◎ はじめに 文化大革命の時期、多くの詩歌が生まれ、人々は唱った。赫奕たる太陽の下、頌歌が高らかに大地を覆い、悲歌が深く深く秘かに流れた。それらを眺めながら過ぎ去った月日を描いていく。 ![]() 文革−“如夢歳月”、或いは“瘋狂歳月”と見るか。それについて出版された下記の書のあるものには、次のように記されている。
また、あるものには、次のように記されている。
◎ 文革とは(略述)(文革について詳しくはこちら ![]() 文化大革命は、思想・文化方面の意識改革という面から起こった。 この運動が表面に現れてきたのは、六五年末の『文匯報』が姚文元の手による『新編歴史劇“海瑞の免官”(海瑞罷官)』を評する』を発表したことである。海瑞とは歴史上の人物で、清官とされた。それを主題として、歴史学者の呉ヨが六一年に表したもの。この姚文元の『新編歴史劇“海瑞の免官”を評する』が、“社会主義文化大革命”(文革の初期の名称)の口火となった。………… ![]() 七六年一月、周恩来が死去。同年清明節前、天安門広場に数十万人が集まり、周恩来を追悼すると同時に、周恩来を追いやったものとして、祖国を滅亡の危機に追いやった者として、四人組(“四人幇”)を糾弾した。世に(第一次)天安門事件という。この天安門事件に関しては「天安門革命詩抄」 ![]() 七六年九月九日毛沢東が死去。十月、葉剣英が暗躍し、華国鋒らが、王洪文、張春橋、江青、姚文元を逮捕、彼ら“四人幇”(四人組)に対する隔離審査をする。事態は終熄した。 七八年末、文革は正式に否定された。 赫奕たる日は沈んだ。 上記の内容は、中央の政局の動きの概要である。これが一般の庶民と糺弾される側に与えたものは、限りない「批闘会」(批判闘争会)と武闘の惨状である。それは、下記の書や、その他の記録文学に残されている。文字のみならず、映画でも、芙蓉鎮、覇王別姫、陽光燦爛的日子、天雲山傳奇、牧馬人、藍風箏等にも似たような描写がある。とりわけ、梁曉聲の小説や多くの記録を見ていると、“瘋了”“精神状態…”“被逼瘋”“致瘋”“打殘(廃疾となる)”“自殺”等ということばが、しばしば出てくる。これには、何とも言い難い重苦しい気持ちにさせらる。歴史不能再徘徊ということなのだろう。 ◎ このページの作品の根拠 作品の出典については、〔文革〕関係では、「那個年代中的我們」「名人與冤案」「中國知史」「歳月不能消磨了的記憶」「春的浩劫」「老知青寫眞」「千秋功過」「胡耀邦與平反冤假錯案」「王丹・獄中回憶録」「十年奇冤録」「冤假錯案是這樣平反的」「紅色牛棚 “五・七”幹校紀實」「牛棚雜憶」「思痛録」「在劫難逃」「歴史再審判」「1976〜1981的中國」「歴史的眞言」「共和國重大事件和決策内幕」「説假話年代」「春殤」「血與鉄」「一個紅衛兵的自白」「中國八十年代爭鳴小説苑I」「文革笑料集」「無名詩集」「文革名人風雲録」「『文化大革命』簡史」「權延赤文集(走下~壇的毛澤東、紅墻内外、紅朝傳奇、共和國密使、毛澤東與赫魯曉夫、掌上千秋、餐卓旁的領袖們、中國最大的保皇派」 ![]() ![]() ![]() 文革関係の歌集としては、文革期に出版された「歌集・毛澤東思想永遠放光芒」「毛主席語録歌曲集」「毛主席語録譜曲集」「革命現代舞劇 白毛女」「紅色娘子軍」「紅小兵歌曲 」 ![]() また、〔反右派運動〕では、「烏昼啼」「六月雪」「荊棘路」「原上草」「五七年的血涙」「歴史不能再徘徊」「紅色風波中的交鋒與較量」「人民公社興起失敗」「1957年的夏季:從百家爭鳴到兩家爭鳴」「70個日日夜夜大學生眼睛裡的1957之春」「中華人民共和國演義」「九死一生 我的“右派”歴程」「我親歴過的政治運動」 ![]() ![]() なお、第一次天安門事件に関する「天安門革命詩抄」「天安門詩文集」「天安門詩抄」「天安門悲歌」については、本サイト中の「天安門革命詩抄」 ![]() ![]() このページは、詩歌を通じて、文革当時の生活や心情に迫りたいと思っていますが、政治体制を論うことは、本旨としておりません。ご了解下さい。 ![]() |
