聞いたので、さっそく電話連絡。2月に3週間の手術入院という。びっくりしました。今は、自宅療養中で、元気な声で安心した。
 こちらも落ち着いたら、お見舞いに行こうか。行こう行こうと思っているお見舞い先が増えたが、まずは、自分の身の回りのことで精一杯。明日・日曜日も、研究室で引っ越し作業を、本気でやろうか。(3/17)<10538>


◇ 昼は、震災関係の資料の整理、復興過程の中での雇用問題を考えるが、なかなかすっきりしない。明日は、仙台での研究会なので、勉強をしてこよう。

 夕方は、学類の法学グループの先生方による送別会。
 徳島に移る中堅の先生、兵庫に移る若手の先生とともに、一緒に送別の会を開いてくれた。
 何か2年前の学長退任で終わった気がしていたが、2年間の特任教授期間も満了。福島大学の専任教員としての歴史は終える。
 1982年10月に秋田大学から福島大学教育学部に転勤し、5年後、行政社会学部を創設するために移籍。
 その後、学部長・副学長・学長と行政職的な任務が多かったが、29年半の福島大学の生活は終わることになる。
 本当に、皆さんに助けられて、何とか過ごしてこれた。本当にありがとう。
 法学の教育で、さらに成果を上げることを期待している。(3/16)<10511>


◇ 研究室の清掃、少し。5,6月頃までに依頼されている原稿・講演のメールの整理。
 福島県内の震災対応(労働政策)について、行政文書から勉強。17日の仙台での研究会では、3人の先生方が震災と労働問題について報告をされる。
 原稿や講演の準備としても勉強してきたい。

 夜、昔からの友人たちとの送別会。どこかの大学への転出と異なり、新しい生活への不安と緊張はない。
 自主性をいいながら、組織依存型の体質の根深さに気づかされる。
 まあ、急いで「自主性!」を叫ばないで、自由の身となって自主性について考えてもいいのではないか。
 そうすると当面の仕事、研究室清掃、処分、移転とともに、研究の準備を一つ一つ精一杯こなすことかな。(3/15)<10495>


◇ 朝、税務署に確定申告書を投函して、郵便局と銀行に寄って登校。
 来年度(といっても来月なのだが)の講義「社会保障法」のシラバス書き。今度は、非常勤講師として、そのためだけに大学に出勤するので力が入るが、あまり準備の時間がないので、今年度(5月から)の講義を基本に、内容を充実させようと考えて書きました。思えば、今年度の前期は、震災・原発事故で不正常の授業でしたので、再度、組み直したい。今年度受講生には済まないことをしたが。

 午後、研究室清掃をしていたが、夕方、私の研究室の目の前の駐車場で、車に接触してしまったとの親友Sさんの電話。驚いて、駆け付けたが、会議の連続で疲れて注意が散漫になってしまったのだろう。あまり無理をしないで、休養を十分にとって欲しいと思わざるを得ない。大した事故ではないことを薬に、大きな事故を避けて欲しいものだ。
 異常の状態の日々が続く。何とか、自己のペースを作りながら、正常化の道を進みたいものだ。(3/14)<10475>


◇ 今日火曜日は、午後から県庁での会議のみ。
 午前中から、昨夜から開始した確定申告の書類作成の続き。どうしても3月15日にならないと、やる気が出てこない。昨年は被災地のため、9月30日まで締切が延期されたので、早く来たもんだという実感。
 当初は、窓口で税理士さんの援助を受けていたが、行列ができそうで、最近は、自分で書いて税務署前のポストに投函している。 ただ、昔のように単純ではない。年金の絡みが出てきたり、複雑怪奇になってきている。高齢者ほど複雑か。年金だけであれば簡単だが、兼業やわずかながら原稿料などが入ってくると、大丈夫かなと自信がない。隠す程の収入はないが、計算ミスが出そうで・・。とにかく明朝、通勤途上の投函ですっきり。
 税額がはじき出されるまで、追加納入になるかどうか心配だが、何とか還付が来そうだ。それにしても源泉徴収額が、少なくなったなと溜息。「下山」中なので、毎年、納税額は少なくなるのだろう。国に対する貢献度が少なくなってきていると思いたくないが・・。

