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                       竹溪閑話

taoqian taoyuanming
****平成十九年(2007年)度****



(平成十八年度(2006年度)はこちらです。)


   
『白毛女』の変遷

  革命現代芭蕾舞劇(革命的現代バレエ)。文革の初期に中国で入手したレコード『白毛女』上海市舞蹈學校演出(中国唱片社)に附いている解説書では、「革命現代樣板戯」(革命現代模範劇) 「八場芭蕾舞劇」となっている。『白毛女』とは「白い髪になった女性」の意で、階級闘争の学習のためのもの。舞台は「抗日戰爭時期」の中国北方のとある農村。貧農の楊白勞の娘である喜兒(シーアル)の闘争の物語。“惡覇地主”である黄世仁に“受尽凌辱”と、いじめ抜かれた女性は、逃れて山に隠れる。苦難のため、髪は白くなってしまった。やがて、八路軍に参加した恋人の王大春が、地下共産党員の指導と村人たちの協力の下、彼女を救出し、“階級仇恨”を晴らす。そして高らかに「太陽出來了」……「太陽就是毛澤東。太陽就是共産黨。」と歌いあげる。『白毛女』は、延安時代にすでに作られていたそうだが、文革期前半では、更に大きな位置を占めるようになっていた。
『白毛女』が始まるやいなや、序幕トップに力強い「解説」の言葉が流れる。曰く:「革命現代芭蕾舞劇《白毛女》是一部活生生的農民與地主階級的闘爭史」と。荘重な出だしである。もっとも、この部分は、現在ではカットされている。
そして最後には「看人間,百萬工農齊奮起,風煙滾滾來。鬧革命,看人間,工農翻了身,當家做主人。永遠跟着毛主席,永遠跟着共産黨。永遠跟着毛主席,永遠跟黨鬧革命。」(着:著)と締めくくられる。農村での階級闘争の典型で、これはこれで感動するように制作されている。文学芸術は、政治の手段であって、それに従属するという『文芸講話』に則った作品である。尤も、文革期には、これさえも批判を受けた。前出の“受尽凌辱”についてである。「最も尖鋭な階級闘争の勇者であり、貧農の娘である喜兒(シーアル)が、地主に“凌辱”されて、山に逃げて隠れるとは、何事とか!」という指摘である。もっともなことである。−−−これは、遠い日の記憶に頼って書いた。
 なお、『白毛女』の現代版は、一部語彙を差し替えている。原作では「農民與
地主階級的闘爭史」というくだりは、「我國農民遭受地主、官僚資産階級帝國主義的殘酷壓迫和剥削」と変わっていった。「地主階級」との闘争史だったものが、更に「官僚資産階級」と「帝國主義」が付け加わり、「搾取」が「抑圧と搾取」に変化し、「狗狼豺」から「狗漢奸」……となっている。文革期の中国の政治的な主張と、現在の主張との変化が明瞭に読み取れる。地主階級よりも外国勢力との闘争が主に変わってきている。
            (原:2004.6.12)(改:2007.1.13)
        *************



  『登幽州臺歌』
                         
  陳子昂の『登幽州臺歌』「前不見古人,後不見來者。念天地之悠悠,獨愴然而涕下。」は、通常次の通りとされている。この「天地」を叙景、眼前の風景とみるが一般の解釈で、献策を登用してもらえない失意の眼差しに映る風光ととる。
             ----------------
  しかし、わたしは、「天地」を「天地間」歴史的な拡がりを持つ空間の意ととるを持っている。それを強調すれば次のようになろうか。
             -----------------

・「今」という時に生きるわたし(陳子昂)は、過去の時代の古人に会うことが出来るわけがない。

・かといって、後世の者に会える訳でもない。

・「今」という現在は永遠に現在(=天地間)であって、過ぎ去った「過去」とも、まだ来ない「未来」とも隔絶されたものだ。わたしは今を生きているだけであり、これを繋げているものは「天地」である。

