ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしました。
「ショットガン・ウェディング Shot-gun Wedding」と言う英語をご存知でしょうか。直訳すると「銃の結婚」。どういうことかわかりますか。これは花嫁の父親が怒りのあまり、花婿に銃を向ける結婚と言うことで、いわゆる「できちゃった結婚」です。今はそれほど珍しいことでもないようですが、フランス革命当時、このような結婚はどのくらいあったのかという資料があります。
結婚前受胎率 初出生児100人のうち、結婚後8ヶ月以内に生まれた者の割合 % | |||
1750年以前 | 1740〜1790年 | 1780〜1820年 | |
フランス | 6.2 | 10.1 | 13.7 |
イングランド | 19.7 | 37.3 | 34.5 |
ドイツ | 13.4 | 18.5 | 23.8 |
とは言え、革命当時の13.7%と言う数字は現代の日本よりも高いのではないでしょうか(単に私の周囲にそう言う結婚をした人がほとんどいないから、思ってしまうだけですが…)。
ただ、気に留めなければいけないのは、1750年以前から1780〜1820年の間にその数は2倍以上になっていると言うことです。フランスはカトリック国なのですが、それでもこのような道徳観念は確実に緩んできました。厳しいマリア・テレジアの国ドイツがそれよりも進んでいるのは皮肉なことです。
また、この1740〜1790年の中には、両親の結婚から4ヶ月目にして生まれたロベスピエールもいることもお忘れなく。
非嫡出子出生率 出生児100人のうち、非嫡出子の割合 % | |||
1750年以前 | 1740〜1790年 | 1780〜1820年 | |
フランス | 2.9 | 4.1 | 4.7 |
イングランド | 2.6 | 4.3 | 5.9 |
ドイツ | 2.5 | 3.9 | 11.9 |
スカンジナビア | 3.8 | 2.5 | 6.8 |
スペイン | 5.4 | 5.1 | 6.5 |
さて、ロベスピエールの心の師ルソーもパリの下宿先の女性に5人もの子供を生ませ、その子供を次々に捨て子養育院に送り込んでいますが、それは1750年前後になります。2.9%と4.1%と言う数字が示すように、あまり頻繁にあったことではないのでしょう。立派な教育論「エーミール」の著者の意外な一面とも言えます。
これらの表から道徳堅固なキリスト教から離れていく庶民の姿が見え隠れします。その理由として、医学の発展により死亡率が減少し、神に救いを求めなくてもよくなったから、とも言われています。神に祈らなくても医学のおかげで死亡率は減り、キリスト教の戒めから少しずつ離れていったわけです。
「マラーの暗殺」と言えば、咄嗟にダヴィッドに描かれた崇高なマラーの姿を思い出す方も多いかと思います。非常に簡素な構成でいながら、ものすごいインパクトがあります。まるでピエタを見ているかのような悲壮感、感動に溢れ、このように描かれたマラーは間違いなく気高い英雄に違いない、と思わせます。
しかしながら、よくよく考えると、マラーの暗殺風景というのは決して美しいものではなかったはずです。まず、マラーはひどい皮膚病に苦しんでいて、それだからこそ一日の大半をお風呂で過ごしました。ダヴィッドの絵のように大理石色の逞しい肉体の持ち主ではなかったことでしょう。しかも、どちらかというと不細工な顔をしていました。実際、そのようにあまり美しくなく描かれた絵画もあります。
また、この絵のような静寂の時はありませんでした。この絵はシャルロットに殺害され、暗殺者がその場を去った後も現場に残され、張り詰めた沈黙の中で一人静かに死んでいきますが、実際は刺されたマラーは断末魔の声を上げ、すぐに内縁の妻や他の人達が駆けつけたわけですから、雑然とした中で息を引き取ったはずです。いかにも孤高の人という感じの死に方はダヴィッドの創作に他なりません。
