不定期日記


「集中証人尋問で再認識した張り子の虎とその威を借る狐」 2001.12.23

 96年5月の社内報新人紹介に、私の写真とともに次のコメントが載っている。
「団塊の世代と我々ジュニアとでは、価値観が違って当り前。社長訓示の上下関係のない自由濶達な議論を実践し、新聞社の悪習には徹底的に挑戦します」
 その行き着いた先が、この裁判であり、この日だったと思うと感慨深いものがあった。会社は私を受け止めることができなかったし、私は会社に染まることを拒否した。

 十八日、三人で証言台に並び、真実を述べることを宣誓。四時間にわたる集中証人尋問が始まった。この日の感想は、まさに私が新人として赴任し、一番最初に感じて書き、皆に送ったもの(96/5)と同じだった。「張り子の虎とその威を借る狐」である。第一印象というのはバカにできないものだ。

 佐々も守屋も、慣れない法廷とその準備で、かなり参っている様子であった。二人とも、しょぼくれた冴えない中年といったイメージをわざと演出しているように見えるほど、その肩書きが発するイメージとは異なっていた。

 しかし彼等は一たび会社に帰れば、編成局次長・日経産業新聞編集長として威張り、意見を述べる部下に対して威圧的な態度をとることは、私が実体験として知っている。守屋は議論に行き詰まると、大声で怒鳴るのが常だった。それが公の場に出ると、堂々とした態度ではっきりものを言うことができない。佐々など裁判官から「はっきり大きな声で、特に語尾をしっかり言って下さい」と注意されていたくらい、ぼそぼそとしかしゃべれなかった。あれが、処分理由を教えろと迫る私に「文句があるなら、裁判をすればいいじゃないか」と会社の代弁者として高圧的に言い放った2年前の佐々人事部長と同一人物とは思えないほどである。

 彼等の姿は、何かに怯えているようでもあった。2人とも、発言に失敗して日経に捨てられたら路頭に迷うしかないからだろう。だから、会社の利益を忠実に代弁する答弁をしなければならないプレッシャーがある。自分の意見など持たず会社の代弁者として生きることが、この会社で出世する近道なのであり、そういう社内でしかものを言えない人間を量産するシステムことが日経の本質だからである。佐々はこの表現が気に入らないようだが、もう一度はっきり言えば、そのような組織の行き着く先はナチだ。

 被告が処分理由として挙げてきた私の文書にも書いたが、私はこの日経というシステム自体が邪悪性を帯びていると思うので、以下もあえて再掲する。
「邪悪性とは、自分自身の病める自我の統合性を防衛し保持するために、他人の精神的成長を破壊する力を振るうことである、と定義することができる。簡単に言えば、これは他人をスケープゴートにすることである。われわれが他人をスケープゴートにするときは、その対象となる相手は強い人間ではなく弱い人間である。邪悪な人間が自分の力を乱用するには、まず、乱用すべき力を持っていなければならない。犠牲となる相手に対して何らかの支配力を持っていなければならない。」(「平気で嘘をつく人達」より)

 まさに私は権力の乱用によってスケープゴートにされた訳だが、彼等は病める自我を防衛するために、今回の証言でも平気で嘘をついていた。「ワシントンポスト・ハンドブックのなかでは取材源の原則公開がうたわれているが」との質問に対し、守屋は「記事の中ではなるべく明らかにすべきだと思う」と突然言い出した。まるで昔からそう思っていたかのような言いっぷりであったが、そんなセリフはこれまでの長い議論のなかで初めて聞いたので、私は吹き出しそうになった。これまでは会社の代弁者として考えたこともなかったことを、今回、初めて学んだのだろう。また、守屋は当時の私の評価に対し「AかABだったと思う」などと逃げた。間違いなくAであることは記録を見ればわかるから、知っていてわざと曖昧な答えをしたのである。

 佐々はさらに滑稽で、「会社批判の一切の行動をとった形跡がない」と意見書で述べている根拠について証拠を出して追求すると、何も答えられなかった。実際、私は日常的に行動していたのは事実であるが、それが本社に伝わらず、守屋が全て現場で揉み消していたのである。それはまさに、彼の「病める自我」を防衛するためだったのだろう。出世するためには自分がいかに現場をうまく管理できているかを本社に示さねばならない。そのためには部下を犠牲にしてでも、何ごともなかったかのように揉み消すのが最良の方策なのであった。そして、それを評価してしまうのが日経という官僚組織であった。事実、彼は出世して2年後には編集長だ。それを見た社員が、会社に評価され出世するために、部下に対して同じ行動をとる。

 この邪悪性の連鎖という悪循環、つまり悪を量産するシステムは、どこかで食い止められねばならない。本訴訟はその一貫であり、権力者を公の場に引っぱりだし、初めてその実態が明らかにされた意義は大きい。本訴訟をステップとして「張り子の虎」を徹底的にブチ破いてやる必要がある。初心忘るべからずで、徹底的に挑戦したい。


「暖房の設定温度を一度下げる人たちへ」 2001.11.23

 日産自動車のゴーン社長が10月30日に発表した2001年3月期の業績見通しは、売上高が6兆1000億円。前期と比べ総額は横ばいながら、営業利益は2200億円と実に2倍以上に増え、税引き後の当期利益は2500億円。決算期の初めに計画していた600億円を大幅に上回り、過去最高だった'90年3月期の1160億円も上回り、日産にとって過去最高の利益が見込まれることになった。

 ゴーンは著書のなかでこう述べている。「日産は細かな部分であれこれと経費削減に努めていた。エグゼクティブ経費にもメスが入れられ、たとえば海外出張時にビジネスクラスを使うのをやめたりした。社内でも紙や事務用品の節約を呼びかけ、冷暖房も過度の使用を控え、夕方ある時刻以降休止する措置まで導入した。こうした措置は、実際には社員に罰を与えているだけで、本質的な問題解決につながるものではない。暖房の設定温度を一度下げるのは、コスト削減のための優先順位設定からの逃避である。冷暖房費の削減をするのもいいが、問題の核心に手を着けないのなら、いつまでたっても財政難から脱出することはできない。」

 なぜ私がこの部分に納得してしまうのかと言えば、経営コンサルタントとして似たような場面に良く遭遇しているというのもあるが、日本のあらゆる問題はまさにその典型であって(だからこそ構造改革が叫ばれている訳だが)、その中でも核心となる問題こそマスコミだと思うからだ。権力発、記者クラブ経由の圧倒的な「情報流」を変えなければ日本は変わらない。それこそが本質的な問題であって、既存のマスコミを批判するセミナーやシンポジウムやジャーナリスト養成講座(活動の場などないにもかかわらず!)、といった対症療法的な活動は、暖房の設定温度を一度下げているようなものであり、ガス抜きに過ぎない。偽善者、ならぬ『偽改革者』である。

 「改革に向けて進んでいるつもり」にはなれるから自己満足にはなるが、実際には何も変わっていない。そんなヒマがあったら、新しい新聞を作って権力の対極から発する情報を増やすなり、リスクを冒してでも報道現場の情報を発してそれを阻む権力に対して裁判を起こしてでも白黒ハッキリさせるなり、といった本質的な改革につながる具体的活動が不可欠だが、こうした活動はリスクが伴う(会社と闘ったり、自身の立場が脅かされる)から、残念ながらこれまで一切、行われてこなかった。みんな自分が可愛いし、人間はそもそも弱い。しかしその結果、日本のジャーナリズムは、ゴーンが来る前の日産のように問題だらけである。私はただひたすら、問題の核心に手を着ける活動に専念する。