 午後、県庁での会議。議題は多いので、ディサービスのお迎え当番に間に合うか心配だったが、何とかセーフ。

 震災直後に生まれた、第三の孫の誕生日が近づいた。研究室の整理はまだできていないが、23日・女川図書館、24日・職員有志による送別会、25日・宇都宮での卒業生の結婚式、26日午前・卒業式、午後・県庁関連部署の送別会など、目白押しで26日の誕生日は怪しい。
 こうなったら、25日11時・12時の結婚式・披露宴を早めに失礼して、福島に戻り、塩竈に車で行くことにする。日曜夜・イブの誕生祝。
 どれだけ歩めるか楽しみだが、一升餅を背負わせるのだろうか。貧しかったわが家では、娘たちの一升餅は、同じ重さの古典的名著が代替。とても一生かかっても読みこなせない古典なのだが・・。(3/13)<10449>


◇ 月曜日、今日は大学入試の後期日程試験日。各学類毎だし、前期で終わっている受験生もいるので、構内は穏やか。受験生も少ないのでしょう。
 23日の女川の図書館オープニングに行くつもりで、約束の調整と、ペーパークラフト作家の穴沢さんに、一定の完成品とキッドを頼んだ。ささやかなプレゼントとして持参する予定。
 女川の図書館についての期待を、雑誌に書いたら、毎日新聞の書評欄で取り上げてくれた。長崎の方が、支援について話を持ちかけてきた。全国紙の影響は大きい。ささやかな出発だが、粘り強く、寄り添っていきたいものだ。
 津波で亡くなった従兄の奥さんからメール。借り上げ住宅に住んでいるが、それぞれの一周忌の様子。昨日は、それぞれの思いを持って、過ごしたようだ。元気に頑張りましょう。(3/12)<10414>


◇ 今日は、東日本大震災の1年目。一周忌の法要のため、女川に行ってきました。
 親戚の2家族は、お寺が異なるので、11時の曹洞宗のお寺と、午後2時の日蓮宗のお寺の合同法要に参加。
 町主催の「合同慰霊祭」には、時間の重複で、参列できませんでした。
 小春日和のような暖かい一日、娘と孫を同行して、港の様子を見てきました。
 このような集団死、そして合同法要は、全くの初体験ですが、飛行機事故等、災害の際には触れていましたが、身内の死の法要は初めて。
 私には、経験主義なのかどうかわかりませんが、告別式や法要は、集団性や共通性はなかなか馴染めません。
 各個人の人生は異なり、原因はどうあれ、その生き様は異なります。法要という形式的セレモニーでは、心が満たされないのは仕方がありません。
 要は、式で心を満たすのではなく、一人で、また思い出を共有できる方々と、思い出に浸ることによってしか、満たされないのでしょう。

 女川が雪かもしれないというので、塩竈の孫宅に一泊。朝早く出かけました。
 次女孫は、インフルエンザのため、娘と長女孫の3人で出かけることになりましたが(夕方だけ、石巻で孫家族全員と会食)、孫の話を聞いていることも楽しかった。いつも戦闘状態(?)のなかで、個性を見つけにくかったが、いろいろと観察ができた。
 2回の法要、よく我慢していたと思います。「爺、今日は泊まって、絵本読んで」と言われると、嬉しい。何度も、「お願い」と言われると、動揺するが、ふと「孫があの時引き留めた」なんていうことにならないよう、白石付近雪のなか、慎重な運転で福島に辿り着いた。
 テレビを見たら、その後通行止めになったようで。わずかな時間差かな?
 一周忌、被災者の気持ちにも変化があるし、また支援の輪も冷静になるかもしれない。しかし、これからが長い復興の足取り。いつもでも町と、町の住民に寄り添い続けたいものだ。その意味でも、私にとっても、再出発の日となった。(3/11)<10388>


◇ 午前中は、研究室で昨夜のフォーラムの後始末。会場費等カンパをお願いしているので、1円単位まで帳尻を合わせる。
 どこもスポンサーはなし、という大見得を切っているが。何とかなるもんだ。
 会場費だけ。講師手当は無料。郵送の連絡はしない。原則、E-メール連絡に限定。しばらく、カンパをとらなくても大丈夫。

