山田正紀作品感想vol.12 |
| イリュミナシオン 君よ、非情の河を下れ 帰り舟 人間競馬 悪魔のギャンブル ファイナル・オペラ |
| イリュミナシオン 君よ、非情の河を下れ 山田正紀 |
| 2009年発表 (早川書房) |
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[紹介] [感想] 「後書き」にも記されている(*1)ように、D.シモンズ『ハイペリオン』を意識して書かれた作品で、特にパスティーシュ風に仕立てられた「第一章」の冒頭にはニヤリとさせられます。とはいえ、『イリュミナシオン』という題名は『ハイペリオン』や『エンディミオン』の単なる語呂合わせではなく、詩人ランボー(→「アルチュール・ランボー - Wikipedia」)の作品からとられたもので、それ以外にもランボーの作品を元ネタにしたと思しき語句がおびただしく作中にちりばめられ、フランス語らしきルビの効果も相まって(*2)独特の印象を与えています。
“大枠の物語”――東アフリカの架空の国家サマリスを舞台に描かれる、PKO多国籍軍とゲリラ組織、「酩酊船」(のクルー)と「性愛船」(のクルー)、そして人類と「反復者」という重層的な対立の構図――の中で、“個人の物語”――「酩酊船」に乗り込むことになったクルーたちそれぞれの事情――が語られていく構成も『ハイペリオン』に通じるものといえますが、異なる時代と場所に存在していたクルーたちがそれぞれにランボーと関わりを持つに至る(*3)、強引といえば強引な物語が山田正紀らしいといえるでしょう。 例えば、ショットガンを手にしてスピンクス(スフィンクス)の謎かけに答えるパウロ、「反復者」に操られる藤原宇合を暗殺しようとしていた阿修羅(*4)、食事を拒み死に瀕しながら“物語”をつむぎ続けるエミリー・ブロンテ――それぞれの物語も奇想天外で面白いものになっていますが、その中で少しずつ説明されていく、ランボーの作品『イリュミナシオン』の特異な構成―― “バラバラのカードのようなもので、ページさえ付されていなかった。”(40頁)――になぞらえた時空構造のイメージが秀逸です。 その設定に関しては量子力学や素粒子物理学など(一応の)理論的な解説もなされているものの、内容がなかなかすんなりとは頭に入りにくい上に、 “……なのか。”・ “……かもしれない。”・ “……ではないか。”といった表現を極度に多用したくせのある文体で綴られているのは大いに好みの分かれるところだと思われますが、そのあたりはイメージ優先で読み進めるのが吉かと。いずれにしても本書は、ランボーの謎めいた生涯に(かつての「非情の河」(『終末曲面』収録)とは違った形の)独自のアプローチで迫りつつ、その詩で時空を記述するというユニークなコンセプトに基づく作品といえるのではないでしょうか。 また、これも「後書き」に記されているように、深遠でありながら荒唐無稽ともいえる理論をもとに、壮大でありながらチープさも感じさせる物語が展開される――例えば終盤の「酩酊船」と「性愛船」の戦闘場面など――という、山田正紀流のワイドスクリーン・バロック(→「ワイドスクリーン・バロック - Wikipedia」)に仕上がっているのが興味深いところ。そしてそこに、さらには(予想外の形で悲哀を感じさせはするものの)決して悲壮ではない結末にも、以前の本格的なSF作品に比べるとやや肩の力が抜けたような姿勢がうかがえるのが印象的です。
*1: その後に、
“連載の二回目にはもう、そんなことは頭からきれいに消えてしまっていました。”と続いているのは、半ば自虐めいた韜晦でしょうか。 *2: 深水黎一郎『花窗玻璃 シャガールの黙示』のように“漢字+ルビ”の表記が徹底されているわけではありませんが、手法としては多少通じるところがあるように思われます。 *3: もともとランボーと交流が深かったことが知られているヴェルレーヌ(→「ポール・ヴェルレーヌ - Wikipedia」)については、その物語が作中で語られることはなく、代わりにランボー自身の物語が挿入されています。 *4: その物語の中に、古くからの山田正紀ファンとしては懐かしく感じられる語句が登場している(145頁下段)のはうれしいところです。 2009.09.27読了 |
| 帰り舟 深川川獺界隈 山田正紀 |
| 2009年発表 (朝日文庫 じ4-1) |
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[紹介] [感想] 文庫書き下ろし時代小説のシリーズ〈深川川獺界隈〉の第一弾で、江戸は深川“川獺”なる架空の土地で様々な人間模様が繰り広げられる、山田正紀にとっては初めての