・無限の天地間を、一瞬に生まれて滅していくわたし---このことを思うと悲しくなって涙が流れてくる。

      ----------------------------------

  まとめると以下の通りになる。

  陳子昂は契丹征討の前線にある幽州臺・薊北楼に登って鬱懐を晴らす。この作品は、『論語』衛子第十八にある『楚狂接輿歌』(「楚狂接輿,歌而過孔子,曰:『鳳兮!何コ之衰?往者不可諫,來者猶可追。已而!已而!今之從政者殆而!』」)を基にしていないか。その場合は意味が異なってくる。

「前不見古人」:さきには、古代の聖賢の徳に会うこともなく。陳子昂は、燕の昭王が天下の賢士を招いて人材を需めた故実を思い、現在はそのような行為が無くなっていることをいう。また、『楚狂接輿歌』を基にして読めば、自分より前に生まれてきて、既に亡くなっている古代の人々に会うことはできない。 ・古人:昔の人。ここでは、幽州臺にちなみ、戦国燕の昭王を比定する。燕の昭王が天下の賢士を招いて富国強兵、人材立国を図ったことを指す。

「後不見來者」:後を見れば、将来を担う者の姿がない。『楚狂接輿歌』を基にして読めば、後を見れば、後の世の人にも会うことができない。

「念天地之悠悠」:天地の悠悠たるさまを思えば。天地、歴史的時間の悠遠さに比べれば、今の人間のちっぽけなことよ。或いは、天地は、永遠に続き、歴史は長く続いて永遠のものに見えるが、その中にいる人間は、前の時代にも後の時代にも触れることはできない。ただ、今この瞬間を生きているだけなのだ。ここは陶淵明の『帰去来兮辞』や『形贈影』(天地長不沒)と、言葉は似ているものの、言いたいことは全く違う。 ・念:深く心に思う。陶淵明は、しばしば、「念之…」として、心の動き、懊悩を表している。

「獨愴然而涕下」:自分独りだけ、愴然として悲しくなり、涙が出てくる。過去や将来とも縁がなく、この世は、ただ自分一人だけなのかと思うと、心が傷んで涙が出てくる。

                          (2007.1.12)

  
駁天地論

  上述の『登幽州臺歌』の「天地論」に、伊勢丘人先生より反対のご意見がありました。わたし自身、同感いたしますので、ご同意を得まして、ご紹介いたします。
      ---------------------------------
 中国人の思考法は、西洋哲学とハッキリ異なるように思います。中国文化の影響下にあったわが国も、同様のように思います。「宇宙」の宇とは空間の意から発した文字ですし、宙とは時間の意から発した意の文字です。「世界」の世とは時間の概念であり、界とは空間の概念の文字です。かつての中国人は、時間と空間を峻別し、時間と空間と人間を峻別しました。ちょうど、陰と陽のようにです。私は、外国語は英語しか知りませんが、スペースもワールドも、どうやら空間の意味しか無いような気がします。時間と空間を、それぞれ、X軸・Y軸として、人間を異動する変数?(私は適当な数学用語の知識がありません)として、中国文化・アジア文化が成立しているのではないかと、私は思うのです。伊勢丘人は、19XX年の生まれで、○○○○在住というのは、まさに、この図式です。西洋式の思考法(宇宙・スペース、世界・ワールド)よりも、アジアの言葉の方が優れているような気がします。
                         (2007.3.4 伊勢丘人先生)
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 同意、同感致します。わたし自身、当時落ち込んでおりまして、ずっと後世の『萬空歌(眞空歌)』の感覚でおりました。
                           (07.3月)

