イリュミナシオン 君よ、非情の河を下れ
[紹介]
「結晶城{クリスタラン}」から「非情の河{フルーブ・アンパシブル}」を下り、「イリュミナシオン」でアルチュール・ランボーを探索せよ――内戦に揺れる東アフリカのサマリスに駐在する国連領事・伊綾剛は、事務総長の指令を受けて、イエスの使徒となる聖者パウロ、行基上人に従っていた阿修羅、『嵐が丘』の作者エミリー・ブロンテ、そして詩人ヴェルレーヌといった他のクルーとともに「酩酊船{バトー・イーヴル}」に乗り込むことになった。だが、地球と人類の歴史に介入しようとする「反復者{レペテイシオン}」が送り込んだ、「性愛船{バトー・セクスユエル}」とそのクルーたちが彼らの前に立ちはだかる……。
[感想]
「後書き」にも記されている(*1)ように、ダン・シモンズ『ハイペリオン』を意識して書かれた作品で、特にパスティーシュ風に仕立てられた「第一章」の冒頭にはニヤリとさせられます。とはいえ、『イリュミナシオン』という題名は『ハイペリオン』や『エンディミオン』の単なる語呂合わせではなく、詩人ランボー(→「アルチュール・ランボー - Wikipedia」)の作品からとられたもので、それ以外にもランボーの作品を元ネタにしたと思しき語句がおびただしく作中にちりばめられ、フランス語らしきルビの効果も相まって(*2)独特の印象を与えています。
“大枠の物語”――東アフリカの架空の国家サマリスを舞台に描かれる、PKO多国籍軍とゲリラ組織、「酩酊船」(のクルー)と「性愛船」(のクルー)、そして人類と「反復者」という重層的な対立の構図――の中で、“個人の物語”――「酩酊船」に乗り込むことになったクルーたちそれぞれの事情――が語られていく構成も『ハイペリオン』に通じるものといえますが、異なる時代と場所に存在していたクルーたちがそれぞれにランボーと関わりを持つに至る(*3)、強引といえば強引な物語が山田正紀らしいといえるでしょう。
例えば、ショットガンを手にしてスピンクス(スフィンクス)の謎かけに答えるパウロ、「反復者」に操られる藤原宇合を暗殺しようとしていた阿修羅(*4)、食事を拒み死に瀕しながら“物語”をつむぎ続けるエミリー・ブロンテ――それぞれの物語も奇想天外で面白いものになっていますが、その中で少しずつ説明されていく、ランボーの作品『イリュミナシオン』の特異な構成――“バラバラのカードのようなもので、ページさえ付されていなかった。”
(40頁)――になぞらえた時空構造のイメージが秀逸です。
その設定に関しては量子力学や素粒子物理学など(一応の)理論的な解説もなされているものの、内容がなかなかすんなりとは頭に入りにくい上に、“……なのか。”
・“……かもしれない。”
・“……ではないか。”
といった表現を極度に多用したくせのある文体で綴られているのは大いに好みの分かれるところだと思われますが、そのあたりはイメージ優先で読み進めるのが吉かと。いずれにしても本書は、ランボーの謎めいた生涯に(かつての「非情の河」(『終末曲面』収録)とは違った形の)独自のアプローチで迫りつつ、その詩で時空を記述するというユニークなコンセプトに基づく作品といえるのではないでしょうか。
また、これも「後書き」に記されているように、深遠でありながら荒唐無稽ともいえる理論をもとに、壮大でありながらチープさも感じさせる物語が展開される――例えば終盤の「酩酊船」と「性愛船」の戦闘場面など――という、山田正紀流のワイドスクリーン・バロック(→「ワイドスクリーン・バロック - Wikipedia」)に仕上がっているのが興味深いところ。そしてそこに、さらには(予想外の形で悲哀を感じさせはするものの)決して悲壮ではない結末にも、以前の本格的なSF作品に比べるとやや肩の力が抜けたような姿勢がうかがえるのが印象的です。
“連載の二回目にはもう、そんなことは頭からきれいに消えてしまっていました。”と続いているのは、半ば自虐めいた韜晦でしょうか。
*2: 深水黎一郎『花窗玻璃 シャガールの黙示』のように“漢字+ルビ”の表記が徹底されているわけではありませんが、手法としては多少通じるところがあるように思われます。
*3: もともとランボーと交流が深かったことが知られているヴェルレーヌ(→「ポール・ヴェルレーヌ - Wikipedia」)については、その物語が作中で語られることはなく、代わりにランボー自身の物語が挿入されています。
*4: その物語の中に、古くからの山田正紀ファンとしては懐かしく感じられる語句が登場している(145頁下段)のはうれしいところです。
2009.09.27読了
帰り舟 深川川獺界隈
[紹介]
船宿「かわうそ」を営む父親とそりが合わず、十八の時に家を飛び出して諸国をさすらい、賭場から賭場へ渡り歩いてきたどんどんの伊佐次は、五年ぶりに故郷の深川は川獺に帰ってきた。行方知れずの“赤猫”を探しに……。早速出会ったかつての弟分、今は屋根職人の源助は、なぜか孝行息子としてお上から褒美を下される一方で、元締・稲荷の徳三が構えた賭場にすっかりはまり込んでいた。そして、急死した父親の葬儀にその稲荷の徳三を含めた怪しげな者たちが顔を出したのを目にした伊佐次は……。
[感想]
文庫書き下ろし時代小説のシリーズ〈深川川獺界隈〉の第一弾で、江戸は深川“川獺”なる架空の土地で様々な人間模様が繰り広げられる、山田正紀にとっては初めての“江戸を舞台にした純粋な時代小説”
(*1)となっています。