“江戸を舞台にした純粋な時代小説”(*1)となっています。 SF要素やホラー要素を排してどちらの方向に向かうのかといえば、カバーや帯に記されている通りのピカレスク――ということで、何やらきなくさい思惑を抱えて五年ぶりに故郷に戻ってきたどんどんの伊佐次を主人公に、博打や女衒といったやくざな稼業の(小)悪党に焦点が当てられているという点では、これも山田正紀の得意とするジャンルの一つである犯罪小説に近づいた作品といえるでしょう。 とはいえ本書で前面に出されているのは、山田正紀の犯罪小説で最も顕著な“ゲーム性”よりも、賭場にはまった末にとんでもないものを借金の担保{かた}にする“孝行息子”源助を筆頭に、道を踏み外した人々のダメっぷり。にもかかわらず、そこには悲惨さの代わりに奇妙なバイタリティが存在し、(基本は)呆れるほどの調子のよさで場を乗り切ろうとする伊佐次をはじめとする(小)悪党の側も含めて、それぞれにどこか憎めないところのある人々が魅力を放っています(*2)。 そして本書最大のクライマックスとなる賭場での大勝負は、トリッキーなアイデアの面白さには欠ける(*3)ものの、スリルという点では実に見ごたえがありますし、伊佐次が仕掛ける“最後の一手”はまずまず意外にして周到な“伏線”が秀逸。また、『火神を盗め』などと同様に、“ダメ人間”である源助らが勝負を通じて手にする達成感が決着後のカタルシスを際立たせているあたり、山田正紀らしさが大いに表れている感があります。 最後の1章は、シリーズの副主人公となるらしい浪人・堀江要の視点に切り替わり、木に竹を接いだような印象を受ける部分がないでもないのですが、それでも単なるキャラクター紹介にとどまることなく、伊佐次の本来の目的である“赤猫”探しに話がつながっていくのが巧妙。最後には多少ミステリ寄りのネタなども交えつつ、結末はまた絶妙の“引き”で、次巻の早い刊行が待たれるところです。
*1: 「あとがき」より。ちなみに、SF要素やホラー要素のない“純粋な時代小説”としては『早春賦』や短編「辛うござる」(『吉原蛍珠天神』収録)がありますし、江戸を舞台にした作品としては『天動説』や『天保からくり船』があります。
*2: 頻繁に受け渡しが繰り返される“とある小道具”の扱いが、登場人物たちのとぼけた味を引き出しているのも見逃せません。 *3: そもそも、勝負の内容がさいころ賭博だけにトリックを仕掛ける余地はほとんどなく、致し方ないところではあります。 2009.10.10読了 |
| 人間競馬 悪魔のギャンブル 山田正紀 | |
| 2010年発表 (角川ホラー文庫 や4-1) | ネタバレ感想 |
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[紹介] [感想] 角川ホラー文庫初登場となる山田正紀の新作は、互いに殺意を抱く登場人物たちを競走馬に見立て、それぞれが生き残りをかけて争う“人間競馬”の顛末を描いたデスゲーム風の物語であり、また“人間競馬”の“観客”としてそれぞれの“競走馬”に賭けるのが“悪魔”(ガーゴイル)ということで、密かにレースに加えられるささやかな干渉も含めてダークファンタジーの要素も取り入れられた、一種異様な作品となっています(*1)。
物語は、“ゲートイン”した登場人物たちそれぞれの視点によるパートが積み重ねられていく構成となっていますが、主役となる四人の男女はいずれも倫理観が欠如したような、人知れず悪事に手を染めている人物ばかりで、フェアプレイの爽快さを感じさせる作者お得意のゲーム小説とは一線を画した、“山田正紀流ノワール”ともいうべき味わい。とはいえ、各人がちょっとした能力と引き換えに背負わされている“ハンディキャップ”の存在が、ある種の人間味として伝わってくるのがうまいところです。 各パートの内容はさほど明確に分かれているわけではなく、むしろ関連するエピソード――殺し合いに至る経緯を異なる視点から重層的に描き出すことに重点が置かれている感があり、それぞれに悪事を企む各人の思惑が複雑に絡み合った構図だけでなく、そこに紛れ込んだ様々なすれ違いまでが浮き彫りにされていくのが巧妙。そしてエスカレートする事態に追い詰められた“競走馬”たちが、ひたすら破局へと突き進んでいく様子からは目が離せません。 その“人間競馬”をメタ視点から俯瞰するガーゴイルたちは原則として“観客”の立場を貫き、“競走馬”たる人間たちは時にその気配を感じ取るのが精一杯というあたり、デビュー作『神狩り』をはじめとする多くの作品で“超越者への抵抗”というテーマを扱ってきた山田正紀らしからぬ印象もありますが、しかしガーゴイルたちの会話の中でさらに上位の存在がほのめかされていたり、ガーゴイルにとっての“人間競馬”の意義が語られていたりするのが非常に興味深いところではあります。 実のところ、殺し合い以前の部分に多くの分量が割かれている結果、“デスゲーム小説”というには肝心の部分があっさりしすぎている(*2)きらいはありますが、しかし思わぬ形となったクライマックスの果てに用意されているトリッキーな決着は――若干のアンフェア感は否めませんが――秀逸。さらにそれを受けたガーゴイルたちの無邪気な(?)笑いによって、結末の何ともいえない黒さが際立っているのが印象的です。