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莫怪蒼生癡

  韶華の『説假話年代』(1999年・瀋陽・春風文芸出版社)の最終章には「廿載(1958年〜1978年)荒唐言,無盡辛酸涙。莫怪蒼生癡,皆因言獲罪。」という詩が出てくる。作者が『紅楼夢』終章の詩「説到辛酸處,荒唐愈可悲。由來同一夢,休笑世人癡。」をもじったものだが、韶華の方が重い。韶華は「大躍進」以降、なお続く反右派の潮流、更に文化大革命の時代での封殺された言葉をいう。「莫怪蒼生痴」のような状況は、いずれの時代にもある。その国のその時代には、その時代の禁忌というものがある。生き抜くためには(韶華は「生存本能」と言っている)タブーに触れてはいけない。
  韶華たちの場合は、「右派」や「反革命」と誤解されるようなことは避けた。やがて時代の空気が変わり、さまざまなことが噴き出してきた。急に事件が起こりだしたのではなく、いろいろな事情で取り上げだしたのだろう。

  現在、我が国でも、国事や各方面の事で多端である。日本では言論の自由が保障されており、思想上の発言や意見表明で罪に問われることはない。ありがたいことである。しかし、人間の営む社会である以上、禁忌は出来てこよう。タブーは衆智であり、個人の力では奈何ともし難い。別段、これは憲法や法律の問題ではなく、生活上の規範・常識であり、社会を生き抜くための智慧であり道徳である。飛躍するが遠くは自然法(生命、自由)で守られるというこれらも、生物、生命の本質と関聯があろう。「流れ」は個人の力量で左右できるものではない。

  閣下、発言は慎重に。言は汗の如きもので、一旦出れば引っ込めることが出来ない。同志、糾明は、情勢の変化を見極め、潮流を確かめ確かめ、群衆運動に乗っかってやるべきなのかも…と。少なくとも韶華はそう教えているように見える。莫怪蒼生癡,皆因言獲罪。
  これに基づいたわたしの詩(大したことはないが)は、こちら
                             (2007.2.4)



    
     又

  大清では「文字獄」と言われ、日本の学校では「いじめ」と謂い、社会では「因縁」「言いがかり」と呼ぶ。マスコミでは「論評」というのだろうか。存亡之機,開闔之術,口與心謀。少し品がないが、本音は、ついつい出るのだろう。吾曹是播種機(=岩波書店=種を播く人)?
                            (2007.2.8)



          
 又又

  歳月歩履匆匆,記憶漸行漸遠,總有一些事情,讓我們刻骨銘心,回首悵然。 (『農業學大寨始末』(湖北人民出版社;宋連生著2005年)、『工業學大慶始末』(湖北人民出版社;宋連生著2005年)の裏表紙のことば)斯くて、文革期の記憶は忘れられてゆく。我等の世代の退場とともに。
                            (2005.秋)
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共同的心願 不懈的鬪爭

  昔の新聞を見た。懐かしい。曾て中国は、日本と手を繋いで、アジアの平和を守ろう、「社会帝国主義」や「覇権主義」から、アジアを護ろう。そのために両国の開明人士は、一致協力していこうと主張していた(写真:1976年3月21日『人民日報』)。
  今とて、平和を願う心に、わたしたちは変わることがない。いつまでも平和でありますように…。
                         (2007.2.9)



           


 現在、我が家には中国の書籍の外に、文革期十余年の『人民日報(中国語)』(写真上)、中国共産党中央委員会主辦の理論政治誌『紅旗(中国語)』、『人民中国(日本語)』、『人民画報(中国語)』、『中国画報(日本語)』があり、更に『北京周報(後、北京週報)(日本語)』は、文化大革命前から改革開放期までの約三十年間分(1965年〜1998年)がある。これらの雑誌は、長い間しまっておいたので、わたしも本当に久しぶりに見た。(この時にわたしが作った詩がこちら

  もし、中国現代史に興味がおありの方で、必要な部分がおありな方がいらっしゃいましたら、コピーなどをいたしましょうか。
                            (2007.3.4)