SF要素やホラー要素を排してどちらの方向に向かうのかといえば、カバーや帯に記されている通りのピカレスク――ということで、何やらきなくさい思惑を抱えて五年ぶりに故郷に戻ってきたどんどんの伊佐次を主人公に、博打や女衒といったやくざな稼業の(小)悪党に焦点が当てられているという点では、これも山田正紀の得意とするジャンルの一つである犯罪小説に近づいた作品といえるでしょう。
とはいえ本書で前面に出されているのは、山田正紀の犯罪小説で最も顕著な“ゲーム性”よりも、賭場にはまった末にとんでもないものを借金の担保{かた}にする“孝行息子”源助を筆頭に、道を踏み外した人々のダメっぷり。にもかかわらず、そこには悲惨さの代わりに奇妙なバイタリティが存在し、(基本は)呆れるほどの調子のよさで場を乗り切ろうとする伊佐次をはじめとする(小)悪党の側も含めて、それぞれにどこか憎めないところのある人々が魅力を放っています(*2)。
そして本書最大のクライマックスとなる賭場での大勝負は、トリッキーなアイデアの面白さには欠ける(*3)ものの、スリルという点では実に見ごたえがありますし、伊佐次が仕掛ける“最後の一手”はまずまず意外にして周到な“伏線”が秀逸。また、『火神を盗め』などと同様に、“ダメ人間”である源助らが勝負を通じて手にする達成感が決着後のカタルシスを際立たせているあたり、山田正紀らしさが大いに表れている感があります。
最後の一章は、シリーズの副主人公となるらしい浪人・堀江要の視点に切り替わり、木に竹を接いだような印象を受ける部分がないでもないのですが、それでも単なるキャラクター紹介にとどまることなく、伊佐次の本来の目的である“赤猫”探しに話がつながっていくのが巧妙。最後には多少ミステリ寄りのネタなども交えつつ、結末はまた絶妙の“引き”で、次巻の早い刊行が待たれるところです(→残念ながら中断されています)。
2009.10.10読了
人間競馬 悪魔のギャンブル
[紹介]
刑事・高界良三、タクシー運転手・蛭名克己、少年・未生敬之、そして保険外交員・伊那城リオ――それぞれちょっとした能力を頼りに生きてきた四人の男女が今、密かな殺意を抱えながら、パドックを周回する競走馬さながらに互いを尾行しあっている。四人が四人ともに、いつ、どこで相手を殺すべきか、冷酷に計算を働かせている。殺らなければ自分が破滅するだけなのだ。――そしてその様子を高みから見下ろし、“人間競馬”に興じる醜いガーゴイルたち。最後に生き残る“勝ち馬”は、一体誰なのか……?
[感想]
角川ホラー文庫初登場となる山田正紀の新作は、互いに殺意を抱く登場人物たちを競走馬に見立て、それぞれが生き残りをかけて争う“人間競馬”の顛末を描いたデスゲーム風の物語であり、また“人間競馬”の“観客”としてそれぞれの“競走馬”に賭けるのが“悪魔”(ガーゴイル)ということで、密かにレースに加えられるささやかな干渉も含めてダークファンタジーの要素も取り入れられた、一種異様な作品となっています(*1)。
物語は、“ゲートイン”した登場人物たちそれぞれの視点によるパートが積み重ねられていく構成となっていますが、主役となる四人の男女はいずれも倫理観が欠如したような、人知れず悪事に手を染めている人物ばかりで、フェアプレイの爽快さを感じさせる作者お得意のゲーム小説とは一線を画した、“山田正紀流ノワール”ともいうべき味わい。とはいえ、各人がちょっとした能力と引き換えに背負わされている“ハンディキャップ”の存在が、ある種の人間味として伝わってくるのがうまいところです。
各パートの内容はさほど明確に分かれているわけではなく、むしろ関連するエピソード――殺し合いに至る経緯を異なる視点から重層的に描き出すことに重点が置かれている感があり、それぞれに悪事を企む各人の思惑が複雑に絡み合った構図だけでなく、そこに紛れ込んだ様々なすれ違いまでが浮き彫りにされていくのが巧妙。そしてエスカレートする事態に追い詰められた“競走馬”たちが、ひたすら破局へと突き進んでいく様子からは目が離せません。
その“人間競馬”をメタ視点から俯瞰するガーゴイルたちは原則として“観客”の立場を貫き、“競走馬”たる人間たちは時にその気配を感じ取るのが精一杯というあたり、デビュー作『神狩り』をはじめとする多くの作品で“超越者への抵抗”というテーマを扱ってきた山田正紀らしからぬ印象もありますが、しかしガーゴイルたちの会話の中でさらに上位の存在がほのめかされていたり、ガーゴイルにとっての“人間競馬”の意義が語られていたりするのが非常に興味深いところではあります。
実のところ、殺し合い以前の部分に多くの分量が割かれている結果、“デスゲーム小説”というには肝心の部分があっさりしすぎている(*2)きらいはありますが、しかし思わぬ形となったクライマックスの果てに用意されているトリッキーな決着は――若干のアンフェア感は否めませんが――秀逸。さらにそれを受けたガーゴイルたちの無邪気な(?)笑いによって、結末の何ともいえない黒さが際立っているのが印象的です。
*2: カバーや帯には
“デスゲーム×ダークファンタジー”なる惹句がありますが、デスゲームの要素に期待しすぎると肩透かしの恐れがあるかもしれません。
2010.07.27読了
ファイナル・オペラ
[紹介]
昭和二十年、東京。八王子の長良神社では、神主をつとめる明比家に代々伝わる秘伝の能、『長柄橋』が十四年ぶりに上演されようとしていた。母親がわが子を奪った人買いに、衆人環視下でいかに復讐を遂げるかというそれは、“世界最古の探偵小説”というべきものだった。十四年前の上演の際にはその内容に呼応するかのように、演者が舞台上で何者かに殺害されるという不可解な事件が起きていたのだ。戦況が悪化して日本軍の敗色が濃厚となる中、『長柄橋』の再演を前にして〈検閲図書館〉黙忌一郎が導き出した真相は……?