ダヴィッドはマラーに傾倒していました。後にナポレオンのお抱え画家になり、時代を潮流に乗るのがうまいダヴィッドですが、とりあえず、この時期はジャコバン・クラブに所属し、マラーの弁護を熱心にするような人でした。死の前日も彼はマラーに会っています。その時もマラーは浴槽で仕事をし、机代わりにしていた荷造り用の箱の上に書物の道具が並んでいるのも目にしていました。
ダヴィッドは自分が現実に知っているマラーを元に、現実の醜悪さはまるで無視して理想化したマラーを描きました。荷造り用の箱の下には「マラーへ、ダヴィッド」という簡潔なメッセージがあり、画家がいかにこの絵に心をこめて描いたのか伺えます。
ダヴィッドが自分の求める絵を描くために、何をしたのかについては項を改めてお話します。
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シエイエスとミラボーは三部会開催において、ともに特権階級でありながら第三身分の代表として選ばれた、という共通点を持っています。しかし、結果は同じなのですが、この二人が第三身分の代表となった理由は、言ってみれば天と地ほどの差があります。
シエイエス |
郵便局長の子供として生まれたシエイエスは、頭脳明晰で中学を出るとすぐパリの神学校に入りました。しかし、いくら頭脳明晰とは言え、第三身分出身の彼は、どんなに努力してもどんなに優れた能力を持っていても、能力に応じた役職など得ることができません。それなのに、貴族出身であれば、どんなにおばかさんでもどんどん出世してしまいます。しかも、聖職者にはあるまじき贅沢三昧で人生を享楽しているのです。この社会悪に対する怒りが彼の出発点でした。
シエイエスは「第三身分とはなにか」というパンフレットで、「第三身分は全てだ」と断言しながらも、「第三身分はゼロである」と述べています。彼は第三身分こそが「真の国民」であるとし、特権身分は第三身分に寄生する「偽の国民」と断罪しました。したがって、国民の意志を代弁するのは第三身分の代表以外にはありえない、という強い信念から、自ら進んで第三身分の代表となったのです。
第三身分の代表になることは、彼の信念や思想そのものだったのです。
ミラボー |
ところが一方、「不良貴族中年」ミラボーは、ラファイエット、ノアイユ子爵などと同じように自由主義思想を持ち、第三身分には好意的でしたが、好んで第三身分から出馬したわけではありません。
四ヶ国語を操り、音楽やダンスなどの才能もあるものの、女性関係や金銭関係にだらしなく(この辺はダントンを髣髴させます)、その凄まじい素行のため投獄され、貴族たちは彼を嫌っており、貴族身分からは到底、代表に選ばれることはありませんでした。
彼は余儀なく第三身分から出馬します。尤も、彼の指導力や雄弁は民衆から絶大な支持を得ていましたから、二つの選挙区で当選を果たしました
第三身分からの出馬の理由に大きな違いがあるにせよ、シエイエスとミラボーが初期の革命に果たした役割はとても大きいものでした。
書斎のカロンヌ |
旧体制下、「名士会」を開催したカロンヌは、どちらかというと節約よりも、特権身分をあてにした増税に力を注ぎ、それが「貴族の反乱」のきっかけを作りました。
財務総監というのは、総理大臣と大蔵大臣を兼ねたような重職です。旧体制末期の財務総監は、貴族の姑息な妨害に遭って自己の能力を発揮しきれず、みんな心身ともにぼろぼろになっていきましたが、彼もそのひとりでした。
おまけに、彼には在任中から困った評判がありました。財務総監でありながら、かなりの浪費家で贅沢好きだったのです。
画像(画像をクリックするともっと大きな肖像画が見られます)を見ていただければよくおわかりだと思います。パリ一番の高級な仕立て屋であつらえたタフタのコートとカフスをおしゃれに着こなしています。身の回り品も贅沢を極め、愛用の竹の杖には金の蔵の頭飾りがありました。その贅沢好みは自分だけにとどまりません。たくさんいる従僕にはお揃いの制服を着せ、冬になると自分のためにではなく、御者のために暖かい毛皮の座席を作りました。
