第二十番 西山 善峰寺

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野をも過ぎ山路に向かう雨の空
善峰よりも晴るる夕立

山門
駐車場から山門を見る
本堂(観音堂)
護摩堂
多宝塔
重要文化財
経堂(絵馬堂)
遊龍の松
国指定天然記念物
釈迦堂
桂昌院像
(けいしょう殿)
奥の院・薬師堂
薬師如来
薬師堂からの眺め
青蓮院の宮御廟
あみだ堂
宝冠阿弥陀如来
本坊前より阿弥陀堂

 今日は、天気予報では日中は暖かくなるという予報。TTは車検も無事終了してタイヤ、ブレーキパッドなどの消耗部品も交換してたのでその慣らしをかねて京都のお寺を一気にまわろうと思い7時半頃自宅を出発する。ルートは県道で稲美町を抜けて国道175号へ。そこから北上して社から372号で亀岡、9号で京都の予定。三木市内の175号を走っていると道路脇の温度表示は零度・・・寒い。一応、冬用に着込んではきているものの、やっぱり寒い。ウインターグローブをはめていても、指先が痛くなってきて我慢できなくなり自宅から約30kmほどの社で早くも1回目の休憩。缶コーヒーと使い捨てカイロを購入して指先を暖める。この休憩の間に少しでも気温が上がらないだろうかと期待しつつ半時間ほど休憩。ここからは372号で山間部を走ることになる。少しは気温も上がってきているのだろうが、道路脇の木にはばまれてほとんどが日陰という感じで体感気温は一向に上昇せず、また指先が痛くてたまらなくなったので、篠山を抜けた国道173との交差点にあるコンビニで早くも2回目の休憩。ここの駐車場の水たまりはしっかりと氷がはっている。今日は寒さに負けて30kmに一回のペースで休憩している・・・。このペースで行けば次は亀岡で休憩か?などと考えながら再出発。亀岡に着く頃には幾分気温も上昇してきて、指先も我慢ならないほどは痛くないのでそのまま京都市内へ。10時をまわろうかというのに京都市内へと入る峠の温度表示は6℃。まだまだ寒い。峠を下ったところで9号線と分かれて府道10号で向日市へ。そこから府道208号、別名・善峰道で善峰寺へと標高を上げていく。この道は市街地付近では竹林の間を走る。この辺りは竹で有名なところらしい。そういえばエジソンの電球のフィラメントもこの辺りの竹で作ったんじゃなかったっけ?ネットでちょっと調べてみたらここではなくて、石清水八幡宮の境内の竹でした。ここの竹林はかぐや姫の舞台となった場所だという説も。
 さて、ツーレポはここまでにしてお寺のことを書いていきます。地図を見るとこのお寺は関西の迷峰・ポンポン山の中腹、標高約300mに位置している。ポンポン山は、このユニークな名前で関西ではわりと有名な山である。山頂で強く足踏みするとポンポンという音がすることに由来している。正しくは別の名前(加茂瀬山?)があるのかもしれないがツーリングマップルにもポンポン山となっている。単車は無料という駐車場にバイクを停めて、少し石段を登り山門へ。そこで拝観料400円を納めて境内へ。山門を抜けると石段の上に本堂・観音堂が見える。まずは観音さんにお参りを済ませ、御朱印を戴いてから山内の散策へと向かうこととする。ここのご本尊は千手十一面観音。そしてご本尊の横には脇立としてもう一体の千手十一面観音が立つ。脇立の観音は開祖・源算上人の手による物で開山当時のご本尊である。現在の本尊は、その13年後、後朱雀天皇により洛東鷲尾寺より遷された物である。
本堂に向かって左側には鉄筋コンクリート製の建物があるが、近代的な建物には興味が無いので、入山のときに貰ったパンフレットのコースに従い右側の石段を登る。後で分かったことだがこの鉄筋コンクリート製の建物は文珠堂という宝物館だという。私が訪れた12月は公開時期と違うため中は見ることができませんでした。春と秋に公開しているようでそのときは拝観料が100円アップするとの情報も。
 次に訪れたはつり鐘堂と護摩堂。護摩堂の中には不動明王が安置されている。護摩堂の前の石段を登ると多宝塔と絵馬堂がありその前には自称日本一の松という樹齢約600年の五葉松「遊龍の松」がある。この松は国の天然記念物に指定されているとのこと。でも、どうみても天然じゃないよね。この松は地上1mほどの高さを横に這うように立っていて(当然、何カ所も支えられているが)、かつては54mの長さがあったのだが平成六年に松食い虫の被害のために15mも切ってしまったらしい。それでも40mほどの長さがあり綺麗に刈り込まれたその姿は見応え十分である。この遊龍の松に囲まれるように建つのが重要文化財に指定されている多宝塔と経堂(絵馬堂)。