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◎ 文革とは(詳述) 文化大革命は、思想・文化方面の意識改革という面から起こった。 この運動が表面に現れてきたのは、六五年末の『文匯報』が姚文元の手による『新編歴史劇“海瑞の免官”(海瑞罷官)』を評する』を発表したことである。海瑞とは歴史上の人物で、清官とされた。それを主題として、歴史学者の呉ヨが六一年に表したもの。この姚文元の『新編歴史劇“海瑞の免官”を評する』が、“社会主義文化大革命”(文革の初期の名称)の口火となった。 翌六六年二月、彭真は、「文化革命五人小組」会議(数ヶ月後に設置された「中央文化革命小組」とは正反対の全く別物)を招集して、この批判問題を学術問題として位置付け、政治問題化することを防ごうとした。そうしてまとめたのが『二月テーゼ(“二月提綱”)』である。このことが後に、強く批判された。 その間、林彪や江青といった毛沢東の腹心が、運動の条件作りをしていた。後によく言われだした『文藝講話』についてや、毛沢東の『五・七指示』「“學制要縮短,ヘ育要革命,資産階級知識分子統治我們的學校的現象再也不能繼續下去了」(学制は短縮し、教育は革命しなければならない。ブルジョア知識分子が我々の学校を支配するという現象は、もうこれ以上継続させてはならない)」といった指示は、この時期に播かれた。この時期、問題とされたのは『海瑞の免官』のみでなく、『燕山夜話』『三家村札記』も批判されだした。これらの作品はそれぞれ寓意があり、特定の人物(毛沢東)や特定の組織(中国共産党中央)を揶揄、攻撃している“毒草”である、ということで批判された。 同年六六年五月末、中国共産党中央は、「中央文化革命小組」を成立させ、学校に紅衛兵組織ができ始めた。文革が広汎な人民の運動となり始めたのは、この頃である。仕事や学業の停滞が明確になってきたのもこの頃からである。 同年八月毛沢東は、大字報「司令部を砲撃せよ(炮打司令部−−我的一張大字報)」を自ら書き(実際は『人民日報』に掲載)、“修正主義の司令部”を砲撃し始め、苛烈に劉少奇、ケ小平を批判しだした。このすぐ後、毛沢東は天安門で、百万に上る革命大衆と紅衛兵に接見した。後に、“毛主席接見百萬群衆”といわれたものである。紅衛兵運動は最高潮に達し ![]() 同年晩秋、「上海工人革命造反総司令部」(「工総司)が成立した。そのすぐ後、紅衛兵の経験交流(“串連”)は停止させられた。文革の主役が紅衛兵から王洪文ら上海派をリーダーとする工人(労働者)の手に移った。“造反有理”による武闘、破壊、家宅捜査、庶民レベルでは批闘が始まった。 年が明けた六七年新春、中国は「要把無産階級文化大革命進行到底」一色になった。やがて本当に紅いペンキで中国は“紅い大海”となるように塗り上げられてもいった。“到處キ是燦爛陽光”という風情である。上海で、王洪文らによる「上海公社」(上海コミューン)が設立された。旧来の権力機構に対する奪権闘争が繰り広げられた結果、既成の共産党委員会組織を否定し、造反派による権力機構が打ち立てられたわけである。共産党組織を否定しても罪ではなくて、革命的な行為である、という中国庶民にとっては衝撃的なものであった。ただ、“公社”形式は後に続けられなかった。この後、二月に「文化大革命は、行き過ぎである」という意見が古参幹部より出されるが、後に、“二月逆流”と云われて否定される。 この年、国内各地が大混乱する。そのため、各派の“大連合”を呼びかけ、後には革命派の主流である革命幹部、人民解放軍、革命群衆による“三結合”が叫ばれた。