「新聞業界の体質を表すSEVEN休刊」 2001.11.9

 朝日新聞社が九月十八日に創刊した「SEVEN」という週刊新聞が、あっさり休刊を決めた。キオスクやコンビニだけでなく、スターバックスやTUTAYAを販売網として若者をターゲットとした新聞だったが、私も創刊号だけ買って、その内容のなさとにじみ出る傲慢さに不快感を持ち、さすが朝日だと思った。いくら大朝日の看板で強力な販売網があろうとも、半年以内に廃刊か、または全く中身を変えて生き残るか、だと思っていた。

 私が常々指摘してきたように、新聞業界は日本有数の規制産業であり、競争原理が全く働いていない業界である。昔の国鉄や今の道路公団みたいなもので、客の求めるモノやサービスについて考える必要がないのだ。考えているのは、客のニーズと関係がない、業界内の遊び(犯人が逮捕されることを発表される半日前に書く、とか)や労働組合活動といった客(読者)の価値とは無関係なことばかりである。国際的な競争にさらされている企業でバリバリ働いている人が見たら、日本の新聞記者などただのバカな子供に見えるだろう。

 読者無視の象徴的な事実として、新聞社には、一般企業でマーケティング部にあたる組織がない。これがいかに時代錯誤なことか。傲慢にも、俺様が書いたんだから読むに値する記事に決まってるだろう、という訳である。そんな付加価値のない存在意義のない奴らが新しい新聞を出してもうまくいく訳がない。それでも平気で高い給与を得て偉そうに生きていられるのも、政府と癒着して規制に守られているからだ。再販の特殊指定がなくなれば、価格の競争原理が働き、市場が価格を決めるようになるから、まず各社とも販売店網を維持できなくなる。現状の販売店網ほど非効率なものはないからだ。何といっても、五社なり七社なりが、宅配するために毎日、同じ時間帯に同じルートを回っているのである。民間であれば、このような重複業務に関しては当然、合理化のため数社が統合するという発想が生まれる。近年、医薬や日用雑貨の卸業界で合併・再編が盛んに行われてきたように、共同配送でスケールメリットを出していかねば生き残れない。一部あたり約50円もの新聞配送コストはこうした不合理な配送システムがまかり通っている結果で、このようなバカげたコストがかかるのは、もはや新聞くらいのものだ。規制が撤廃されれば、当然、潰れる新聞が出てくる一方で、新しい新聞の参入も出てきて、市場が活性化するだろう。

 「再販が無くなると決定的な弊害も生じてくる。値下げと競争激化によって、まず販売店が潰れ、媒体価値の弱い新聞社が潰れ、……」(日経社内報99年1月号)と社長の鶴田が危惧している通りになる。競争原理の導入と多様な媒体の出現は、国民の知る権利の確保、ひいては日本の民主化にとって、非常に好ましいことだ(日本は形式的に民主主義の体裁を持つ社会主義国である)。

 経済のデフレが進むなか、消費者が、欧米の三倍程度という日本の新聞代がいかに高いかに気付くようになるのは時間の問題だ。SEVENのような、ろくに市場調査もせず、客を無視した何の特色もない新聞は、当然のように受け入れられない。昔からの惰性でとってきた本紙のほうも、いらない、となるのも時間の問題だ。SEVENで失敗した朝日は巨額の損失を出したはずだが、恐らく誰も責任をとって減俸になったり辞めさせられたりしないはずだ。市場原理が働いている業界ではないから、そうした切迫感が全くないのである。当然、そういった環境で良いものができる訳がない。失敗しても、そのコストは、バカな読者が毎月支払ってくれるバカ高い購読料で穴埋めされるからである。まったくおめでたいものだ。この国の国民は、いったい、いつまで新聞を定期購読してこの理不尽な状況を支え続けるつもりなのだろうか!!


「知られざる新聞社の特権」 2001.11.1

 SAPIOという雑誌は、定期的に新聞批判記事を掲載する。その多くはガス抜きに過ぎない規範論であるため注意深く読まないと重要な情報が見つからないのが難点だが、11.14号には通常、全てのマスコミが意図的に取上げない重要な情報があったので紹介する。

 第一に、「第三種郵便物」として認可されている新聞は、広告量が印刷された部分の50%未満でなければならないのであるが、92年9月、郵務局企画課長の名で通達が出て、営業目的でない意見広告・死亡広告・入試案内広告特集など紛れもない広告が、広告量算定の対象から除外されたことだ。バブル崩壊とともに業績が悪化しつつある当時、少しでも広告収入を増やしたい新聞業界と行政が癒着した結果である。その証拠に、この事実は一切、世間に報じられていない。 実際、私が今年4月に実施した調査結果では、全面積に占める広告の比率は、読売の57.5%を筆頭に、朝日/読売/毎日/日経の平均で53.7%と50%を超え、新聞は広告代理店と区別がつかなくなってきている。

 第二に、93年から、資本金5億円以上で500名義以上の株主を持つ会社は、決算期ごとに有価証券報告書を国に提出することを義務づけられ、各地の財務局で一般に公開されているのだが、95年9月の旧大蔵省令の改正で、何と日刊新聞社に限って、社員持株会を作って多数の株主を1つの名義にまとめ、名目上の株主数を250名義未満に減らせば、これを提出しなくて良い、という特例が認められたことだ。つまり、新聞社だけは特別、情報公開をしなくてよろしい、という時代に逆行する信じられない特例措置がまかり通ってしまった。  
 有価証券報告書が公開されれば、そこに載っている借入金や投資先などと紙面の論調や記事とを見比べて特定企業との癒着をチェックできるのだが、それを封じ込められたのだ。権力に情報公開を迫るべき新聞社が、自身の情報を非公開にして貰うことによって、権力(官僚)に借りを作ったのである。お互い、痛いところは隠したままにしておきましょうね、という訳だ。この事実も勿論、知らされていない。これはもはや、癒着どころではなく犯罪である。本来の使命(権力の監視)とは逆のことをやっている訳で、余りに汚すぎる。

 こうした特権が新聞社に認められている事実は、もっと知られなければならないが、雑誌にもまず載らないのが実態で、本当にどうにもならない状況である。業界関係者は知り得る立場にいるが、日本では記者に表現の自由が認められていないから、どこにも書けない。最後の手段としてネットで書くと、私のように処分される。これがどれほど恐ろしいことか、分かるだろうか。

 新聞は他のメディアより信頼性が高いという調査結果があるが、上記の事実を知った上で新聞を読めば、見方も全然変わってくるはずだ。この言論統制の状況を何としても変えていかねば、国民の「知る権利」は永遠に守られないことになり、民主主義国家には永遠になり得ない。


「炭疽菌とナウシカ」 2001.10.29

 「この粘菌を培養してトルメキアにバラ撒けば戦争は大勝利です」。土鬼(ドルク)は、戦場で使うために「ヒソクカリ」という種苗を人工的に育てた。しかし、それが次第に意志をもち、粘菌となって、瘴気(猛毒)を撒き散らす。瘴気で脳を冒され狂った蟲たちは殺し合う。粘菌は、蟲の屍を食い、ものすごい生命力で、いくつもの村を呑み込んでいく。解毒剤は見つからず、その間にも種苗はいっせいに粘菌に変異していく……。


 以上、「風の谷のナウシカ」(宮崎駿)の一幕だが、こうした、自然に対する人間の作為、そしてそれを生命への侮蔑であるとするナウシカを通して、生きることの本質を問うのがこの物語の一貫したテーマだ。(「もののけ姫」も基本的に同じ)