 ここから、源算上人117歳の像を安置する開山堂、鎌倉時代作の宝筐印塔、桂昌院の遺髪を納める桂昌院廟、十三仏堂などを見ながら山を登り釈迦堂へ至る。この釈迦堂は明治十八年建立と新しい。ここに安置されている釈迦像はもともとは釈迦岳の山頂にあった物でそれをここに遷した。その事については次のような話が残っている。その当時の住職が寝ているとその夢枕にお釈迦様が立ち、釈迦だけの頂上から降ろすように頼まれたという。その際、その像が汗をびっしょりかいていたので、その汗を拭い、その拭った布で風呂にはいったところ神経痛や腰痛に効いたという。そういう理由で、この釈迦堂の隣には薬湯場が建っている。この風呂は夏期(5〜10月)の第2日曜に入浴することができ、神経痛、腰痛に効くという。
 釈迦堂から奥の院へと向かいさらに山を登ると、奥の院の少し下に八角形の東屋が見えてくる。これは花山法皇西国中興一千年を記念して昭和62年に建立された「けいしょう殿」という物で下には桂昌院の銅像が置かれている。桂昌院という人は五代将軍・徳川綱吉の生母である。桂昌院は、京都堀川の八百屋仁右衛門の次女・お玉として生まれ、父の死後、母親とともに約二年半、善峰寺にご奉仕していた。その後、母とともに、父親と交流のあった二条関白の家司である本荘太郎兵衛宗政のもとへ奉公に出ました。やがてお玉の母は宗政の後妻に入りました。二条家と徳川家光の愛妾お万の方とは繋がりがあったことから成長したお玉はお万の方の次女となるべく江戸へと下りました。そして、18歳のときに家光の寵愛を受けて側室に加えられ、20歳で徳松、後の徳川綱吉を出産。26歳で家光が亡くなった為、落飾して桂昌院と名乗るようになりました。一介の町娘から将軍の母になるまで見事なサクセスストーリーですね。最盛期には52もの僧坊があったこの善峰山の伽藍のほとんどは応仁の乱の戦火で焼き払われてしまった。その善峰寺の復興をしたのはこの桂昌院です。善峰寺の他にも多くの寺院の復興や建立なども行っています。そのために当時の財政を圧迫したという批判もあるようですが・・・。
 けいしょう殿から石段を少し登ると奥の院・薬師堂に至る。ここまで登ると京都の町並みが一望できるはずだったのだが、私が訪れたときには残念なことに霞がかかったような感じで眺望はいまいちすっきりしない。ここのご本尊・薬師如来は桂昌院の両親が祈念していたというもので、薬師堂は元禄14年の建立。薬師堂の裏手は蓮華寿院庭となっており、ここは昔、青蓮院の宮が代々住職として暮らしていたところらしい。この庭の池の底には散ったモミジの葉が積もっていてなかなかいい趣を醸し出していました。そこからさらに奥に進むと、その歴代の青蓮院の宮の御廟がある。さすが宮の御廟だけあってここだけは宮内庁の管轄らしい。この御廟が善峰寺の一番奥となりここからは登りとは違うルートで山門まで戻る。
 御廟から少し下り、ちょうど蓮華寿院庭の下手まで来ると青蓮の滝という場所に出た。この滝は清水寺の音羽の滝のように竿石が池に突き出るような格好で出ていて、そこから水が落ちるようになっている。でも、水が出てないし・・・。滝とちゃうやん。ちなみにこの竿石は京都の青蓮院門跡から遷された物とのこと。
 さらに下って、次に訪れたのは阿弥陀堂。中央に阿弥陀如来が座し、周囲の壁には位牌が並んでいる。ちょっと奇妙な感じがする光景でした。阿弥陀堂から下る道は片側が白壁になっていて、ちょっといい雰囲気。この白壁の向こうは本坊で一般公開はされていない。
 本坊の下が最初にまわった本堂・観音堂となり、これで一通り見たことになる。パンフレットによると、このコースは約800mになるということ。私の場合で小一時間というところかな。善峰寺に来るまで、寒さに負けて休憩を多く取っていたので早くも昼前になってしまっている。この後は、ちょっと急いだ方がいいかなということで足早に立ち去り、順番はむちゃくちゃだが、東山の15番札所・今熊の観音寺へと向かった。

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