 午後、コープふくしまの定例理事会。業務は順調、今年度の総代総会が近づいているので、やるべきことが多い。
 1周忌を前に、そちらこちらとインフルエンザにやられている。我が家族の三か所、すべてがインフル患者を抱えている。こんなことはなかったのに。まあ、慌てないで、治すしかない。女川へは、早朝、私一人が代表で参ることになりそうです。雪が心配ですが。(3/9)<10343>


◇ 研究室は早めに登庁。研究室撤退のための整理を急がないと・・。それと夜のフォーラムの印刷など準備。

 準備はともかく、昼休みに教員控室におりたら、最近、教務補佐で手伝っていただいている方と、立ち話。小鳥のペーパークラフトがあり、それを飾ってあったので、面白いと思い、組み立て用の材料を二つ買った。(シジュウカラとキビタキ)彼は、そのペーパークラフトのデザイナー。
 雑談で、スズメを見ながら、近所の焼き鳥店の話をしたら、なんとその近くの住まいだという。私の家の目と鼻の先。あれっ?と、改めて苗字を確認したら穴沢さん。えっ??。大学時代の友人で、高校の先生を退職した穴沢さんの近く?何ということはない、いまは、親元に同居。それで、友人のご長男と確認。
 前からすれ違っていたが、まさかである。穴沢さんは、学生時代のセツルメントサークルでも一緒。私は、あまり熱心ではなかったが。
 ホームページを見たら、なんと素晴らしい作品。身近に、こんな芸術家がいるとは・・・。迂闊でした。
 今聞いてみると、弟さんは花屋を経営しているらしいが、震災で私が多くの身内を失ったということで、お見舞いの花を頂いた。本人には直接会っていなかったが、お母様にお礼の電話をしたことがあった。心が温められる思いがした。ペーパークラフトにせよ、花にせよ、優しく育てられた家庭環境と推察する。何か、もっと普及が進んで欲しいと思った。

 夜のフォーラムも第7回。今日は「食品の放射線物質の暫定規制値の見直しについて」。
 「コープふくしま」で、理事として一緒に活動している大学の佐藤理先生の報告。
 行政の担当者、食品等の専門家、医師など、様々な視点から活発な議論が展開された。
 世の中の様々な意見が反映されるのはいい。
 さらに、議論の深化と広範な人々とのネットワークを広げたいものである。(3/8)<10312>


◇ 研究室の書籍の整理。段ボール1箱、図書館に返却。あと半分だが、少し整理を進めないと出てこないかも。
 捨てる図書を整理。全集ものなど、卒業生に打診したら、なかなか飛びついてくれない。仕方がないね。本及び本を所有することに対する、それほどの執着がないのかも。
 我々の時代の方が、異常なのかも。やはり、情報が簡単に入る環境のなかで、本自体の執着心はないのかな。まあ、せっせと捨てるしかない。将来、処分で家族に迷惑もかけられまい。

 デイサービスのお迎え当番。3時半には研究室を退散。原稿執筆と講演の準備もあまり進まない。
 1周忌で女川に行くが、何か気持ちが落ち着かないのかも。不器用なので、時間をかけて一歩一歩進むしかない。(3/7)<10287>


◇ 春のような暖かな日。午前中、ショートスティに義母を迎えに行く。健康イキイキしていて安堵。車に乗せて帰宅。
 午後からの本宮市情報公開等審査会にでるために、大学経由で出かける。大学内は、合格発表の余波か、車が満杯で止めるところがない。路上駐車をして一時研究室へ。
 審査会は、本宮市役所。不服審査はないが、1年に一度は情報公開の状況を確認するとのこと。前任者の同僚が忙しくて、委員が回ってきた。

 夜、クローズアップ現代、女川の若い漁師の頑張り、大船渡の母を亡くした家族の慟哭。涙が止まらない。歌謡コンサートの歌にも泣ける。民放の「石巻日日新聞」の6枚の壁新聞のドラマ。
 身につまされながら、自立しようとする被災者のドキュメンタリー、そして希望の歌、そしてドラマ。心に疼いているモノが溶け出す。固めていたものが溶け出す。