[感想]
早くから構想されていながら難産の末にようやく刊行された(*1)、『ミステリ・オペラ』・『マヂック・オペラ』に続く待望の〈オペラ三部作〉の完結編(*2)。プロローグにあたる部分でいきなり、明らかに“おかしな”台詞(*3)があったり、語り手が“ぼくの言うことをあまり真に受けないでほしい”
(15頁)と言い出したりするなど、のっけから一筋縄ではいかない様相を呈しており、読者の興味をひきつけるものとなっています。
はたして、秘能『長柄橋』を伝える八王子の明比家――その一員である二十歳の若者・明比花科を語り手とした物語は、序盤からどこかとりとめなく、“アオムラサキ”なる蝶のイメージをはじめとする数々の幻想に彩られています。その中に次々とちりばめられていく、不可解な人間消失、舞台上での殺人、輪廻転生といった謎も、少なくとも最初は今ひとつとらえどころのない形で提示されることになっており、ミステリとしては少々異色といえるかもしれません。
本書で題材とされているのは、“オペラ”ならぬ“能”。目次や章立てにも表れているように本書全体が“能”に見立てられている中で、明比家に伝わる秘能『長柄橋』――のみならずその“元ネタ”である『隅田川』(*4)も――の内容が少しずつ読者に示されていくとともに、明比家を中心に様々な形でその上演に関わる人々の姿が描かれ、さらには時おり挿入される「逆神」と題された明比花科の手記までが能仕立て(*5)といった具合に全編が“能づくし”で、能をよく知らない読者をその世界に引き込む筆力はさすがというべきでしょう。
“昭和史を探偵小説で描く”
(*6)というこのシリーズらしく、『長柄橋』は作中で“探偵小説”になぞらえられていますが、それはきっちり探偵小説の体裁を取っているというわけではなく、山田正紀流の“解釈の力業”の産物というべきもので、好みの分かれるところではあるかもしれません。しかしながら、その(作中では黙忌一郎による)“探偵小説的解釈”を通じて、“あるテーマ”とともに壮大な構図が浮かび上がってくるところが実に見事。
そして、それらによっていわば“裏打ち”されて奥行きが加わった、事件の真相もまた読者を圧倒する力を備えています。また、明比家に伝わる“雨夢見えし てふ ゆきて”
という言葉や、事件の際に楽屋の鏡に残されていた“1/2+1/2+1/2=1”
という不可解な数式など、数々の謎から――明比家の面々による“推理合戦”も経由しながら――意外な“解釈と連鎖”の積み重ねによって真相を形作っていく、まさに“豪腕”というべき謎解きも迫力十分で見ごたえがあります。
真相が明らかにされるとともに壮絶なカタストロフを迎える物語は、(これも“能”に見立てた)「終の段」と題された終章で幕を閉じます。短いながらも、美しい“幻想”と醜悪な“現実”とが対置され、あるいは混沌となった、絶望の中に希望を提示するかのような凄まじい結末には、心を動かされずにはいられません。三部作の掉尾を飾るにふさわしい、山田正紀にしか書き得ないといっても過言ではない傑作です。
*2: 物語はそれぞれ独立しているので、どれから読んでも問題ありません。
*3: 9頁下段、左から6行目。
*4: 「隅田川 (能) - Wikipedia」を参照。
*5:
“警察署の取調室はそのまま観客に能舞台を連想させなければならない。”(71頁)という記述からして、非常に魅力的なものになっています。
*6: 前作『マヂック・オペラ』の帯より。
2012.03.28読了
【関連】 『ミステリ・オペラ』 『マヂック・オペラ』
ふたり、幸村
[紹介]
諏訪大社の雑人であり、早飛脚として武将・真田昌幸に仕える少年・雪王丸は、奇妙な占いのために命を狙われることとなり、九死に一生を得る。やがて雪王丸は、上杉家の人質となっている昌幸の次男・信繁の身代わりをつとめるため、“幸村”の名を与えられて昌幸の養子となった。年齢の近い信繁と幸村は出会った時から互いに親しみを覚え、交わりを深めていく。そして――豊臣方について徳川勢に抗するため、揃って大坂城に入城する頃には、なぜか信繁と幸村の二人ともが「幸村」と人々に呼ばれるようになっていた……。
[感想]
本書は、戦国時代の武将・真田幸村を主役に据えた歴史伝奇小説――といえばありがちなようにも思えますが、“真田十勇士を率いた英雄的武将”という講釈のイメージを極力排した上に、本名の“信繁”ではなく由来の不明な“幸村”の名前が広まっている謎(*1)に対して、信繁と幸村の二人が存在したという大胆なアイデア(*2)を展開してみせた、何とも型破りな作品となっています。
物語は主人公・雪王丸が“真田幸村”の名を与えられる前の「少年期」に始まり、幸村と信繁が出会う「青年期」、真田家と徳川家の第二次上田合戦を控えた「壮年期」を経て、いよいよ大坂夏の陣を目前にした「晩年期」に至るまで、その数奇な生涯の要所が描かれています。が、そこに華々しい武功などはなく、いわゆる“真田十勇士”の面々(*3)も含めて、時に情けないほどに等身大の人間たちとして登場しているのが、いかにも山田正紀らしいといえるかもしれません。
