昔より立つとも知らぬ今熊野
ほとけの誓いあらたなりけり
泉湧寺総門 | |
鳥居橋 | |
子護大師 | |
本堂と医聖堂 | |
大師堂 |
20番札所・善峰寺の参拝を済ませ次に向かったのが今熊野観音寺こと新那智山 観音寺。善峰寺からは適当に東へと走り、向日市内を抜けて国道171号線・西国街道へ。171号線は東寺の前で北へと曲がるがそのまま十条通りを東に進み、道なりに北へと曲がり東大路通りに入ってすぐの泉涌寺道交差点で右巻きして泉涌寺道へと入っていく。坂を登っていくと道を跨いで泉涌寺の総門が目に入ってくる。現在、この奥の中学校の工事中ということで、工事車両が門を傷つけないように門には無粋なコンパネが巻かれていてがっかり・・・。総門を抜けてしばらく行くと左に曲がり今熊野観音寺へ。鳥居橋という朱色の欄干の橋を渡ると駐車場になっている。この橋の下を流れるのは熊野川。そしてこの奥には古くから熊野権現が祀られていたので鳥居橋という名前になったという。
駐車場に単車を停めて、境内に足を踏み入れると最初に目にするのが子護(こまもり)大師。弘法大師はこの寺の開祖とのこと。また、この子護大師像の周りは四国八十八カ所の砂となっているようで、「南無大師遍上金剛」と唱えながら周りを歩くと御利益があるそうな。さて、子護大師像から石段を少し登ると本堂に到着。本堂右手には大師堂。そして大師堂裏の山の中腹には多宝塔が建つ。この多宝塔は日本で唯一の医聖堂である。では、医聖堂とは何なのか?。これは、医と宗教が手を携えて、心身共に健康に暮らせるような社会が築かれるようにとの願いを込めて昭和59年に完成したもので、医界に貢献した方々が祀られているものである。現在では主だった建物というとこの程度だが、この寺もかつては大寺院だったという。
この寺の創建については次のような伝説が残っている。平安の昔、弘法大師空海は唐から帰国した翌年に東寺で修法していると、東山の方に光明がさして瑞雲がたなびいているのに気がつき、不思議に思いそこへ行ってみた。すると、その山中に白髪の老人が現れ「この山には一寸八分の観世音があり、これは天照大神の作で衆生済度のために、この地に出現した物である。ここに一宇を構えて祀り衆生を救済するように」と告げられた。立ち去ろうとする老人に何者かと尋ねたところ熊野の権現であると告げて姿を消されたという。大師は熊野権現のお告げのままに堂宇を建立し、授かった観世音を体内仏として大師自ら十一面観世音菩薩を刻んだのがこの寺の始まりという。また、このときに観世音を祀る場所を選ぶために錫杖で岩根をうがつと霊水が湧き出たともいわれています。これが現在も涌いている「五智水」のいわれとなっています。実際には、平安時代(西暦825年頃)に嵯峨天皇の勅願によって弘法大師が開創し、平安時代末期(1160)には後白河上皇が熊野権現を勧請され、新那智山と号し、今熊野観音寺と称されたようです。
この観音寺のある一体を鳥戸野(とりべの)といい、高貴な人々が埋葬されている。その中の鳥戸野稜には、一条天皇の皇后・定子が埋葬されている。この定子皇后という人は、枕草子の作者として知られる清少納言が仕えて寵遇を受けていたことで知られている人です。清少納言自身もこの観音寺付近で生まれ育ったこともあり、定子皇后の死後はこの観音寺の近くに住まい御陵に詣でつつ晩年を過ごしたといわれています。