また、美術品にも造詣が深かったようで、ジョルジョーネ、ティツィアーノ、プーシェ、フラゴナール、テニールスなど超一流の画家の絵画を所蔵していました。明るくて屈託のない絵を好むと言うのはいかにもカロンヌです。
それだけではありません。かなりのグルメだった彼は、瀟洒な私邸に、ソース職人、菓子職人、そのほかの食卓の専門職人からなる大勢の料理専門の職人を多数を雇い入れていました。もちろん、ワインもお好きだったようで、所蔵数は一千本にも及びました。これだけのワインはもちろん一人では飲みきれません。カロンヌの館では華やかなパーティがしょっちゅう開かれていました。
カロンヌは楽天家だったらしく、自分の浪費を世間から隠そうとしませんでした。しかし、マリー・アントワネットを中心とした宮廷の浪費に怒っていた民衆は、カロンヌの贅沢にも怒りました。彼は、「今まで税金を納めていなかった人たちに税金をはらってもらう」という、民衆にとっては誠にありがたい政策を打ち出していたのにも関わらず、嫌われました。
後にカロンヌは失脚、追放されます。そして、追放されていく馬車を民衆が取り囲み、暴力を振るわれそうになったのです。その後、イギリスに亡命することになりますが、フランスにとどまっていたら身の安全はかなり怪しかったことでしょう。
「さあ、祖国の子等よ。栄光の日は訪れた。」で始まる「ラ・マルセイエーズ」は革命の象徴ともいえます。「ヴァルミーの勝利」を見ていたゲーテが「この日、この場所から、世界史の新しい時代が始まる」と感動したのはあまりにも有名な逸話ですね。歌詞もご覧になっていただければおわかりのように、かなり勇ましいものです。ですから、これを作曲したルジェ・ド・リールは、すごい共和主義者なんだろう、と普通は思ってしまいます。
ところが、そうではなかったようです。彼は実は庶民ではなく貴族階級に所属していました。と言っても、中級ブルジョワだった彼の父親がお金で身分を買ったのですが、大金を出してまでも貴族になりたかったわけですから、階級と言うものにそれなりの思い入れはあったのでしょう。
ちなみに彼の名前をちゃんと言うと、「クロード=ジョゼフ・ルジェ・ド・リール」であり、「ルジェ・ド・リール」が姓となります。庶民だった頃の姓であった「ルジェ」に、貴族の称号を買ったときにもらった名前「ド・リール(「ド」が貴族をあらわす場合が多いのはご存知ですよね)」を付けました。
そのような経緯があり、ルイ16世に忠誠を誓った彼は、実は共和主義者ではなく、立憲王政主義者でした。人民に自由と平等を与え、国王の専制を許さず議会や憲法を作ることには賛成しても、8月10日の王制崩壊は耐えられなかったのです。一応、軍隊に籍を置いていましたが、優秀な軍人でも愛国心に満ちた軍人でもなかったようです。
ある時、カルノーがルジェ・ド・リールのいるライン軍に派遣議員としてやってきました。彼は「『ラ・マルセイエーズ』は10万の防衛者を祖国にもたらした」と言うくらい、この歌のすばらしさを認めていた人です。
ライン軍の部隊はカルノーら派遣議員に、熱意と敬意と忠誠を示しましたが、たった一人、どうしても命令に応じない者がいました。ルジェ・ド・リールです。カルノーはもちろんのこと驚き、
「『ラ・マルセイエーズ』の作者を、愛国心の欠如のかどで免職させるつもりですか」
と、「ラ・マルセイエーズ」を周りで歌わせながら説得しましたが、ルジェはそれでも言うことを聞きません。そして、とうとう一時停職処分となってしまったのです。
暗に「『ラ・マルセイエーズ』の作者にふさわしくない人間」と言われたようなものですが、この時期、自分の意志をここまで貫くのは並大抵のことではありませんでした。さっさとカルノー達の希望に添うようなことをすれば安泰なのに、自分の信念を通したルジェは、この世界一有名な国歌の作者にふさわしいのでしょう。