第十四番 長等山 園城寺(三井寺)

いで入るや波間の月を三井寺の
鐘のひびきにあくる湖

仁王門
金堂
三井の晩鐘
閼伽井屋
左甚五郎作の龍
弁慶のひきづり鐘
一切経堂の内部
微妙寺
観音堂の参道
終わりかけの紅葉もなかなか美しい
観音堂
観音堂の諸堂
 重要文化財に指定されている仁王門のわきで高い拝観料を払い、一歩、足を踏み込んだときに「でかい・・・。」と思わずつぶやいてしまったほどの大寺。実際、古くから日本四箇大寺に数えられているという。
 仁王門から正面の石段を登るとそこは三井寺の総本堂である金堂。その横には三井の晩鐘と呼ばれる鐘楼が建ち、金堂の裏手には寺名の由来となった閼伽井屋がある。この金堂、仁王門から登ってくると何故か横を向いている。これは、ここ三井寺を総本山とする寺門派と比叡山を本山とする山門派との争乱に懲りての配慮であるとの説があるとか。現在ある金堂は、豊臣秀吉の遺志を受けて正室の北政所が再建した物で国宝に指定されている。仁王門から見て金堂の左にあるのが鐘楼。三井の晩鐘として近江八景の一つに数えられている。また、宇治の平等院、高尾の神護寺とともに日本三名鐘とされ、日本の残したい音風景百選ににも選ばれている。次に仁王門から見て裏手にある閼伽井屋へといった。正面の格子から中を覗くと左隅のあたりでゴボッゴボッと水が湧き出ている。この水は天智、天武、持統の三天皇の産湯に使ったとされ、その故事から三井(御井)の寺と呼ばれるようになった。紀三井寺のように井戸が三つあるのかと思っていたら、違いました。ただし、この三井寺という名称は通称で、正しくは園城寺という。園城寺という寺名の由来は、弘文天皇の子・大友与多王が荘園城邑を献じて創建したのでその二文字をとって名付けられたという。閼伽井屋の上を見上げると、左甚五郎作といわれる龍の彫刻がある。むかし、この龍は夜な夜な琵琶湖に出て暴れるので甚五郎が龍の目玉に五寸釘を打ち込み鎮めたという伝説が残っています。この龍は下から見上げるよりも、金堂の縁側から見ると近くから見ることが出来る。
 金堂の後ろの坂を登ったところにあるのが霊鐘堂。この中には「弁慶のひきづり鐘」と「弁慶の汁鍋」が納められている。このひきづりの鐘は奈良時代の作といわれて重要文化財に指定されており、次のような伝説が残っている。その昔、兵藤太秀郷が三上山の百足退治のお礼にと持ち帰った金を三井寺に寄進したと言われています。また、その後の山門派との争いで弁慶がこの金を奪って比叡山に引きずりあげて、撞いてみると「いのう、いのう(帰ろう、帰ろうの意)」と響いたので、それに怒った弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と鐘を谷底に投げ捨ててしまったという。
 霊鐘堂のすぐ南には重要文化財に指定されている一切経蔵が建つ。この建物はもともとは山口県国清寺にあった物を毛利輝元によって移築・寄進された物である。ここは中に入ることができ、中には八角輪蔵に千鳥破風という様式である。一切経蔵の奥は唐院となる。この唐院は、大師堂、潅頂堂、三重塔などがありこちらも重要文化財。これらの建物には少し離れたところに柵があり、近付くこともできない。大師堂は潅頂堂の裏手になり、建物自体も見えないのが残念。
 唐堂から石段を下り、観音堂の方へと進むと微妙寺というお寺がある。ご本尊は重要文化財の十一面観音。三井寺の五別所の一つで湖国十一面観音霊場の一番札所となっている。私が訪れたときはちょうど、ご本尊がご開帳となっていたのでラッキー。お堂の中でそのお顔を拝ませて頂く。重文の毘沙門堂の前を過ぎると、目的地の観音堂の参道となる。もともとは、もっと山の上にあった物がここへ移ってきている。現在の建物は元禄二年に建てられた物というから、三百十数年前の建物。ご本尊は三十三年に一度しかご開帳されない秘仏で平安時代の作という。この観音堂の諸堂だけでもその辺りのお寺よりも立派。さすが名だたる大寺の観音堂という感じ。
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