 宮崎さんのメッセージは明確だ。それは「風の谷」の貯水池を例にナウシカが言うように、「浄化された世界に私達は憧れてもそこでは生きられない」ということである。

「火の7日間戦争」のあと、世界の汚染がとり返しのつかぬ状態になった時、人類の再生を計画し、生態系を作り直した当時の人間に対してナウシカは言う。「その人たちはなぜ気づかなかったのだろう。清浄と汚濁こそ生命だということに。苦しみや悲劇やおろかさは清浄な世界でもなくなりはしない。それは人間の一部だから‥‥。」

 原理主義勢力によって人為的に兵器として作られたとみられる炭疽菌で、米国では既に3人が亡くなっている。そもそも、米国自体がキリスト教や資本主義、グローバリズムの原理主義者である。

 『清浄な世界』の実現を目論む人間がナウシカに発する言葉は、米国やタリバンを含む原理主義勢力が発する言葉にダブる。「おまえは危険な闇だ。生命は光だ!!」それに対するナウシカの言葉を、そのまま現代の原理主義勢力に贈りたい。「ちがう。いのちは闇の中のまたたく光だ!!すべては闇から生まれ闇に帰る おまえ達も闇に帰るが良い!!」。


「論理に勝る非合理な『善玉・悪玉論』」
 2001.10.8

 戦争が始まった。90%以上の米国人が「報復テロは起きる」と考えながらも、同じく90%以上の米国人が報復戦争を支持している事実は、実に興味深い。これはやはり、「英雄的戦い」といった集合的無意識が、論理的な思考(意識)より優先されるという人間の本質が表れたと言えよう。我々は、ユング、フロイト、パレートといった先人の指摘から学ばねばならない。

 ユングは、その人個人の経験に由来する個人的無意識とは別に、無意識には「 集合的無意識」というもっと深い層があって、それはすべての人間にとって普遍的で生まれついた時から備わっていると考えた。集合的無意識は、元型的状況と不可分の関係にある。ユングは元型を「本能的行動のパターン」とよび、「人生には様々の類型的な状況があるが、それと同じだけ多くの元型がある。その無限の繰り返しが、我々の心的構造にこれらの経験を刻み付けたのである」と述べている。

 元型的状況とは、たとえば誕生と死、結婚、母と子のつながり、英雄的戦いなどだ。ギリシア神話や近代劇などに扱われているこういう関わりと争いのテーマは、元型的状況を表わしていることが少なくない。それらが多くの人に訴えるのは、私たちの魂の中にある共通の琴線に触れるからだ。この共通の琴線が魂の元型的層であり、集合的無意識を形成しているのである。

 19世紀末、フロイトは人間の行動を最も強く支配するものは意識的なものではなくて、下意識と呼ばれる非合理的なものだと主張した。社会学者パレートは、政治において最も重要なのは、神話によって代表される『非論理的行動』であると述べた。

 約40年前、高坂正崇教授は以下のように指摘した。「戦争の原因をある特定の勢力に求め、それを除去することによって平和が得られるという善玉・悪玉的な考え方は、われわれ人間が行動力には勤勉でも、知的には怠惰な存在であることに原因している。昔から、困難な状況に直面したときの人間の態度は、いつも判で押したように同じであった。そんなとき人間は、いつも非難すべき悪い人間や悪いものを見出して、それを血祭にあげてきたのである。そしてそれは、二重の意味で人間の知的労働を省いてきた。まず、それは単純明快であった。次にそれは、普通の人々のほうは何も変化しなくてもよく、それまで通りの生活を続けることを可能にするものであった。」(「国際政治」中公新書)

 善玉・悪玉論は、論理的でない点で集合的無意識による行動の代表格である。今回の戦争では、米国人は確かに何も変化しなくて良い。世界的な貧富の較差を拡大させてきた張本人であるが、何ひとつ反省しなくて良いから楽だ。米国は善玉で、ラディンは悪玉なのだから。しかしそれでは永遠に戦争は終わらない。我々は先人から学び、無意識に押されることなく、論理的に考え、理性で行動しなければならない。戦争に全面的な支持を表明し、単純に米国に巻き込まれているだけにしか見えない日本の対応は全くお粗末である。

「人証決定」
  2001.10.1

 10月1日、東京地裁517号法廷にて円卓を囲み、立証方法についての話し合いが持たれた。原告、被告の双方が証拠申出書を提出。被告は、西部支社編集部長の守屋氏(40分)と人事部長の佐々氏(30分)が人証として法廷に登場する。原告はもちろん私自身が人証だが、事実関係での争いはほとんどないため、あとは協力していただける学者や現場記者の方々に鑑定書を書いていただき、提出する予定となっている。
 11月中に陳述書を双方が提出し、12月18日(火)に半日かけて立証し合う。証拠の提出などは一通り終わり、争点は、より本質的な「表現の自由」に絞られる方向となり、判決はかなり意義深いものになることが確実となってきた。どちらに転んでも、日本に言論の自由が本当にあるのかどうかがはっきりする。

 法廷に出てくる2人は、私自身、直接的に議論した経験からいえば、腐敗企業の代弁者として自分自身でろくに考えもせず組織の忠実な犬として機能することによって甘い汁を吸って来た日経の部長連中の代表者的存在だ。2人を法廷に引っ張り出すことに成功しただけでも歴史的意義は大きい。この機会に、部下の管理の仕方や権利と義務について、また新聞社が社員から表現の自由を奪う問題の深刻さについて、よく考えてもらいたい。

 裁判所での印象を2つ。第一に、法廷の前に張り出された紙を見て、実におどろおどろしく大袈裟な印象を持った。「裁判沙汰」などという表現が生まれるのも分かる気がする。とても身近なものには感じられない。しかし、もっと裁判が身近で当り前のものにならねば民主主義の法治国家は機能しない。「権威」と「身近さ」の両立を実現して欲しい。第二に、日経側の弁護士について。一目で腐敗企業・腐敗権力の代弁者と分かった。社畜しか発することができない絶望的なオーラが見えるのだ。傍聴者は、どちらが日経側の弁護士でどちらが原告側の弁護士かを、一見して見分けられるはずだ。絶対に間違えることはないことをお約束する。


「8年の横暴」  2001.9.30

 3月25日の本欄「JRタブー」で書いた問題に関し、JR東日本の窓口(741箇所のみどりの窓口、157箇所のびょうプラザ)で、10月1日から、やっとView Card以外のクレジットカードも使えるようになる。これまでは、View以外のカードを使えるのは3駅15窓口のみに限られていたため、他のカードを持っているのにJRの窓口で使うためだけにViewCardを作る人が跡を絶たず、莫大な社会的損失を生んでいた。8年間もの長期にわたり権力の横暴を平気で許してきた事実は、日本の消費者がいかに組織化されておらず、権力のなすがままに搾取されてきたかを物語っている。

 JR東日本は、1993年に同カード発行を開始。駅の窓口で「ViewCard」しか使えない仕組みにするという利用者の利便性を犠牲にした消費者無視の手法によって七年連続で会員数を拡大、権力に従順な日本の消費者意識とジャーナリズムの不在も手伝って、2000年度で199万人まで増えてしまっていた。鉄道事業という公共そのものの事業でありながら公共性を完全に無視した企業姿勢に対し、田中康夫長野県知事が「クレジットカードを使える窓口を増やせ」と要求した例はあったが、JRグループから巨額の広告収入を得ているマスコミはJRの広報記事を垂れ流し続けるばかりで、権力の犠牲者たる消費者の立場からの記事は一切見られなかった。


「バベルの塔の崩壊」  2001.9.14

 
彼らは「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。(創世記)

 ワールドトレードセンターが崩れ行く様に、ブリューゲルの「バベルの塔」の絵と旧約聖書の教訓がダブって見えたのは、私だけではないだろう。キリスト教の教えがイスラム原理主義と思われる犯人によって実行されたのは皮肉である。