*1: 登場人物たちを銃弾になぞらえて“誰が生き残る(べき)か?”をテーマとした『ロシアン・ルーレット』に、かなり近い雰囲気があるように思います。
*2: カバーや帯には “デスゲーム×ダークファンタジー”なる惹句がありますが、デスゲームの要素に期待しすぎると肩透かしの恐れがあるかもしれません。 2010.07.27読了 | |
| ファイナル・オペラ 山田正紀 | |
| 2012年発表 (ハヤカワ・ミステリワールド) | ネタバレ感想 |
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[紹介] [感想] 早くから構想されていながら難産の末にようやく刊行された(*1)、『ミステリ・オペラ』・『マヂック・オペラ』に続く待望の〈オペラ三部作〉の完結編(*2)。プロローグにあたる部分でいきなり、明らかに“おかしな”台詞(*3)があったり、語り手が
“ぼくの言うことをあまり真に受けないでほしい”(15頁)と言い出したりするなど、のっけから一筋縄ではいかない様相を呈しており、読者の興味をひきつけるものとなっています。 はたして、秘能『長柄橋』を伝える八王子の明比家――その一員である20歳の若者・明比花科を語り手とした物語は、序盤からどこかとりとめなく、“アオムラサキ”なる蝶のイメージをはじめとする数々の幻想に彩られています。その中に次々とちりばめられていく、不可解な人間消失、舞台上での殺人、輪廻転生といった謎も、少なくとも最初は今ひとつとらえどころのない形で提示されることになっており、ミステリとしては少々異色といえるかもしれません。 本書で題材とされているのは、“オペラ”ならぬ“能”。目次や章立てにも表れているように本書全体が“能”に見立てられている中で、明比家に伝わる秘能『長柄橋』――のみならずその“元ネタ”である『隅田川』(*4)も――の内容が少しずつ読者に示されていくとともに、明比家を中心に様々な形でその上演に関わる人々の姿が描かれ、さらには時おり挿入される「逆神」と題された明比花科の手記までが能仕立て(*5)といった具合に全編が“能づくし”で、能をよく知らない読者をその世界に引き込む筆力はさすがというべきでしょう。 “昭和史を探偵小説で描く”(*6)というこのシリーズらしく、『長柄橋』は作中で“探偵小説”になぞらえられていますが、それはきっちり探偵小説の体裁を取っているというわけではなく、山田正紀流の“解釈の力業”の産物というべきもので、好みの分かれるところではあるかもしれません。しかしながら、その(作中では黙忌一郎による)“探偵小説的解釈”を通じて、“あるテーマ”とともに壮大な構図が浮かび上がってくるところが実に見事。 そして、それらによっていわば“裏打ち”されて奥行きが加わった、事件の真相もまた読者を圧倒する力を備えています。また、明比家に伝わる “雨夢見えし てふ ゆきて”という言葉や、事件の際に楽屋の鏡に残されていた “1/2+1/2+1/2=1”という不可解な数式など、数々の謎から――明比家の面々による“推理合戦”も経由しながら――意外な“解釈と連鎖”の積み重ねによって真相を形作っていく、まさに“豪腕”というべき謎解きも迫力十分で見ごたえがあります。 真相が明らかにされるとともに壮絶なカタストロフを迎える物語は、(これも“能”に見立てた)「終の段」と題された終章で幕を閉じます。短いながらも、美しい“幻想”と醜悪な“現実”とが対置され、あるいは混沌となった、絶望の中に希望を提示するかのような凄まじい結末には、心を動かされずにはいられません。三部作の掉尾を飾るにふさわしい、山田正紀にしか書き得ないといっても過言でない傑作です。
*1: まず『ファイナル・オペラ 呪能殺人事件』の題名でハヤカワミステリマガジン2007年9月号から2009年1月号にかけて連載(全10回)された後、構想が練り直され、(本書巻末にもあるように)2010年8月号から2011年10月号にかけて新たに連載(全14回)されるという異例の事態に。
*2: 物語はそれぞれ独立しているので、どれから読んでも問題ありません。 *3: 9頁下段、左から6行目。 *4: 「隅田川 (能) - Wikipedia」を参照。 *5: “警察署の取調室はそのまま観客に能舞台を連想させなければならない。”(71頁)からして、非常に魅力的なものになっています。 *6: 前作『マヂック・オペラ』の帯より。 2012.03.28読了 | |
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