ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしたものを若干加工しました。
1793年、戦争と反革命に対処するため設けられた防衛委員会が発展したもので、7月に山岳派議員が委員の大半を占めてから、革命政府の全行政権力を握り、恐怖政治の中心となった。
ロベスピエール 失脚後は反動派の手に移り、1795年10月、国民解散と共に廃止された。
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高等法院 |
英語の議会(parliament)とほとんど同じ綴りだが、議会としての性質はない。
革命当時、高等法院はパリと地方とで合わせて13設置されていた。最高裁判所で、50人から130人の法服貴族(「法服」を着た司法官貴族)で構成されている。
個々の高等法院は相互に独立し、控訴は原則として認められないというその地方の最高裁判所であった。理由は王権がその地方それぞれの慣習法、裁判慣行を容認したためであり、地方の高等法院は、その地方の特権を守る者が任じられた。
職務はさまざまで、上訴審と第一審(大逆罪、文書偽造、暴動、窃盗、通貨偽造などなど)との両方を扱った。また、特権階級にかかわるほとんどの刑事、民事裁判も扱い、劇場や文学作品の検閲、市場の取締りなどまで行っていた。要するに、高等法院とは立法的行政的機能をも併せ持っていた。
革命前には、そのような職務よりも、貴族身分の特権(免税)を擁護することを主に行っていた。
歴史的に見ると、13世紀まで遡る。ルイ15世の時、高等法院は国王政府と激しく論争し、結局、追放されてしまったが、ルイ16世治下の1775年、復活した。
穀物生産を発展させるために、1774年に財務総監に抜擢されたテュルゴは流通上の障害を撤廃し、生産者が自由に売るシステムを作ろうとした。この政策は長い目で見れば効果のあるものだったが、商人たちの買占めや売り惜しみを招き、住民の不安をかきたててしまった。それに加え、1770年、72年、74年と不作が続き、パンが大幅に値上がりし、国民の生活はますます苦しくなる。
1775年5月3日、パリのパン屋が襲われ、市場のパンが強奪された。騒乱は三日後に再発し、200袋の穀物が群集によって奪われ、パン屋の家などが攻撃された。
ヴェルサイユでは8000人のデモ隊が宮殿に押しかけ、小麦の値段を下げてもらいたい、と要求。ヴェルサイユ総督は、デモ隊の要求する値段にすることを約束し、民衆はその答えだけで満足して引き上げ、これ以上の騒ぎにはならなかった。
自分の政策を信じるテュルゴは、この騒動の鎮圧に努めた。そのため、民衆は「哲学者」の大臣であるテュルゴに反感を持ち、テュルゴの失脚を願う者たちの格好の材料となった。1年後、彼は失脚する。
14年後にもう一度民衆は、「パンを求めて」ヴェルサイユに押しかけることになる。
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コルドリエ・クラブ |
1790年6月にセーヌ左岸のコルドリエ修道院で最初に結成されたのでこの名がついたが、正式には「人間と市民の権利友の会」と言う。その設立規約は 「本会の主目的は、各種の権力の濫用とあらゆる種類の人権に対する侵害とを、世論の法廷に摘発することである」となっており、政治的な団体と言うよりも闘争団体として設立された。
ジャコバン・クラブより会費が安く、貧しい過激派の人々や女性にとっては入りやすかった。メンバーにはダントン、マラー、カミーユ・デムーラン、ショーメット、エベールなどがいた急進派で、1792年8月10日の革命やジロンド派追放の際、大きな力を示した。
しかし、それ以後、「ジャコバンを超えよ」という方針があまりにも過激になったため、主要メンバーは脱退し、クラブは主にエベール派と過激な人々が動かすようになった。そして、ジャコバン派との対立が深まる中、エベール派が処刑されると共に政治の舞台から消えた。
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