また、どこか茫洋とした性格の雪王丸/幸村は、信繁ともども、もう一人の兄となる真田信幸(昌幸の長男)にまで“愚鈍そうな”
と評される有様で、“知略に優れる切れ者”といったイメージもありませんが、軍配師(軍師)としての能力とともに油断のならない性格で知られる父・昌幸や兄・信幸らと対比されることで、能力よりも人間味のある人物であることがより強調されている感があり、親しみの持てる主人公となっています。
しかしそんな雪王丸/幸村に、物語の序盤から時おり神託めいた啓示――深遠な“問い”をはらんだ不思議な夢や、命を狙われるきっかけになった占いなど――が訪れ、それらを通じて、“人”より大きなスケールで時代をとらえる“神”――謀略によって時代を動かす軍配師の視座へと導かれていくのが興味深いところ。そして幸村は、戦国時代が終焉に近づくとともに黄昏を迎える“神々”――軍配師の物語に、否応なしに組み込まれることになります。
物語の終盤近くに登場する、「後書き」の言葉(*4)の通りのマジックリアリズム(→Wikipedia)的にぬけぬけとした壮大な展開も、それ自体が凄まじく鮮烈な印象を残すもので、本書の白眉といっても過言ではないのですが、その主体となっているのが世界を俯瞰する視点であり、そしてまた軽々と時代を超越しているところが実に暗示的で、本書のテーマに沿った効果的なものといえるのではないでしょうか。
信繁と幸村の二人を包み込む“真田幸村”という“虚名”も、戦国から太平への時代の流れと決して無縁ではないのですが、それに抗うように、あくまでもさばさばと“カッコいい”最期を求める“二人の幸村”の姿には、何とも感慨深いものがあります。そしてそれに呼応する、冒頭で幸村が夢に見た“問い”に対する“答え”が配された結末も見事。史実の隙間に、大胆で印象深い物語を組み立てた作者の手腕が光る快作です。
“現在では「真田幸村」の名で広く知られているが、信繁直筆の書状を始め、信繁が生きていた頃の史料で「幸村」の名が使われているものは見つかっておらず、「幸村」ではなく「信繁」が正しい。”(「真田信繁#「真田幸村」の由来 - Wikipedia」より)。
*2: このアイデアには、比較的初期のある作品を思い起こさせるところがあり、ファンとしてはニヤリとさせられます。
*3: ただし、三好清海入道と三好伊三入道を除く(→本書の「後書き」を参照)。
*4:
“私には「マジックリアリズム」の手法を使って新しい時代劇を書けないものか、という野望――を通りこして身のほど知らずの妄想――がある。『ふたり、幸村』ははその最初のささやかなる試みと思っていただければありがたい。”(316頁)。
2012.05.21読了
復活するはわれにあり
[紹介]
病で余命を宣告され、少しずつ麻痺が進んでいる体を車椅子に委ねるワンマン経営者・権藤は、仕事で訪れたベトナムで、“ジエイゾ(蠍座)”と名乗る男の配下に拉致された。自らも車椅子に乗る“ジエイゾ”から、超ハイテク車椅子〈サイボイド〉を与えられた権藤は、“ジエイゾ”の所有する大型船〈南シナ海号〉に乗船することになった。だが、〈南シナ海号〉は航行中にハイジャックされ、権藤らは人質となってしまう。犯人グループの奇妙な要求の裏に謀略の気配を感じ取った権藤は、〈サイボイド〉を駆って果敢に事態に立ち向かうが……。
[感想]
本書は山田正紀にとって久々となる冒険小説(*1)ですが、まずはやはり、病により全身の麻痺が進行中で車椅子に乗る主人公という、冒険小説らしからぬ(?)主人公の異色の造形が目を引きます。大きなハンディキャップを抱えるどころか、緩慢ながらも目に見える形で“死”に近づいている状態ですが、しかしそれだけに、そこから自分なりの“復活”を果たそうとする主人公の奮闘には切実なものがあります。
得体の知れない人物“ジエイゾ”が持ちかけてきたうさんくさい取引に応じて、大型船〈南シナ海号〉に乗り込んだ主人公・権藤ですが、船は出航して早々にハイジャックされてしまい、幾重にも重なる謀略に巻き込まれることになります。“敵”は必ずしもハイジャック犯のみならず――ということで、時にハイジャック犯とも協力しながら、事態を切り抜けるためにハイテク車椅子〈サイボイド〉を駆って命がけの死闘と推理を繰り広げる権藤の姿は印象的です。
もちろん、権藤の最大の武器となる〈サイボイド〉の万能ぶりにも凄まじいものがあり、例えばタラップを登るといった物理的・機械的な機能もさることながら、付属の神経インターフェイスデバイスを介して脳波で電子機器をコントロールするあたりなどは、ちょっとした魔法のようですらあります(*2)。しかし同時に、それを支えるべき権藤の意志の力――死を目前にしての強烈な反骨心ともいうべきものを、見逃すべきではないでしょう。