 米国は、英語という「1つの言葉」を世界化させ、グローバリズムという名の下に、世界中から富を集め、それでも飽き足らず地球温暖化問題で京都議定書を離脱するなど自己中心的な行動に拍車をかけている。その象徴がトレードセンターであり、ペンタゴンだった。

 テレビや新聞だけ見ていると、まるでブッシュ大統領に非がないかのようだが、私はとんでもないと思っている。今回の事件は、全くの一般市民、弱者が犠牲になったオウム真理教の無差別テロとは訳が違う。権力の象徴に明確に標的が定められたものだ。

 政権がより保守的でない民主党だったら今回の事件は起きなかったかも知れない。その意味で、ブッシュに投票した有権者、ブッシュを当選させた米国民には事件の責任がある。テロの犠牲になるのは悲惨であるが、グローバリズムで貧富の格差が拡がり、黙々と餓死していく人たちも十分に悲惨であり、むしろ人数は格段に多く深刻だ。一方的な欧米の立場からのマスコミ論調には、吐き気がするばかりである。ブッシュは報復する前に、反省しなければならない。


「複雑化するジャーナリズムの標的」  2001.8.31

 「東京の下層社会」によれば、松原岩五郎「最暗黒の東京」など反政府系の新聞(「国民新聞」や「日本」)に掲載された一連の貧民窟探訪もの、横山源ノ助「日本の下層社会」等々、明治時代の日本には臨場感あふれるルポがあり、貧困の問題が記者によって明らかにされていた。「むかし、新聞記者が取材のため変装するのは日常茶飯事であった」というように、潜入ルポも活発に行われていたのだ。物価が現在の約七千分の一だった時代、ジャーナリズムの標的は貧困だった。

 ジャーナリズムの使命は権力の監視だ。時代は変われど、常に権力の対極にいる人々の現場の事実を明らかにしなければならない。現代の物質的に豊かな日本では、貧困は問題ではなくなった。現代では、問題が複雑化し、人間全体を標的にすることは難しい。例えば、普通の労働者が株式を所有するようになり、資本家と労働者の垣根は低くなった。逆に、一人の人間の中に存在する様々な立場ごとを、ジャーナリズムの標的にしなければならない。

 ある一人の人間の中には、様々な立場が同棲している。資本家、労働者、消費者、生活者、有権者、環境保護者、健康志向者……。それでは、現代日本で権力の反対にいるのはどういう立場か?まず挙げられるのは、経済成長の裏で世界一の高物価を強いられてきた消費者であり、産業優先で長時間労働を強いられゆとりのない生活者であり、非効率な行政の肥大化で税金を無駄使いされてきた有権者であろう。いずれもが、誰もの中に存在している立場であるが、そうした明確な切り口で事実を伝えるジャーナリズムが機能していないのである。権力によって虐げられている複雑化した立場を、臨場感あふれるルポで明らかにすることにより、権力を監視する。まだ生きている自分の祖父が育った時代にできていたことを、今できない訳がない。


千と千尋の神隠し、その民俗的空間」  2001.8.20

 「芸術作品一般の評価のひとつに、これは何度見に耐えられるか、というのがありますね。『もののけ姫』は三度見、四度見、五度見に耐えられる作品でしょう。見れば見るほど、見えなかったものが見えてくる、そういう映画が『もののけ』です。…二度見では二重構造が見える、三度見では三重構造が、四度見では四重構造が見えるというふうに作品の見えなかった構造が次々に現れてくる」(立花隆「『千と千尋の神隠し』を読む四十の目」より)。
 私は「もののけ」を映画館で12回も観たので、この解説に妙に納得してしまった。私は当時、なぜこの作品に惹かれるのかについて、魂の琴線に触れること宗教的要素で癒されること、を挙げてい.たが(この文書も会社に閉鎖させられた)、それは言い換えれば構造の奥深さでもあったのだ。見る度に心の奥深くが刺激され、新たな発見を引き起こす。それは「千と千尋」でも同じだ。

 宮崎監督の解説で、なぜかがわかったような気がした。「民俗的空間−物語、伝承、行事、意匠、神ごとから呪術に至るまで−が、どれほど豊かでユニークであるかは、ただ知られていないだけなのである。…私達がどれほど豊かな伝統を持っているか、伝えなければならない。伝統的な意匠を、現代に通じる物語に組み込み、色あざやかなモザイクの一片としてはめ込むことで、映画の世界は新鮮な説得力を獲得するのだと思う。それは同時に、私達がこの島国の住人だという事を改めて認識することなのである」(「この映画の狙い」より)。

 この2つの作品に共通することは、民俗的空間の豊かさである。
 「もののけ」では武士と百姓だけという一般的な中世日本の単純かつ貧困なイメージを覆し、タタラ場の人たち、被差別病弱者、太古の森の原生林といった豊かで多様な日本が描かれた。「千と千尋」では過去から現代に至るあらゆる日本文化が散りばめられている。神々と妖怪など登場キャラは、どれも日本の民族的空間とつながりが深いものだ。ハクは日本昔話にも出てくる竜だし、釜爺は伝統職人を、牛鬼は「なまはげ」や様々な鬼伝説を思い起こさせる。妖怪はどれも水木しげるのアニメに似ているし、坊ネズミはムーミンに似ている。銀河鉄道も出てくる。服装も日本古来のものだ。そして、ヘドロにまみれた河の神様は現代の環境問題を、自分で発言できないカオナシはバブル経済を、湯婆婆の息子・坊は過保護な現代家庭を、そして豚にされる両親は飽食の現代を痛烈に風刺する。(ちなみに両親の車がアウディだが、ブランドイメージを落としたと思う)

 映画を見ることはすなわち、日本人の魂の中にある共通の琴線に触れることであり、見る度に、DNAに擦り込まれた何かが思い起こされるのではないか。それが「多層構造」の正体とも言える。

 そう考えると、「もののけ」が世界で公開されても日本ほどのヒットとならなかった理由も分かる。日本人の民族としての歴史や文化こそが、この映画の奥深さであり、観る度に、日本人の意識の表層下にある「集合的無意識」が呼び覚まされ、どこかで懐かしさを感じ、祖先を思い起こし、アイデンティティが刺激されるから「観て良かった」と感じるのであろう。

 宮崎監督のメッセージは重い。「ボーダーレスの時代、よって立つ場所を持たない人間は、もっとも軽んぜられるだろう。場所は過去であり、歴史である。歴史を持たない人間、過去を忘れた民族はまたかげろうのように消えるか、ニワトリになって喰らわれるまで玉子を産み続けるしかなくなるのだと思う」。さて今回は、何度、見ることになるか。


「旧体制ロボット破壊の歴史的意義」  2001.7.31

 最近、昔のファイルを整理していたら、98年12月の読書日記(本は「大前研一敗戦記」)に以下のような記述があった。「嘘でも良いから『大衆性の演出』という悪魔と手を結び、改革を進めて貰いたい。その程度の嘘は、改革が進めば、誰も咎めないことだ。実際、日経のアンケート調査で、99年に期待する人物として第一位に挙っているのは、犯罪者・田中角栄の一味だった小沢一郎であり、菅直人(二位)や中田英寿(四位)をも上回っているのである」

 大前研一は筋論が好きで絶対に悪魔とは手を結ばないが、現実問題をどう変えていくのかという点で考えると、もっと小沢ばりのマキャベリスティックな面が必要では、という感想だった。実際、当時、小沢は自自連立、自自公連立により「国会議員の定数20削減」「政府委員制度廃止」といった政治/行政改革を確実に前進・実現させていた。百の机上の理論よりも一つの改革実行のほうが価値がある。駆け出しの新聞記者として改革実行に何もつながらない発表記事の処理に追われていた私にとっては、小沢が輝いて見えた。
 
