第二十四番 紫雲山 中山寺

野をもすぎ里をもゆきて中山の
寺へ参るは後の世のため

山門脇に単車を停めました
山門
記念撮影をする人々で賑わう
参道脇にはなんとエスカレータが!
本堂

 番外札所・花山院での参拝を済ませ、次に向かったのが私の出身地・宝塚にある中山寺。花山院からは千刈水源地のわきを通り西谷地区を抜け宝塚へと下り、旧国道176号線で中山寺へと進んだ。この辺りは就職するまでは単車で走り回っていただけあって地図など不要で無事到着。車の場合には阪急電鉄の線路付近に民間の駐車場が多数あるのでそこに車を停めることになるが、今回は山門のやや東側に単車を停めて参拝することにした。地元では非常に有名なお寺だけあって、山門前は多くの参拝者でごったがえしている。少し離れたところに停めて歩いていった方が利口かもしれませんね。
 さて、この中山寺は安産の寺として有名な寺である。そのお礼参りのためだろうか、小さな赤ちゃんを連れてお参りに来ている人が目に付く。山門前では子供を抱いて記念撮影をする人が絶えず人で溢れている。安産の寺と言われるようになったのは、豊臣秀吉がここで祈願して秀頼を授かったことに始まるという。また、幕末には中山一位局がここで安産祈願をして明治天皇を平産されたことでも安産の寺として名をあげている。
 山門を抜け、参道を進むと正面に石段が目に入る。段数はしれているので普通の人なら苦にもならない程度だが、なんと石段横にはエスカレーターが併設されている。これは安産の寺として安産祈願に来た妊婦さんへの配慮であろうか?それとも単に儲かっているだけの話だろうか?。そんな邪念は置いといて、石段を登り本堂へ。現存する本堂、護摩堂、太子堂などは秀吉の死後、秀頼によって慶長10年(1605年)に再建された物。山門は徳川家光の再建という。ご本尊の十一面観世音菩薩は、インドの勝鬘夫人(しょうまんぶにん)の姿を写した物だと言われている。また、脇侍も十一面観音で三体合わせると観音様は三十三体となり三十三カ所に繋がるという。この中山寺は西国三十三カ所の開祖・徳道上人が宝印などを納め、それを花山法皇が掘りだしたという伝説がある。その宝印を納めたのが境内にある中山寺古墳の石棺の中だと言われている。さて、この中山寺は非常に長い歴史を持つ寺である。その創建にはいくつかの説があるが、一般的には聖徳太子が排仏論の物部守屋を蘇我馬子の協力で倒したので、その霊を慰めるために建てられたといわれている。また、開創は四天王寺より四年早いとか、聖徳太子が十六歳のときだという説もある。これらの説だと推古天皇かその前の崇峻天皇の時代である。もっと古い物では、さらに500年さかのぼった仲哀天皇の后・大仲津姫と2人の皇子の供養のためだという説もある。先に書いた古墳はこの大仲津姫の墓だという説もあったが、この古墳は6世紀後半の物であることが分かったので時代が合わなかった。
周りの堂宇を見たり、信徒会館前の展望台から宝塚から伊丹にかけての風景を見渡したりしてから、本堂より一段低い場所にある納経所で朱印を戴き参拝終了。時間があれば奥の院、さらに時間があれば清荒神まで歩いて電車で中山寺まで戻ってくるということをしてもよかったのだが、今回はNSR50の慣らし運転が1番の目的なので奥の院までは足をのばさなかった。
 中山寺からは箕面の勝尾寺へと行きたいところだったのだが、勝尾寺周辺の道路はバイクは通行禁止になっているため、亀岡の穴太寺へと向かうことにした。

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