戦闘と裏切りが交錯する山田正紀らしい展開の中、目的地へ向かうハイジャック犯の思惑、そして権藤に〈サイボイド〉を与えた“ジエイゾ”の思惑が、少しずつ明らかになっていく終盤は見ごたえがあります。その中にあって、謀略に翻弄されながらも超人的な努力を続けて生き延び、目的地にたどり着いて事態を最後まで見届ける権藤は、たとえそれがかりそめであるとしても、鮮やかな“復活”を果たしたといえるでしょう。
すべてが明らかになる「エピローグ」に用意されているのは、これまた実に山田正紀らしい、もう一つの“復活”をめぐる戦い。異色の造形であろうとも、やはり山田正紀作品の主人公であることをしっかりと証明してみせる権藤の姿が、ばっさりと物語を断ち切るかのような最後の一文とともに、強く印象に残ります。山田正紀にとっての“冒険小説の復活”
(*3)、お見事です。
2013.04.26読了
クトゥルフ少女戦隊 第一部 セカイをわたしのスカートに/第二部 セカイの中心で私{アイ}を叫んだケモノ
[紹介]
ワイドショーのメイン・キャスターを務める榊原は、路上で滑車を使うゴキブリを目にし、サンタクロースに扮した奇妙な女の子と出会い、そして番組の最中に“囀るマウス”――〈マウス・クリスト〉と対面することになって……。
来るべき〈クトゥルフ爆発〉――カンブリア爆発をはるかに凌駕する生物界の大変動に対して、四人のクトゥルフ少女たち――実存少女サヤキ、限界少女ニラカ、例外少女ウユウ、そして究極少女マナミは、遺伝子改変されたゴキブリ群と壮絶な戦いを繰り広げ、そしてついにはクトゥルフの〈進化コロシアム〉に足を踏み入れる……。
[感想]
「宇宙からの色の研究」(『ホームズ鬼譚~異次元の色彩』収録)に続いてクトゥルー・ミュトス・ファイルズへの登場となるこの作品は、帯に“クトゥルフ×メタSF”
・“山田正紀×戦闘美少女”
と謳われているとおりの代物で、正直なところ話の内容を紹介することさえ難しい――上の[紹介]もかなり怪しい――のですが(*1)、とにかく無茶苦茶で面白い作品であることは間違いありません。わけのわからないすごい話を読みたい方にはおすすめです。以上……で終わりにしたいのは山々ですが、そういうわけにもいかないのでもう少し。
内容紹介でもおわかりのように本書は進化テーマのSFであり、〈第二部〉の「あとがき」でも言及されているSF大賞受賞作『最後の敵』(*2)に通じるところがあります。それは、重層的な“現実”を行ったり来たりしながら進化との戦いを描き出すという、物語の基本骨格に顕著に表れています(*3)が、“進化”という得体の知れないものとの戦いにふさわしい“もう一つの現実”が用意されつつも、その戦いの余波が“現実”に及ぶ形になっており、まずは“現実”が異様に変容していくところから物語は始まります。
二つの“現実”を(ある意味で)つないでいるのが、作中の“現実”で制作されたらしい美少女アニメ『クトゥルフ少女戦隊』……というところからして何かおかしい(苦笑)のですが、そのオープニングが――凄まじい主題歌(*4)まで含めて――大真面目に描かれているのがまたすごいところ。そしてそのアニメをいわば媒介として、“現実”の登場人物の一部が実存少女サヤキ・限界少女ニラカ・例外少女ウユウ・究極少女マナミ――美少女戦士に“変身”し、“もう一つの現実”で壮絶な戦いを繰り広げることになるのですが……。
誤解を恐れずにいえば、本書は進化テーマのSFではあるものの、科学的知見の正確さよりは比喩やアナロジー、語呂合わせ(ダジャレ)風の連想を駆使した自由自在なイメージの奔流に重きが置かれている、実に山田正紀らしい物語ではあります。が、その自由自在さがこれまでの作品とは比べものにならないほどのレベルで、わけのわからない面白さに圧倒されるよりほかありません。また、山田正紀にしては改行が多く短い文章(*5)が呪文のように積み重ねられる形で、クトゥルフ少女たちがあまりにも異様な“世界”の真実を少しずつ“理解”していき、それがそのまま読者の頭にも叩き込まれていくのが強烈です。
もはやストーリーはあって無きに等しい――というのはいいすぎかもしれませんが、それがまったく気にならないほどに作中の世界、そして主役のクトゥルフ少女たちがとにかく魅力的。武器や戦い方なども含めてキャラが立っているのはもちろんとして、〈少女戦隊〉といいつつ必ずしも協調するわけでもなかったり、“美少女戦士”とは異なる“現実”でのキャラクターを微妙に引きずったりしながら、絶体絶命の窮地でも悲壮感を漂わせることなく(*6)したたかに戦う姿は、鮮やかに印象に残ります。
どこまで行くのか予想もつかない物語ですが、〈第二部〉の最後には一応の、一つのエピソードの区切りといった印象の結末を迎えます。そして、アニメよろしく用意されたエンディング――「グランド・フィナーレ」がまた凄まじい弾けっぷりで、頭に焼きついて離れません。前述のように山田正紀らしい作品でありながら、山田正紀のイメージを根底から覆すような、まさに怪作といえるでしょう。すでに続編も構想されている(*7)ようで、そちらも大いに楽しみです。
*2: 奇しくも〈第一部〉の刊行と同月に河出文庫で復刊されているので、興味がおありの方はそちらもぜひ。