七月には、武漢で「百万雄師」をめぐる内乱のような大武闘(七.二〇事件)が起こる。天下大乱の一年である。 六八年、各地の既成の共産党委員会が打倒され、造反派による革命委員会が設立された。旧来の権力機構から、文革派(造反派、革命派)へ全面的に移行する奪権闘争が繰り広げられた。同年末、知青の“上山下ク”運動が盛んになる。「若い力」は必要でなくなる。本ページにはこの頃の詩歌も多い。奪権闘争後、鎮静、収束に向かう一年である。 六九年、ソ聯と珍宝島事件を起こす。 七一年、文革でナンバー2とされた林彪が毛沢東暗殺を企て、失敗・露見するや、九月十二日、妻の葉群、息子の林立果と共にトライデント機に乗って国外に逃亡し、モンゴルのウンデルハンで不時着に失敗し、全員死亡した。翌九月十三日のことである。それゆえ、「九・一三事件」ともいう。その遺骸の写真もある。確かにそこで死んだ。この暗殺計画は「“571工程”紀要」(“571”は声調に多少違いがあるものの“武起義”と同音(wuqiyi))と呼ばれているが、はたしてどれほどのものであったのか。謎の多い事件ではあるが、現在、残された林彪の家族の言から、林彪は息子の林立果に引きずられたようで、林彪の政治的立場が弱まってきたことからの蹶起なのか。やがて、“批林批孔”運動が繰り広げられ、「林彪反黨反革命集團」といわれた。やがて、“二月逆流”で失脚した古参幹部が復活し始めた。 その後、孔子が批判され、「孔老二…」と、やがては『水滸傳』が批判され、宋江も論われた。海瑞から始まった歴史に対する再評価、歴史の書き換えは最高潮に達した。それに反して政治的な武闘は収束していった。 その間(七三年)“白巻英雄−−張鉄生”等を生みながら……(蛇足になるが、その頃若く、試験制度の中からやっと抜け出した私は、何か割り切れない感じも抱いた。この事件とは、試験の答案用紙には白紙で出して、その裏に試験制度を批判した文言を記入した:(「プロレタリア人民の子弟は、人民公社や工場で勤労に従事しており、知識偏重の試験問題に答えられる程の時間的余裕はない。この試験制度は、プロレタリア人民の教育に奉仕しているものではない!」)との意を書いた。結果、試験で白紙答案を出した張鉄生は、一躍プロレタリア階級の英雄となった)。 七六年一月、周恩来が死去。同年清明節前(三月末〜四月初)、天安門広場に数十万人が集まり、周恩来を追悼すると同時に、周恩来を追いやったものとして、祖国を滅亡の危機に追いやった者として、四人組を糾弾した。世に(第一次)天安門事件という。この天安門事件に関しては「天安門革命詩抄」 ![]() 七六年九月九日毛沢東が死去。十月、葉剣英が暗躍し、華国鋒らが、王洪文、張春橋、江青、姚文元を逮捕、彼らに対する隔離審査をする。王洪文、張春橋、江青、姚文元のグループは、まとめて、“王張江姚”“四人幇”(四人組)と謂われるようになった。事態は終熄した。 七八年末、文革は正式に否定された。 赫奕たる日は沈んだ。 上記の内容は、中央の政局の動きの概要である。これが一般の庶民と糺弾される側に与えたものは、限りない「批闘会」(批判闘争会)と武闘の惨状である。それは、下記の書や、その他の記録文学に残されている。文字のみならず、映画でも、芙蓉鎮、覇王別姫、陽光燦爛的日子、天雲山傳奇、牧馬人、藍風箏等にも似たような描写がある。とりわけ、梁曉聲の小説や多くの記録を見ていると、“瘋了”“精神状態…”“被逼瘋”“致瘋”“打殘(廃疾となる)”“自殺”等ということばが、しばしば出てくる。これには、何とも言い難い重苦しい気持ちにさせらる。歴史不能再徘徊ということなのだろう。 燦爛之歌詩歌作品へ |
2002. 9. 7起 10.10 10.27 10.30 2008. 1.21 |
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