 参議院選挙で小沢率いる自由党が共産党を上回る議席を獲得、善戦を見せた。自民党の業界団体や民主党の労組といった組織票は弱いが、一貫して旧体制に立ち向かう姿勢が、地味ながら有権者の評価を得つつあるのだろう。小沢氏には昔のような現実路線に少し戻って、改革を進めて欲しい。国民は実行力ある政治家を必ず支持するだろう。

 このHPは「まだ旧体制下の新聞社と月極契約している人たちへ」と題している。日本は少なくとも明治維新以降、支配層が変わっていない。一度も市民が権力を勝ち取っていない。旧体制は続いたままであり、それを新聞社が権力サイドの情報洪水により「延命」させている。仏革命前、アンシャン・レジームである。その意味で、右の自由党CMは、まさに歴史を象徴した名作と言える。「旧体制」に突進し、突き破り、本物の民主国家に移行することこそ、この時代に日本で生まれ、旧体制の弊害を肌で感じながら生きてきた我々若者の歴史的使命だと、心底、感じるのである。

「裁判と人生」
  2001.7.23

 さる17日に行われた口頭弁論で、準備書面1証拠説明書1及び甲8ないし15号証を提出した。原告訴状→被告答弁書・被告反論→原告反論、というところまで来て、次回に被告がまた反論するそうだ。処分の理由を初めて明らかにしてきたものの、弁護士によれば、まだわざとぼかされているため、確定させるために、準備書面のなかで「処分理由は、被告準備書面(1)第2に記載された事項に限られるのか」と質問した。だいたい、理由を説明しないで平気で処分することが、そもそもおかしい。質問状を出しても答えなかったのだ。このような恐怖人事の会社である一例として、鶴田の理不尽な一声で編集委員も左遷される日経の実態を珍しく明るみに出した週刊朝日の記事も提出した。それにしても、社員はなぜあのような誰からも蔑まれる厚顔無恥なトップの下で働いていて平気なのだろうか。人生は一度しかないというのに、取り返しがつかないではないか、、、。私は、奴らと戦っていることを誇りに思う。

 被告が12時間に及ぶ不法な脅迫(退職の強要)を行ったことを記録した電子メールも2通、提出。時代は遷り、日記も紙からデジタル化しつつある時代、もはや電子メールでも証拠能力があるのだ。日付けや時間がはっきり記録されている。「いずれ、公開するつもりです」と最後に書いて送ったメールが、まさか本当に公開の裁判で提出されることになるとは、、、。当時は予想だにしなかったが、人生はわからないものだ。

 当時のメールを一所懸命、探してくれた方には本当に感謝する。こういう時に人間の本質が見えるもので、感動したり、落胆したり、出会った昔からの思い出が蘇ったりと、人生の良い経験になった。生涯を通じた本当の理解者とはどういう人なのか、人を見る眼が養われるというものだ。そもそもこの裁判自体が、単なるイザコザではなく、私のライフワーク(情報の流れを変革することによる日本の民主化)に深く、深く関連している。「旅は人生に似ている」などと良く聞くが、裁判もまた人生に似ているのである。


「権力というものに鈍感な権力者」  2001.7.16

 「ボクの友人のハーバード大学の教授がね、、……」。権威ある友人の発言を紹介するのが、竹中平蔵助教授(当時)のクセだった。竹中氏の授業は当事から大人気で、私も既に一般教養科目の経済学A,Bを取得済みだったにもかからわず、二年になって受講してみた。今でもよく言っているが、経済は身近なもの、生活そのものとの考えから、授業の最初は必ず身近な時事ネタから入り興味を引く。その早くて切れの良い爽やかな語り口と、わかりやすい内容が人気を呼んでいた。キザなセリフも嫌味に聞こえないズバ抜けたプレゼンテーション能力は、どちらかといえば詐欺師にも似た巧妙さを持つ加藤寛学部長と並び、飛び抜けていた。

 米国心理学者アルバート・メラビアンのリサーチによると、プレゼンテーションにおける影響度は、VISUAL (表情、動き方、立ち方)が55%、VOCAL(声のボリューム、話すスピード、声の抑揚、声の印象)が38%、VERBAL(内容から得ているもの)は7%。一番重要なのはビジュアルという訳だが、竹中氏は、まさにしゃべっていることが絵になる、プレゼンテーションの達人だった。

 そんな竹中大臣が1500株ほど保有している日本マクドナルド(藤田田社長)の公募価格が、4300円に決まった。竹中の取得価格は1450円だから、単純計算で427万5千円の儲けである。教授の年収1200万に加えマスコミに出まくり、マスコミを聖域に置いて稼ぎまくっている竹中にとっては小遣い程度なのだろうが、それにしても濡れ手に泡だ。これで国民に対し「構造改革の痛みを我慢してくれ」というのだから、一般ピープルとしては「まずはおまえが、その国民感情からかけ離れた倫理観を正せ」と言いたくなる。

 経緯としては、藤田社長が設立したフジタ未来経営研究所の理事長を務めた関係で昨年12月に譲り受けたそうだが、一般人はこうした未公開株を入手することは事実上無理であり、藤田社長との友人関係でインサイダー情報も入り易い立場だ。NHKの番組で「IT革命が実現した半額バーガー」を取上げ自ら解説するなど、どう見てもクロに近いグレーな活動を平気でやっている。大臣になる前に売り逃げる公算だったのかも知れないが、思いがけず早期に大臣になれたため、たまたま明るみに出たという訳だろう。

 竹中は自ら「米国の学者のように、政治の世界とアカデミックな世界を行き来する人材になりたい」と公言していた訳で、それを見越した藤田が「将来への投資」と未公開株を渡した構図は、リクルート事件とほとんど同じである。これを追求するジャーナリズムが存在しないのは全く不思議なことだ(「噂の真相」は文字どおり「噂」で嘘が多いから吠えても影響力がない)。 竹中本人は「私生活を明らかにするのには抵抗がある」などと鈍感なコメントをしている。やはり学者というのは一般ピープルとは掛け離れた意識を持っている奴が多い。権力というものに鈍感な大臣に権力を握らせるのは危険である。それを「人気が高いから」と垂れ流し、監視する姿勢を全く見せないメディアは、まさにジャーナリズムの反対に位置する存在でしかない。


「構造改革の聖域」  2001.6.24

 小泉内閣の「聖域なき構造改革」という言葉を聞くたびに笑ってしまう。その言葉が伝わるメディア自身が聖域に置かれているからである。

 日本のメディアは、新聞社とその系列下のテレビ局(5つの在京キー局)が圧倒的に牛耳っているが、これらは恐ろしいくらいに批判を浴びることなく、のうのうと非効率で無駄だらけの経営を続け、リストラや競争原理とは無縁の「護送船団」方式がいまだに続けられている。その結果、日本では戦後半世紀にわたって新規参入がなかった。世界の国々では20世紀後半になり、例えば英国の「インディペンデント」、韓国の「ハンギョレ」、米国の「USA TODAY」といった新しい新聞が次々と創刊されている。新しい新聞が生まれないということは、新しい言論や表現が流布されないということであり、これは国民全体の「選択の自由」や「知る権利」が制限されていることを意味する。

 新聞社は職種のデパートと呼ばれ、調達から製造、販売、流通と裾野の広い一大コングラマリットを形成しているが、労組が異常に強いために、ゼネコンや流通業も顔負けの生産性の低さが温存されている。しかし、政府は仕返しを恐れて手が出せない。まさに、完全な聖域なのである。