*3: 他に、(一応伏せ字)進化したゴキブリの登場(ここまで)も共通点といえます。
*4: もちろん作中にはぶっ飛んだ歌詞が書かれているだけですが、〈第一部〉刊行時に曲が公募された結果、こうたさん作曲の「『クトゥルフ少女戦隊』テーマソング」が公式に採用されています。
*5: その中にも、例えば
“人生に必要なことはすべて『ためしてガッテン』の立川志の輔から学んだ。”(〈第一部〉96頁)や、
“マイクロバイオーム環境における内部時間は「モエ」または「チャーム」という単位であらわされる。”(〈第一部〉101頁)といった、ツボにはまる文章が織り交ぜられているのが油断のならない(?)ところです。
*6: 以前に『イリュミナシオン 君よ、非情の河を下れ』の感想でも似たようなことを書きましたが、このあたりは以前の――特に初期の作品とは一線を画しているように思います。
*7: 「クトゥルー・ミュトス・ファイルズ刊行企画」では、
“続・『クトゥルフ少女戦隊』(仮) ”の刊行が予告されていま
2014.10.05 / 12.05読了
桜花忍法帖 バジリスク新章
[紹介]
徳川三代将軍の座をめぐる甲賀と伊賀の壮絶な忍法合戦から十余年。将軍跡目争いに敗れた駿河大納言・徳川忠長に、人外の力を操る異形の忍者集団・成尋衆が接近し、謀反をそそのかす。矛眼術を操る少年・甲賀八郎と盾眼術を使う少女・伊賀響――運命の双子がそれぞれ率いる甲賀五宝連と伊賀五花撰が、その成尋衆に戦いを挑むが……。
……そして五年後、二代将軍・秀忠の死をきっかけに再び現世に現れた成尋衆は、動く城〈叢雲〉を駆って恐るべき野望を果たさんとする。それを阻止すべく、甲賀と伊賀の精鋭たち、そして八郎と響は死地へ赴く……。
[感想]
山田正紀のおよそ一年ぶりとなった新作は、山田風太郎『甲賀忍法帖』――そしてそれを忠実に漫画化したせがわまさき『バジリスク』――の“続編”という位置づけの作品で、カバーにはせがわまさき氏のイラストが採用されています。どのような経緯で企画が持ち上がったのかはわかりませんが、自身が山田風太郎の熱烈なファンでもあり、すでに『甲賀忍法帖』オマージュの『神君幻法帖』を発表している山田正紀に白羽の矢が立ったのは、理解できるところです(*1)。
ということで、いうまでもないかもしれませんが、本書の前にまずは『甲賀忍法帖』/『バジリスク』を先にお読みになることをおすすめします(*2)。もっとも、そちらをお読みになった方はご承知かと思いますが、“あの結末”からすると、続編とはいってもかなり別の話にならざるを得ないのは明らかで、“普通の続編”を期待される向きは注意が必要でしょう。実際に、“前作”とのつながりにはいささか強引な部分もあり、大きく好みが分かれそうなところではあると思います。
しかしながら、山田風太郎が史実の裏側に忍法帖の世界を作り上げたのと同じように、本家・『甲賀忍法帖』の裏側に“あり得たかもしれない物語”を作り上げる手法としては、十分に“あり”――実際のところ、他にやりようがないのも確かでしょう――だと思いますし、“前作”に沿って忍者に対する権力者の非情さ/道具として扱われる忍者の悲哀をより強めながらも、その中には一抹の“救い”も盛り込まれている、ととらえることもできるのではないでしょうか。
さて、物語は“前作”の後日談として、忍法合戦の結果で明暗が分かれた三代将軍・家光と駿河大納言・忠長との関係に焦点を当てる形で始まり、将軍の座を逃して不遇を託つのみならず兄・家光に理不尽な仕打ちを受ける忠長の、鬱屈した思いが成尋衆を引き寄せることになります(*3)。そして、序盤から成尋衆と甲賀/伊賀の忍者たちとの戦いが繰り広げられるわけですが、(山田正紀らしくというべきか)風太郎忍法帖よりもさらにSF寄りの忍法(*4)を操る強力な成尋衆に対して、甲賀や伊賀の忍者たちはかなり苦しい戦いを余儀なくされます(*5)。
“甲賀vs伊賀”ではなく“代理戦争”でもないという、“前作”との違いに違和感を覚える向きもあるかもしれませんが、そこはあまり似たような忍法帖を書かなかった山田風太郎へのリスペクトといえるでしょう(*6)。一方で、他の風太郎忍法帖に通じる要素(*7)が取り入れられることで、忍法帖全体へのオマージュ色が強くなっている感があるのですが、その中にあって、“前作”の弦之介と朧とは違った形ながらも“甲賀ロミオと伊賀ジュリエット”を踏襲した、甲賀八郎と伊賀響の関係が物語全体を貫く軸となり、続編らしさを打ち出しています。
続編とはいえ、“山田風太郎パスティーシュ”ではなくあくまでも山田正紀の作品として、特に終盤はいい意味でやりたい放題の印象。怒涛の展開の中で明らかになる成尋衆の目的などは、山田正紀的なテーマを山田風太郎的な手法(*8)で実現しようとした、ともいえそうなもので、両者のファンとして非常に面白く感じられました。戦いに決着がついた後のセンチメンタルな結末――“四十”にも感慨深いものがあります――も、山田風太郎というよりは山田正紀風で、(一応伏せ字)“前作”の結末にはなかった“希望”が用意されている(ここまで)のが印象に残ります。