 孫娘の一人がインフルエンザ。あっ、狭い家の中、他に蔓延しなければいいが・・・。下火になってきたとはいえ、油断できない。
 市原市に住む女川の同期生・谷君から手紙。彼が仲立ちして、地元の中学校と女川一中の架け橋になっている。市原の三和中学校から、同じ花時計キットが贈られた。学校だよりによれば、二つの中学校は、これから「同じ時を刻む学校」としての連携が始まるという。何か温かい気持ちをいただく。(3/6)<10264>


◇ 月曜日の朝は、湿った積雪。予想では東北南部で大雪予報。
 県庁での午後からの会議のために、午前中に研究室に出かけ、木曜日のフォーラムの案内作業をしようと思っていた。
 西道路までは順調で、ガソリンを入れて向かう。しかし、旧4号国道に入るあたりから渋滞が開始。どうも坂道でトラックがチェーンをつけながらも登れない。車も多い。東北道が通行止めで、みな普通道に合流。結局2時間近くかかって到着。
 この調子だと県庁での会議にも遅れそう。30分ほどの事務処理を行い、再び、坂道を降りる。
 スムーズに到着、県庁食堂で昼食を食べ、会議。3時頃には終了し、帰宅。

 今日3月5日は、津波で犠牲になった実姉の誕生日。満72歳の誕生日だ。
 去年の今日は、珍しく誕生祝の電話をした。そして2日前ほどの地震・津波注意報の際に電話。これが最後だった、声を聴いたのは。
 テレビは、1周年が近づき、地震津波の報道が続く。
 11日の慰霊祭、一つ一つの行事を経て、心を静めていくしかないのだろう。
 女川出身の写真家・佐々木麻弓さんの写文集『女川 佐々木写真館』(一葉社)が届いた。読み始めて、また3.11直後の私自身の心の葛藤を思い出す。あれは嘘で、悪夢であってほしいと思いながら。(3/5)<10232>

 


◇ 天気がよく、気持ちの良い日曜日。孫宅への荷物が貯まったので、配送の役割。
 10時過ぎに自宅を出て、白石ICで降り、4号線を北上、大河原から亘理へ。亘理の食堂(田園)で、「はらこ飯」を買って、塩竈へ行く予定。
 4号線から6号線への道は、意外とスムーズ。食堂の前は、空き席待っている人で一杯。これはダメかなと思いつつ、レジに行くと、持ち帰りの弁当はすぐに出るとのこと。
 「はらこ飯」は秋限定なので、「ほっき飯」。ほっき飯弁当を7人分買い、6号線から仙台東部自動車道の亘理ICへ。12時15分には、塩竈着。
 一番下の孫(男)は、3週間後に1歳の誕生。顔を見ると、すぐに抱っこしてくれと、手を出すから可愛い。
 歩けるとは思うが、お出でというと1歩進んで、手を出してくる。まあ、時間の問題だな。

 みんなでワイワイやっているうちに、時間が過ぎる。
 2時過ぎに帰ろうかということになったが、帰りしな、女川で被災して多賀城に住む姪が、3月末の開店を目指して準備しているというので、そこに寄ることにした。
 トレーラーハウスの食堂。慣れない土地で、心配はあるが、失敗を繰り返すことを恐れないで頑張っている。
 学校に行っている子どもも多いので、親一人、頑張っている。焦らないで、何とか頑張ってほしい。
 しばらく、雑談後帰途。午後4時の帰宅。

 フェースブックを見ると、同僚の丹波さんはキューバからアメリカへ。
 ジャーナリストの藍原さんは、フランスへ。
 みんな、震災の伝播者として、世界に羽ばたいている。頑張ってほしい。(3/4)<10209>


◇ 3月3日の雛祭りです。 積雪はあるが、天気はいい。

 遅めの出勤ですが、大学研究室へ。事務処理と研究室の整理を目標に出勤。
 ところがです。エレベーターが動いていない。階段の非常灯も点いていないので、これは停電と気が付く。
 健康のため、毎日8階まで徒歩で歩く同僚が多いが、仕方がない、私も真似をする。
 6階までは意気揚々だが、そこでピタリと足が止まる。何とか8階の研究室に到着。