 具体的な規制は再販制度と記者クラブ制度であり、これにより日本の消費者は欧米の三倍の新聞価格を支払わされている。一年前に調べたら、米国のニューヨークタイムズは一ヶ月の宅配購読料が14ドル40セント、ワシントンポストは10ドル60セントであった。一度、日本の新聞がいかにバカ高く、消費者が搾取されているかを本格的に検証してみたいところだ。

 インターネットで調べれば、言語さえわかればすぐにわかるはずなのだが、私は何か国語も読めるほど外国語に堪能でない。言葉がわかる方、フランスやドイツ、イタリア、英国、米国、韓国などどこでも良いので、主要国の「一ヶ月の宅配購読料金」について調べていただける方がいたら、ぜひ情報提供していただきたい。宛先:donquixote@mth.biglobe.ne.jp


「悪魔に申し訳ないことをした」  2001.6.20

 やっと被告の反論が明らかになった。重箱の隅を突つき、更に文章全体の主旨や前後関係を無視して一部だけを抜き出して勝手に解釈しているあたりは、さすがに日本の新聞社だ。普段から常套手段として紙面で使っているだけある。中田英寿や小沢一郎が怒ってマスコミをバカにするようになったのはまさにこの「群盲象を撫でる」「木を見て森を見ず」の手法で嘘を伝えられたからである。会社が組織的に捏造記事を書かせている実態に疑問を呈する内容を、編集方針に違反するなどと反論してきた。また、依願退職か懲戒免職の二者択一だと脅した事実を否定してきたが、これも勿論、大嘘である。新聞社が、よくもしゃーしゃーと平気で嘘を付くものだ、と感心する。

 嘘でない部分で論点となるのは、以下の3点となろう。

 第一に、取材源の秘匿。私は取材源は「公開された場合に不利な立場になる可能性のある弱者」のみ秘匿すべきだという立場であるが、会社側は、全て秘匿すべきだという。客が権力であり読者ではないと考えているからそういう定義になるのであって、これは新聞社として絶対に言えないことである。私が書いたことは全て事実で、全て権力のことしか書いていない。

 第二に、会社の機密を漏らした、ということを主張したいらしい。締め切りの時間や部の人数などが機密だそうだ。そんなものは、普通の企業で機密扱いになることはあり得ない。もしこんなものが機密だというなら、他企業のこうした情報をつかんだら一面トップで報じるだろうか。新聞社は権力に情報公開を迫るべき存在なのだから、自身が積極的に情報公開するのは当たり前だ。

 第三に、流言した、と言いたいらしい。個人の表現の自由を侵し、ネット上での表現を全面禁止した行為に対して、表現の自由を守るべき新聞社が行う行為としては最低最悪の自殺行為で、これは悪魔と言われても仕方がない、と述べることが「流言」なのだという。これは極めて通常の感情だ。日経を悪魔と比べたのは、悪魔に申し訳ないとさえ思っている。


「誠意のない編集部」  2001.6.9

 金曜日の記事に、2つめの編集部のミスが見つかった。改行すべきところをしていなかったのだ。私が返信したファクスにもはっきり「改行」と書いてあるし、編集者にもはっきりと説明している。

 なぜ直らないのか。改行ありとなしでは全く文章の意味が異なる重要な場所だ。この「たとえば」は前の段落全てを受けた例えなので、改行がなければ日経の例だと受け取られてしまう。読者と筆者の利益を損なう決定的なミスを二ケ所も発生させた編集部の管理体制が、いかに杜撰なものであるかを実感した。

 しかも対応に誠意がない。まず私が指摘するまで気付かなかったし、指摘した後も、編集部はミスを認め「原因を調べて連絡する」といったきり、担当者が帰ってしまった。これは大新聞以下の誠意のない対応だ。大学のサークルのノリで雑誌を作っているとしか思えない。いくらミニコミでも、ジャーナリズムを標榜するからには、最低限のルールを守ってもらいたい。

 このままではまるで、私の文章力が不足しているかのようである。とんでもない話だ。何としてもはっきりとした形での訂正を出して貰う。


「金曜日の訂正とお詫び」 2001.6.8

 「大新聞は何を伝えているのか」の原文は新聞記事徹底分析に収録してある。紙のほうに編集ミスが見つかったが、もう訂正がきかないというから、ネットの読者には、この場を提供して、訂正とお詫びを掲載する。しかし結局、金曜日編集部は「責任者名で読者と筆者に対して訂正とお詫びを行うこと」を拒否してきた。私は、今回のミスは組織が起こしたものだと考えているので、末端の個人をスケープゴートにして済ませようとする弱いものイジメの対応には、全く納得していない。

 これは編集作業という業務プロセス上の問題から起きたミスだ。分りやすい例でいえば、JCO東海事業所でバケツでウランを溶解していた問題は、現場の責任だけで済むだろうか。管理者の責任がより重いのは明らかで、未然に防ぐ対策をとる責任は、管理者にこそある。

 ジャーナリズムを標榜する雑誌が事実や表現に徹底的にこだわるのは当然のことであり、それができなかった場合の責任の所在は、はっきりしていなければならない。何度もいうように、責任の所在が曖昧で、編集長や社長が責任者としての行動ができないから、読者が逃げて、部数が半減して、廃刊の危機に追い込まれつつあるのである。


「金曜日よ、おまえもか」 2001.6.7

 私が定期購読しているのは三誌しかない。「金曜日」「SAPIO」「噂の真相」である。なかでも金曜日は広告に依存しないジャーナリズムを実践できる媒体として期待している。今回、私がある私的会合で使用した資料が記事として掲載されることになったが、その過程で編集部側にミスがあり、「小見出し」が本文の内容と異なるものに変わってしまった。

 これは執筆者にとっても読者にとっても全く好ましいことではないし、取り返しのつかないことでもあるが、ミスは誰にでもあるのでそれ自体は仕方がない。しかし、その後の対応は極めて不誠実なものだった。

 右の証拠をみればわかるが、上が大刷り1で、下が大刷り2である。私は上の段階で一切、手を入れていないことがわかると思うが、下では勝手に小見出しが変わってしまった。変えたことに関しての説明は何もなく、この段階で私が「元に戻してくれ」と要請して、合意を得て、戻すことになったが、実際には戻らなかった。なんと「忘れてしまった」のだそうだ。

 「地方の声軽視の傾向」というのは、本文と矛盾する見出しだ。第一に、「傾向」というからには、何かと何かを比較しなければならないが、私は今回、過去と現在も比較していないし、他国との比較もしていない。第二に、例えば朝日新聞は地方面が週19面もあると本文で述べているように、「読者が住んでいる地域の情報」という意味では「地方の声」は充実している。ここで私が述べていることは、「自分が住んでいない他地方」の重要な情報を知ることができない紙面構造になっている、ということであって、相対的に全国紙が地方の声を軽視するのは当然のことである。だが、小見出しを読んで先入観を持ってから本文に入ると、それがわかりにくい。

 どうして読者を混乱させ、また記事の質を落とすような小見出しが執筆者に無断で掲載されるのか。いまだに私は、なぜ変えたのかについての説明を受けていない。ただでさえ本文を三分の一に削っており、沢山のことを盛り込んでいるのだから、1つのミスも許されないはずだ。こんなことをしていては紙面の質は落ちるばかりで、だから創刊当時の半分にまで読者が減ってしまうのである。