“どうして私なんでしょう? と編集者氏にお訊きしたら、山田風太郎さんとせがわまさきさんを足して二で割ると「山田正紀」になるから、ということだった。”(同書145頁)と冗談めかして書いてありますが……(苦笑)。
*2: どちらか一方でもかまわないと思いますが、『甲賀忍法帖』の方を先に読んでおくと、地の文での現代用語による解説にも違和感を生じにくくなるのではないかと思われます。
*3: 風太郎忍法帖の某作(→(以下伏せ字)『忍びの卍』(ここまで))をお読みになった方であれば、ある程度予想できるのではないかと思いますが、実のところ本書での忠長は、(一応伏せ字)あくまでも物語を動かす“きっかけ”としての扱いにとどまり、下巻の序盤あたりで物語から“フェードアウト”する(ここまで)ことになっています(おそらくは、そちらの作品で(一応伏せ字)忠長の“その後”が描かれている(ここまで)ため)。
*4: これについては、『甲賀忍法帖』/『バジリスク』だけを読んでいると異質に感じられるかもしれませんが、風太郎忍法帖でも『忍者月影抄』の“アレ”のように、多少SF寄りの忍法も登場しています。本書の場合、『バジリスク』に挑むかのように、あえてヴィジュアル化しづらい忍法を組み立ててあるようにも思われますが、これは穿ちすぎでしょうか。→ところが、シヒラ竜也によるコミカライズ『バジリスク ~桜花忍法帖~』では見事にヴィジュアル化されており、感心させられました。
*5: このあたりは、単に敵が強大すぎるというだけでなく、十余年前の忍法合戦の結果として甲賀と伊賀が“弱体化”したことが暗示されている……のかもしれません。
*5: 前述のように、すでに“山田正紀版『甲賀忍法帖』”ともいうべき『神君幻法帖』が発表されていることもあるでしょうが。
*7: 割とすぐに思い浮かんだだけでも、例えば甲賀と伊賀のチーム編成は『くノ一忍法帖』、忍法僧は『伊賀忍法帖』、機械仕掛けは『海鳴り忍法帖』、強者に対する弱者の戦いは『風来忍法帖』、男社会に対する女たちの叛旗は『柳生忍法帖』、一部のあっけない戦い(によって強調される忍者たちの命の軽さ)は『外道忍法帖』、といった具合です。
*8: 風太郎忍法帖の某作(→(以下伏せ字)『魔界転生』(ここまで))を思い起こさせる、という意味で。
2015.11.20 / 12.21読了
カムパネルラ
[紹介]
政府が思想教育の要としている宮沢賢治作品、とりわけ『銀河鉄道の夜』を熱心に研究し、政府が否定する「第四次改稿版」の存在を主張していた母は、十六歳のぼくを置いて逝ってしまった。遺言に従って散骨のために花巻へ向かったぼくだったが、ふと気づくと、昭和八年九月十九日――宮沢賢治が亡くなる二日前にタイムスリップしていたのだ。なぜか人々がぼくのことを“ジョバンニ”と呼ぶ中、賢治の死を阻止するためにたどり着いたその家には、賢治の代わりに早逝したはずの妹・トシとその娘“さそり”が存在し、トシは「カムパネルラは殺された」と……。
[感想]
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』(*1)を題材にしたSFですが、巻頭の頁で説明されているように、現実での『銀河鉄道の夜』が「第四次改稿版」まで存在するところ、本書では「第三次改稿版」が最終版として流布している世界が舞台となっています。「プロローグ」の最後に“だから、これから先はぼくたちの『銀河鉄道の夜』の物語なのだ。”
(*2)とあるように、本書は「第三次稿」と「第四次稿」の隙間に――〈現実〉と〈フィクション〉を交錯させながら――構築した、“山田正紀版『銀河鉄道の夜』”といっていいかもしれません。
物語の序盤で、メディア管理庁なる政府組織が『銀河鉄道の夜』の「第三次稿」などを少年少女への思想教育に用いている〈現実〉がさらりと語られた後、すぐに昭和八年の花巻へと舞台が移りますが、そこでは宮沢賢治が五年も前に亡くなっているなど“史実”と異なるのみならず、主人公の“ぼく”はなぜか“ジョバンニ”と呼ばれ、“カムパネルラ”や“プルカニロ博士”、さらには“風野又三郎”(*3)までが登場する、宮沢賢治作品が“現実化”したような〈フィクション〉に侵食された〈現実〉となっています。
一方で、“カムパネルラ殺し”に始まって“ジョバンニ”(ぼく)がその容疑者となるミステリ的展開も目を引くところで、ちょっとした“首切り講義”(*4)まで用意されるなど、思いのほか本格的。一見すると『銀河鉄道の夜』の世界とは相容れないようにも思われるかもしれませんが、ミステリに期待される合理性によって物語を〈現実〉につなぎ止めながら、同時に〈現実〉と〈フィクション〉の融合を強める――というのは、“ジョバンニ”(ぼく)のアリバイが『銀河鉄道の夜』の記述をもとに検証される(*5)あたりで――効果があるのではないかと考えられます。