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沈沈

  ここでは別段、目新しいことを言っていない。中国は古典でも簡体字を使い、今の日本でも古典の多くは常用漢字を使っている。当然、旧字や正字なども別にある場合があり、悩む。ここでは悩んだその一例を挙げる。
  陸游の『關山月』「和戎詔下十五年,將軍不戰空臨邊。朱門沈沈按歌舞,厩馬肥死弓斷弦。戍樓斗催落月,三十從軍今白髮。笛裏誰知壯士心,沙頭空照征人骨。中原干戈古亦聞,豈有逆胡傳子孫!遺民忍死望恢復,幾處今宵垂涙痕。」。ここでは「沈」については、現在日本語表記では「沈」としかできないが、「沈」には次のような変遷がある。「」は、日本側、「」は中国側になる。

しん

shen

しん

shen

 

 
しん

  
瀋陽
しん
ちん

shen
chen

しん
ちん

shen
 

しん
ちん

shen
 
ちん

chen

ちん

chen
沈没

                       (2002(平成十四).11.4)


    


 悩ましいのは簡体字の本の“于”。元字は「於」か「于」か。小さなことでは簡体字の“里”は、「裏」か「裡」か。“烟”も悩ましい。“云”などは文の前後から「雲」か「云」かの判断は出来るが…。中国版「漢字の置き換え」には弱っている。
                           (2007.8.5)

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毛沢東と柳永

 毛沢東の詩詞は、通俗性(口語、俗諺の使用)が高いことは既に指摘されている。しかし革命を担った者としての経歴がそれを問題とさせない。
  彼の詞は屡々豪放詞派と擬せられるものの、私見になるが、歴代豪放詞派との共通の語彙は少なく、北宋の婉約詞派の詞人である柳永詞集と共通する感傷的な、悲しみを伴った美しい語彙がしばしば使われている。
  柳永の使う感傷的で華麗な婉約詞の詞的世界の広がりに、毛沢東自身が魅了されていたのだろう。そういう情緒深い旧時の風情ある世界が好きだったのだろう。もしかすれば、彼は柳永詞をよく読んでいたのではなかろうか。ただ、革命の領袖で、文化大革命では、四旧(旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣)を打破せよ、と紅衛兵に大号令を下して、批判・闘争を展開させた身なので、或いはこっそりと…。
  毛沢東は、恐らく伝統的な中国美が好きだったのだろう。(文革当時の価値観は別として)婉約詞は、伝統的にそれなりの位置を持っており、支持する人もいた。優雅艶麗の世界である。しかし彼は、66年に天安門楼上で、紅衛兵の宋彬彬に対して、“文質彬彬”を否定して、「要武!」と公的な発言をしてしまった。それも政略なのだろうが、豪放詞派のイメージを決定づけた
  毛沢東の作品は政治的な語彙を使うのが多く、その表現内容から豪放詞派と見られても仕方がないとも謂えるが。
                             (2007.3.19)
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ある愛の詩『葛生』、『悼亡詩』

  古詩で、男女の情愛を詠ったものは『玉臺新詠』や『花間集』、その後の婉約詞など多い。ことばは華麗で美しい。しかし、あまり訴えかけてはこない。

  何と言っても、夫婦の愛情は『詩經』唐風の『葛生』に尽きる。  -----葛の葉が覆い茂る墓地で、妻は夫の墓に向かって語りかける:「わたしの愛(いと)しい人、誰とも共にすることなく独りぼっちのあなた(夫)。夏の朝も、冬の夜も、ひとりで眠っているあなた(夫)。やがてはわたしが、お側にまいります。永久(とわ)に。------」『葛生』「葛生蒙楚,蔓于野。予美亡此,誰與獨處。  葛生蒙棘,蔓于域。予美亡此,誰與獨息。  角枕粲兮,錦衾爛兮。予美亡此,誰與獨旦。  夏之日,冬之夜。百歳之後,歸于其居。  冬之夜。夏之日,百歳之後,歸于其室。」
  夫の側からの家庭的な愛情を示すものは、王士モフ『悼亡詩』だ。病で亡くなった妻に「藥爐經卷送生涯,禪榻春風兩鬢華。一語寄君君聽取,不ヘ兒女衣蘆花。』と誓った。夫の王士モヘ妻の霊前で:「子どもには、苦労させない。わたしの妻は、あなただけ…」と、誓う。胸に迫る。心から出て、心に伝えていくことばだ。
  ともに千古の絶唱である。
                          (2007.3.24)
  また、 清・納蘭性コの『浣溪沙』「誰念西風獨自涼,蕭蕭黄葉閉疏窗。沈思往事立殘陽。   被酒莫驚春睡重,賭書消得潑茶香。當時只道是尋常。」も妻の居た頃の生活のかけがえの無さを心に訴えてくる作品だ。
                          (2009.5.28)