 編集部は、これが編集部としてのミスであることを認め、部として再発防止策を講じることを約束しながらも、責任者名(編集長または社長)での「おわびと訂正」を出すことを拒否している。責任の所在を不明確にしたがる旧来型の大新聞と同じ対応だ。また次週号での「おわびと訂正」は、「金曜日へ」という欄に私が質問をして、それに答える形で訂正したいという。これも旧来の新聞社と同じであり、驚くべき誠意のなさである。

 そもそも、一度刷られた情報は、二度と訂正はきかない。訂正など出しても取り返しはつかないのだ。しかし編集部は、私にメールで知らせるだけで済ませるつもりだった。電話も全て私の側から架けてやっと出る、という信じられない対応の悪さだ。金曜日は「メディア批判を積極的に行う」「反論の場を提供する」というのをウリにしているが、自分に対しては極めて甘い。他者を批判するからには、自分に対して徹底的に厳しくなければ、読者の支持を得られる訳がない。

 これは個人的なケアレスミスの問題ではない。ミスの防止策を講じてこなかった組織の問題であり、当然、そのトップが責任を追う。私は組織の責任者がおわびと訂正を出し、責任者の名において再発防止策が打ち出されるまで訴えかけるつもりだ。それが、潰れかけたジャーナリズム雑誌「金曜日」を復活させるための第一歩になるだろう。タブーに挑戦できるのは金曜日しかないのだから、その期待と責任の重さに自覚を持って欲しい。


「腐った魚の眼を持つ利権組織の兵隊記者」 2001.5.22

 日本新聞協会に加盟する新聞社、テレビ局、通信社など16社でつくる「県政記者クラブ」は22日、田中知事が会見を記者クラブ主催から県主催に変更すると通告したことに抗議する知事宛の文書を県政策秘書室に提出した。「公権力と報道のあり方にかかわる重要な問題をクラブ側と何ら協議することなく変更を表明したのは遺憾」だそうだ。何の法的根拠もない利権集団に過ぎないくせに、どうして協議する必要があるのか理解不可能である。
 
 テレビで長野県庁の記者会見を見ていて、経世会・橋本派にそっくりだな、と思った。行き詰まった日本を象徴する光景だった。何の理もないことを公然と主張する。自らの組織の利権保持だけが目的で理念や大義名分がない。だから顔にも出る。人間というのは本当に、過去の蓄積が表情に表れるものだ、と思った。

 上意下達の軍隊的組織のなかで、抑圧に抑圧を重ね、自己を失い、遂には組織の代弁者と化して記者クラブを正当化するまでに教育された人たち。すがすがしい表情を持つ新興宗教の信者とは異なり、葛藤の末に魂を売り払い、強引に自己を納得させた跡が、ひきつった表情の奥に見えるのが痛々しい。そこまでして、良心よりもカネや世間体を選ばねばならなかった不幸な過去があったのだろうか。もう遅いのかもしれないが、既存新聞の社畜たちよ、腐敗集団から足を洗い、若き日の眼の輝きを取り戻して欲しい。

「田中知事のインパクト」 2001.5.19

 どこかで聞いた言葉だな、と思ったのも不思議ではない。 私が「脱・記者クラブ体制」と題し、理想論として「記者クラブの開放と有料化」と「市民、消費者、生活者の記者クラブ創設」を提示したのは、社会人1年目の96年のことだった。田中知事が、かなりそれに近づく改革の実行を宣言してくれたのは、まことに嬉しい。新たに設置する「プレスセンター」は、雑誌、ミニコミ、フリーランスなど含む全ての市民が利用可能で、県民が会見を行う場としても活用されるという。やはり市民運動出身者は違う。

 「日本で、いちばん規制緩和されてないのがマス・メディア、とりわけ新聞やテレビなのではないでしょうか。今まで護送船団方式で守られてきた彼ら自身こそ、日頃自分たちがお題目のように唱えている『構造改革』されなければいけないのです」。田中知事は文春のインタビューでそう主張している。激しく同感する。

 田中知事の理解が足りない点があるとすれば、「ジャーナリストの仕事というのは時給にしたら、マクドナルドのバイトよりも安いかもしれない。でも、ジャーナリストならではの、お金に換算できない喜びがあるはず」(文春より)というところくらいだ。大新聞・テレビ社員の平均年収は1300万円をゆうに超えるので、年中無休の365日、5時間寝て1日19時間ずつ働いても、時給1874円の計算となり、マックの2倍程度にはなる。それほど給与が高いくせに、これほどぬるま湯に漬かり、権力監視の使命を果たしてこなかった罪は重大だ。

 田中知事は、脱・記者クラブ宣言のきっかけについてこう語っている。「実際に取材をして批判するのならまだしも、『そろそろ叩く時期がきた』というような空気だけで、ダム計画の現場に訪れることもなく、記者クラブで書いている記者も多い。…ジャーナリストの本分である取材を疎かにして、座って発表を待つだけでも原稿ができてしまう記者クラブ制度の弊害が大きく関わっていると僕は思っています」。これも激しく同感であり、記者クラブ体制の下では、記者は現場に行きにくいし、経営の論理と軍隊的組織の下で、行けない仕組みにもなっている。

 47都道府県のなかの1つとはいえ、大きな一歩だ。小泉首相は是非見習って欲しい。あまり予想されておらず、公約にも具体的には掲げていなかっただけに、インパクトがあった。その戦略家ぶりを今後も発揮して欲しい。また、文筆業出身だけあって、宣言文にも味がある。敬意を込めて、全文掲載させて貰う。

 記者クラブ制度というのは、現在のマスコミが抱える「権力起点情報の圧倒的な流れによる民主化の遅れ」という本質的な問題を引き起こしている1つの現象であり、他にも、再販制度や社内言論の不自由(憲法違反)など解決されねばならない現象は山積み。まだまだ先は長い。


「間抜けな民主党」 2001.5.10

 最近、あまりに間抜けなメールが来た。「さて、このたび民主党では民主党メールマガジン『D-MAIL』を創刊しました。見本として5月8日発行の第1号をお届けいたします。市民を主役とした新しい政治への真の改革をめざす民主党の素顔を、広く皆さんにお伝えして、一人ひとりの皆様とのコミュニケーションを育てていきたいと考えております。下記の民主党ホームページで配信申し込みを受け付けておりますので、ぜひお申し込みください。配信申し込みは http://www.dpj.or.jp/apply/dmail_form.php3 へどうぞ」

 あまりのタイミングの悪さに眼を疑い、返信した。「小泉がやり始めると表明してから慌てて二番煎じをやるなんて、センスのなさに呆れます。同じことやってても、ダメなんですよ!自民党の支持率が低いのに民主党の支持率が上がらなかった原因は、まさにそこにある。 政権交代を目指すのなら、新しい手法を考えて下さい。しっかりしてください。」

 これに対しては、「民主党ではすでに準備をして、この連休明けに創刊することで作業を進めていたところなのです。小泉さんの所信表明には、驚きましたが、私たちにとってもいい宣伝の機会となりました」という呑気な返答だった。問題はタイミングの悪さであって、先に表明された以上、対抗するなら、同じメルマガではなく、mailinglistを創るとか、もう少しひねっても良さそうなものだ。
 
 夏の参院選は間違いなく民主党の惨敗だな、と思った。
「第一回期日」 2001.5.8
 本日,第1回弁論が行われた。出席者は,原告側:塚原弁護士,早瀬弁護士、被告側:西弁護士,石橋弁護士。手続の内容は,原告の訴状陳述,被告の答弁書陳述,被告の書証提出,訴訟進行の確認,次回期日の決定。次回期日は6月19日(火)の午前10時00分,場所は今日と同じ東京地裁710号法廷。次回期日の1週間位前には,被告側から反論の準備書面が提出される予定で、それまでは特に進展なし、という感じ。