また、ここで“手がかり”とされる『銀河鉄道の夜』――宮沢賢治の死後に編纂されたという“私家版”が、“ぼく”の知っている「第三次稿」と違っていることが明らかになっていくのも注目すべきところ。“私家版”――幻の「第四次稿」そのものの謎とともに、生前その存在を主張していた“ぼく”の母がクローズアップされてくるところもよくできていますが、「第三次稿」と「第四次稿」の差異を通して、そのような改稿に至った宮沢賢治自身の変化までが浮かび上がってくるのが見事です。
やがて明らかになるタイムスリップの真相だけをみると、ややありがちといえばありがちかもしれませんが、その背景には何とも凄まじいものがありますし、それを知った上でなお“ジョバンニ”として最善を尽くそうと奮闘する“ぼく”の姿からは、最後まで目が離せません。そしてその果てに待ち受ける、宮沢賢治のある作品の思わぬ“変奏曲”となっている結末は、いつまでも印象に残ります。何度も大きく改稿された末に未定稿のまま絶筆となった、本書の中で“永久物語運動体”
とも呼ばれる『銀河鉄道の夜』にふさわしいともいえそうな、メタフィクショナルなSFの傑作です。
*2: 太字箇所には原文では傍点が振られています。
*3: 「風の又三郎」の原型となった作品(→「風の又三郎#成立 - Wikipedia」を参照)の主人公(風の精霊)です。
*4: “首切り”の合理的な理由を分類したもの。
ちなみに、知る限りでは詠坂雄二『遠海事件』の“首切り講義”がよくできています。
*5: このアリバイ論議が、(〈現実〉と〈フィクション〉ではなく)(一応伏せ字)“現代”と“過去”を交錯させる(ここまで)形で一応の決着をみているのも面白いところです。
2016.10.25読了
ここから先は何もない
[紹介]
日本の無人探査機が三億キロ彼方の小惑星〈パンドラ〉で採取してきたサンプルには、なぜか化石人骨が含まれていた。アメリカが不当にも自国の管理下に秘匿したその化石人骨“エルヴィス”を奪還するために、民間軍事会社のリーダー大庭卓は奪還チームを結成する。天才的なハクティビスト(ハッカー+アクティビスト)・神澤鋭二、早朝キャバクラでアルバイトをする法医学者・藤田東子、非正式の神父にして宇宙生物学の研究者・任転動、そして正体不明の野崎リカ。厳重な警備が敷かれた米軍施設から、“エルヴィス”を奪還することはできるのか。そして、三億キロ彼方の“密室”では一体何が起こったのか……?
[感想]
巻末の「あとがき」によればジェイムズ・P・ホーガンの名作『星を継ぐもの』に挑んだという(*1)、山田正紀の書き下ろし長編宇宙SFです。『星を継ぐもの』といえばやはり、月面で五万年前の死体が発見される発端の謎が大きな魅力ですが、本書にはそれをスケールアップしたような“オーパーツ”――地球から三億キロ離れた小惑星で発見された化石人骨――が登場し、ミステリや冒険小説(謀略小説)の要素も交えながら壮大な物語が展開される快作に仕上がっています。
宇宙SFであるにもかかわらず銀行の窓口(!)から物語が始まるのがユニーク(*2)で、そこに登場したハッカー・神澤鋭二を中心として、それぞれに個性的なメンバーが揃う奪還チームの編成から“どうやって米軍施設に侵入するか”(*3)が焦点となっていく前半は、初期の『火神を盗め』などを思い起こさせる冒険小説(謀略小説)の味わいが強くなっています。前述の『星を継ぐもの』を髣髴とさせる謎が本題ということもあって、侵入作戦は思いのほかあっさりと進んでいく印象もありますが、“誤算”や“罠”に“裏切り”など読みごたえは十分です。
侵入作戦への興味の背後で物語を引っ張っていくのがSFミステリ的な要素で、前述の化石人骨の謎もさることながら、それを採取してきた探査機の不可解な挙動の謎――本来の目標に到着寸前で突如制御不能となり、なぜか制御が復帰した時には目標が〈パンドラ〉に変わっていた――もまた大きな見どころ。ガストン・ルルー『黄色い部屋の謎』を引き合いに出しながら(*4)、三億キロ彼方の探査機での“プログラム殺し”を“密室殺人”になぞらえて、SFならではの“不可能犯罪”に仕立ててあるのが実に魅力的です。
そして、ついに米軍施設に潜入して化石人骨と“対面”してからの、大ボリュームの“謎解き”はまさに圧巻。“三億キロの密室”に関する豪快な物理トリックのインパクトも強烈ですが、スケールが広がっていくSF部分の謎と解決を支える“超理論”がものすごいところで、イメージを次々と連鎖させていくことで理論の飛躍を覆い隠す“トリック”、そして“謎解き”に入ってからもさらに広げに広げた風呂敷をとにもかくにも畳んでみせる豪腕は、山田正紀の真骨頂というべきでしょう。
“事件”の後日談となる「エピローグ」では、何とも山田正紀らしい結末が印象的。全体として『星を継ぐもの』を超えたかといえば、そもそもの方向性の違いもあって何ともいえない部分がありますが、その方向性も含めて見事な“山田正紀版『星を継ぐもの』”といっていいのではないでしょうか。誤字や記述ミスが少々目立つのが残念ではありますが、おすすめの作品です。
2017.07.18読了