  前妻・唐琬が亡くなった後も、再会から四十年たっても、慕い続けた陸游の情熱…。『沈園二首』其二「夢斷香消四十年,沈園柳老不吹綿。此身行作稽山土,猶弔遺蹤一泫然。」。これも特筆に値する。
                           (2010.6.12)

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  坦白從寛

  裏金問題の詩を作った。もっとも、その時、心にあったのは、あの時代の中国。
  1956年、毛沢東は「百花斉放」、「百家争鳴」という政治運動を提倡し、文学、芸術、また、学術についての自由な発言を許し、自由な批判を奨励した。始めはおずおずと、しかし、党と国家への批判や意見は段々と苛烈になり、結果、あまりにも厳しい批判の集中に驚いた毛沢東は、方針を百八十度転換させ、翌1957年6月に「反右派闘争」を発動した。前年に勧められるままに「大放、大鳴」して、批判的な発言をした知識人を取り締まる政治運動が展開されたのである。この57年6月以降に知識人らは「右派」とされ、弾圧された。現代版「六月雪」である。(「百花斉放、百家争鳴」の後、それを抑えた「反右派闘争」は、初めから反対派、批判派(=「右派」)を炙り出すために計劃されていた罠のようなものなのか、それとも「百花斉放、百家争鳴」が予想外の大展開を遂げたため、驚いて抑えるために発動されたものなのか、わたしには分からない)。この冤罪のレッテルは、二十年後やっと、ケ小平によって剥がされた。包青天、海青天、彭青天に続く、ケ青天である。なお、「六月雪」の本来の意はこちら

  我が神州大地(ここでは、日本の意)でも、規模は違うが、同様な花が咲いた。裏金問題だ。「正直に裏金の所在を明らかにしなさい。」と言われて、言われたとおりに報告すると、即懲戒免職。(その罪と罰は当然ではあるが)これでは、この後、もう誰も言わないのではないか?! 幕引きを謀ったのか?「季布無二諾,侯重一言。」 それとも、フランシ−ヌの出現を待っているのか。フランシーヌの場合は、あまりにもおばかさん。…ホントのことを言ったら、オリコウになれない。ホントのことを言ったら、あまりにも悲しい。
         ---------------
  蛇足になるが、『裏金問題の詩』を作るため、「裏金(うらがね)」という言葉は現代語(中国語)ではどういうのか調べてみた。“活動経費(huo2dong4jing1fei4)”だった。これでは詩にならないし、第一、「裏金」の意は“活動”の“経費”!?なのかと…。辞書には悪いことをしたが、少し辞書の記述を疑ってしまった。そのすぐ後、強烈なカルチャーショックが襲った。よく考えれば『芙蓉鎮』の最終場面・文革終焉後の村で、王秋赦が“運動啦!運動啦!…”と言い続けていたが、これは「革命がくるぞ! 革命がくるぞ…」と訳されている。なるほど、現代中国の政治的・文化的状況と日本語の言語生活とは、同一ではないのがわかる。
  そういえば、「…の勉強グループ」をわたしが“…学習班”と(中国語に)訳したら、中国人に目を三角にされた。文革期の“学習班”(思想改造のための学習をするところ)を聯想したようだった。まあ、“五七幹校”も五七指示に因る「幹部の学校」とは言われても、実態は違うし、“無産階級専政”といい、“工作”といい、現代中国語と、(日本語の中の)漢語とは乖離しているものもある。ことばは、政治や文化を反映して、おもしろいものだ。
  後日記:牛承彪先生より、このような意味での「裏金」は“小金庫”と言うと、お教え頂きました。 (2008.3.30)