 しかし、パソコンもつかないので、仕事にならん。
 仕方なし。研究室の整理。捨てるものをより分け、台車3台分になった。見えるような整理の進捗はないが、まずは第一歩。

 警務員さんに聞いたら、2時ころまでとのこと。それでは、昼食をとって帰ってくるときにはエレベーターが動いているはず。
 ところが生協も売店も停電お休み。学外に出てラーメンを食べて、帰ってきたが、2時過ぎても動かず。また徒歩で8階へ。
 職員に聞いてみたら3時頃復旧とのこと。
 問題は、事前に知らなかったこと。やはり、大学の情報が入らなくなった。教員会議にも出ていないし。
 しかし、後で知ったら、お向かいの先生も知らなかったと言っているから、まあ許せるか。

 朝の電話とメールで、講演の依頼。朝は、大学の先輩から6月2日。仙台で。復興に向かう話。そしてメールは、5月3日の盛岡での話(震災と憲法?)の打診。能力超過の機会だが、逃げないで対応することにしよう。

 夜、テレビで「タイタニック号」の映画鑑賞。迫力満点である。(3/3)<10189>


◇ 体調は大分よくなった。ショートスティに送る。
 家族にインフルエンザの者がいるというので、入居については、慎重になった。
 ディサービスも同じだったが、他の利用者に迷惑かけてはとの問題。
 本人はいたって元気なのだが、家族の中のことだから、感染していると考えるのが一般的かもしれない。
 入居は拒否されても、家族が病気でダウンしていては、介護もままならない。保育所も同じかな。一番、お願いした時期に、実現できないと大変。施設の慎重な立場は、理解するのだが・・・。

 午後、研究室に出かけ、残務処理。卒研報告集の印刷。
 製本は業者に頼んだが、中身はこちらが印刷。17部にすることにして、印刷枚数は5000枚を超えた。
 ただ、印刷機を監視しているだけだが。
 そのうちに、雪が降り出した。天気予報どおり。早めに帰ろう。

 家に着くと、東京の従姉のさえ子さんから、宅急便。お菓子と実姉の写真
 石巻の従姉・教子さんが頼んでくれていた。
 他の写真もある。親たちの兄弟姉妹の写真。法事のときかな。48歳で亡くなった私の母親もいる。
 何時の写真か、はっきりしないが、それぞれの世代が、第一線でがんばっていた時代。
 写真の画質はともかく、そこに大切な思い出、思い出の人の生きている姿が見える。

 長女は、3人の幼児を夫君に頼んで、資格試験受験のため東京へ。2日間の宿泊で、ようやく自宅に戻った。
 離れてみると、離れていられないが、いざ戻ると、そんな感傷を許さない現実との格闘の再開だろう。
 まあ、家族が一緒にいるのがいい。(3/2)<10170>

 


◇ あっという間に、3月になりました。
 まだ、年度最終月ではないと思っていたが、突然(?)来てしまいました。。
 先週の土日、フォーラムと入試で大学に行ってませんし、月曜日から水曜日まで、県議会出席と自治体の審査会など学外の仕事で、大学に行っていないので、連続5日の欠勤(?)ということになります。4月からは、これが日常になるでしょう。
 研究室で、卒研報告集発行のための印刷会社と話し合い、そして印刷(原本)。しなければならないことが山積しています。スムーズに撤退ができるかどうか心配になってきました。
 3月の課題を確認しておきます。
 @女川関係:3月11日の合同慰霊祭など。可能であれば、3月23日の女川図書館の開館に行ってみたいなあ。実姉の写真収集は進んでいない。(もう少し時間かけるか?)
 A復興支援フォーラム:3月8日、3月22日、4月6日の準備。
 B講演関係の準備(3/28会津若松市議会、5月盛岡市、名古屋市)
 C執筆・研究:法律時報4/16締め切り、社会保障法学会シンポジウム(3/29研究会)
 D4月以降の講義準備(シラバス等)
 E確定申告(3/15)
 F学外業務
 G残務処理(卒研集・郡山市講演後始末)
 H卒業生の結婚披露宴(3/25)・卒業式(3/26)
 Iそして、研究室の整理(図書・パソコン関係)
 まあ、どこまでできるか、なんとかこなさないと・・・。忙しい3月。(3/1)<10153>

 



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