 裁判というのは随分とノンビリしたものだ。司法は時代の流れに取り残され、問題だらけになり、もうどうしようもなくなって、やっと司法改革が議論され、いまだ結論を待っている状態。薬害エイズの阿部被告が無罪になってしまうくらいだから、勝ってしまったら悪い奴だと思われても不思議ではない。それほどに、今の司法は市民感情や社会正義とは掛け離れた役立たずのものになってしまっている。それでも、勝たねばならない。残念ながらジャーナリズムが機能しない日本の現状では、こんな頼りない司法であっても、まだ権力監視の手段として「まし」に見えてしまうからだ。


「答弁書の嘘」 2001.5.2

 認識の問題とは別に、事実関係で会社側が明らかに嘘をついている点がいくつかあった。

 第2の3の(2)において、「上司の再三の注意にも関わらず掲載を続行した」とあるが、上司が注意したのは、98年5月の、「閉鎖せよ」というただの一回だけである。よくも平気で「再三」などと言えたものだ。また、「会社の業務または自己の職務を利用して私利を図らないこと(就業規則第33条第3号)に該当する点についても説明した」というのも嘘で、私が説明を受けたのは質問状に書いてある通りの四項目だけだ。会社は質問状を受けた時点でこの点について何も言っていない。そもそも説明自体が、口頭でしか受けておらず、極めていい加減なものだった。だから質問状を送った訳だが、受け取ったことは認めながらも返答しないのだから呆れる。(そもそも事実だとしても、私は一切「私利」を図っていない)。該当する項目をねつ造することによって、何か裁判の上で有利になることを企んでいるのだろう。

 なお、被告は認識の問題だと主張したいのだろうが、同3の(3)において、「被告会社は原告に対して十分な弁明の機会を与えた」とあるのは勿論、嘘である。3対1でこちらには弁護人はおらず、第三者の関与が全くない状態で「懲戒免職か依願退職だ」と12時間脅迫することが「弁明」だと平気で主張するのだから、世の中には本当に悪い奴がいるものである。これが「十分」として認められたが最後、この手口が社会に横行し、人権無視の恐ろしい世の中になることだろう。さらに言えば、そもそも、どんなに弁明の機会を与えたとしても、そんなこととは関係なく、そもそも処分に値するような問題は一切ないのであり、争点はそこにならねばならない。


「ユニクロ礼讃」 2001.4.24

 AERAが、トップでユニクロの中国生産現場をリポートしている。検閲でも受けたかのような「ユニクロ礼讃」広報記事だ。見出しを列挙すると、『高給に求職者が行列』『異物混入を徹底排除』『日本製の最新編み機』・・・。いわく、中国の工場は男女平等で、給与も高く、清潔で、冷房完備で、カラオケ室や卓球台、ビリヤ−ド台、寮に食堂も完備、日本製の最新機械で技術力も高く、すばらしい品質を生み出す。毎日100人以上が採用してくれ、とひたすら待っている、まるで夢のような労働環境。ユニクロという一大権力を監視しようとした「跡」さえ全く感じさせない見事な大本営発表記事だ。例えば、肝心の労働時間には一切ふれていなかったりする。

 ユニクロのような儲かっている企業からテレビCMをはじめ巨額の広告収入を得ている朝日グループとしては、批判などしたら処分の対象になり兼ねないのだろうが、それにしても露骨である。もちろん「悪いことは書きません」という暗黙の了解があってこそAERAの独占取材に応じたのだろうが、新聞社系週刊誌としてのプライドのようなものはないのだろうか。これではユニクロ広報部そのものだ。
 
◇既存新聞社の問題
 日本の新聞社は、ウォルフレンが指摘しているように、社会秩序を維持することが目的だと思っているフシがある。「官僚だけでなく新聞編集者にとっても、社会秩序の維持は何より重要な目的なのだ。問題を深く追求しすぎたり、日本でなされているやりかたに根底から疑問を投げかけるような報道をしたりすれば、間違いなく社会の混乱を招く、と新聞編集者たちは考えている。たいていの場合、彼らは意識してそう考えてはいないだろう。意識してそう考えたことはないかもしれない。だが、編集者がそろって社会の混乱を懸念しているため に、無意識のうちに論調が左右されている」(カレルヴァンウォルフレン「怒れ!日本の中流階級」)

 一方で、田勢某が書いているように、いったん落ち目になった人や権力に対しては徹底的にコテンパンに打ちのめすから始末が悪い。最近では光通信や森首相、かつては田中角栄が良い例だ。つまり、弱いものイジメばかりして、権力者には逆らわない性格を持っている。人間としても最低だ。

◇読者側の問題
 さらに、そうしたマスコミに対し、読者側も、疑問なく受け入れてしまう。一体、どれだけの人が、このAERAの記事の裏に思いを馳せただろうか。原因の1つは、メディア教育が全く為されていないことにある。

 「たとえばメディア・リテラシーが発展しているカナダでは、高校生が『ナイキのバスケットシューズの原価は、5ドル60セント(1993年調査)でしかないのに、その10倍以上で売られている』のはなぜかと考え、それは『有名スポーツ選手を莫大な契約金で広告に起用しているからだ』と判断するような、さらに関連して『スニーカー工場で働く途上国の女性労働者には、1日1ドルも支払われていないことを指摘』するような、メディアに関するそんな教育が行われているそうだ。」(岩波新書「メディア・リテラシー」)

 日本では、メディアリテラシーに関する教育は一切、行われていない。これだけ情報化社会だと言われながらも、基本的なメディアの構造や取材のプロセス、取材先との力関係などを理解している人がどれだけいるか。私は取材する側に立った経験があるからわかるが、一般人はほとんど無知であり、知らず知らずのうちにマスコミの影響を受け、権力サイドに有利な情報ばかりが流れ、洗脳されているのである。

◇まともな新聞がないという問題
 ジャーナリスティックな視点から報じる新聞が、逆の立場から報じたものがあるなら、AERAやユニクロの化けの皮もはがれよう。例えば私なら、中国人の「鎌田慧」を雇って、潜入ルポをやって貰う。労働者の立場からはユニクロの契約工場がどう映るのか。中国は人権が問題にされる国である。少なくとも、鎌田氏が「自動車絶望工場」のルポを描いた時代よりも生々しい現実があることだろう。コンベア労働のシジフォス的単調さは、容易に想像できる。もちろん、ユニクロの広報部が案内するままに書いた記事とは正反対のものになるはずである。そういう企画を実行できる新聞がないことが日本の不幸だ。

 私は衣類の多くをユニクロで買っている。ユニクロの大ファンだ。消費者として、製造過程の情報が出て来たこと自体は評価したい。しかし、いくらなんでも、都合の悪い事実を全て省いたとしか思えないAERAの記事では、この会社を信用するには余りに不十分である。ある程度眼の肥えた読者にとっては、「ルポにとって都合の悪いことは無視して、都合のいいことばかり集めるると、そのルポはウソになり、説得力を失うでしょう。米兵の『良いこと』は巨大な悪の中の小善に過ぎないこと、その小善のバカらしさによって、むしろ巨大な悪を強く認識させることができます」(本多勝一「事実とは何か」)ということなのである。とはいえ、企業が積極的に自社に都合の悪い情報を開示する訳がない。これはジャーナリズムの使命だ。

 上記三点の問題を解決すること、すなわち、読者の情報を読み解く力を高め、「権力サイド起点の情報量」と「市民/消費者/生活者起点の情報量」のギャップを埋めていく、ということは、日本の民主主義の成熟にとり必須事項である。誰かが、やらねばならない。「AERA」4/30-5/7