                        (2007.3.25)
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近藤勇の辞世

  NHKの『その時歴史が動いた』で、近藤勇の辭世が紹介された。彼の行動する姿が映し出され、それに重ねて辞世が出た。感動的である。それで、彼の辞世を本サイトでもとりあげた。「孤軍援絶作囚俘,顧念君恩涙更流。一片丹衷能殉節,睢陽千古是吾儔。靡他今日復何言,取義捨生吾所尊。快受電光三尺劍,只將一死報君恩。」(なお、第四句にあるのは「睢」〔すゐ;sui1○〕字であって、「雎」〔しょ;ju1○〕字は別字。「睢陽城」〔すゐやうじゃう;Sui1yang2 cheng2〕という固有名詞。)
  これの『構成について』では次のように識した。換韻。韻式は「AAABBB」。韻脚は「俘流儔 言尊恩」で、平水韻下平十一尤と上平十三元。このような形式(七言四聯詩)では、このような換韻(平声⇒平声)は普通しない。次の平仄はこの作品のもの。

○○○●●○○,(A韻)
●●○○●●○。(A韻)
●●○○○●●,
○○○●●○○。(A韻)
●○○●●○○,(B韻)
●●●○○●○。(B韻)
●●●○○●●,
●○●●●○○。(B韻)

として紹介した。
どこかおかしいし、律詩ではないので「七言四聯詩」とした。

  後日、このことに就いて、伊勢丘人先生より次のような御教示がありましたので、紹介いたします。
-------------------------------------------------------

  この近藤勇の詩について。彼は辞世の詩として、七言絶句を二首作っていたのではないかと思われることです。
  先ず、押韻形式が律詩のものではないということ、表現形式が律詩ではなく、古詩に多い形式でもないということ、更に、「君恩」という単語が前半と後半の二カ所に見られること、また、前半、後半の四行それぞれが、韻も平仄も絶句形式になっていることが挙げられます。
  近藤の後世の世話をした人たちは、詩文には関心がなく、あまり深く考えず、辞世の七言絶句二首を一詩としてしまったということはないでしょうか。
                         伊勢丘人(07.4.2)

○○○●●○○,(A韻)
●●○○●●○。(A韻)
●●○○○●●,
○○○●●○○。(A韻)
 ------------
●○○●●○○,(B韻)
●●●○○●○。(B韻)
●●●○○●●,
●○●●●○○。(B韻)

--------------------------------------------------------

  確かにその通りだと思います。この近藤勇の辞世を二首の絶句と見れば、問題は解決されます。
                         (2007.4.3)
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燕山夜話』

『燕山夜話』を見た。初版は61年だが文化大革命の初期、文化界が先に攻撃を受けた。この『燕山夜話』は“反党K文”となった。わたしが見ているのは文化大革命が終熄した後、79年に再版が出されたその時のものだ。『再版にあたって』の言葉に「ケ拓同志是萬惡的林彪、“四人幇”一九六六年大興文字獄的第一個犠牲者。……ケ拓同志飮恨而死,迄今已近十三個寒暑了。他以自己的熱血潤澤了新中國的文苑。“血沃中原肥勁草,寒凝大地發春華”。」の文中の 「潤澤」は毛潤芝・毛澤東を聯想し、「文苑」は「文革の怨」と読めてしかたがなかった。いけない、いけない。このような読み方こそ文字獄を生むのだろう。
                    (2007.4.8)
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『陽關三疊』

  今、『陽關三疊』関聯のページをしている。これまでにも何回か註釈したが、お茶を濁してきたので、今回はまとめてみたいと調べた。
  『陽関三畳』は有名で、しばしば、「別れの歌を歌う」「蛍の光」といった感じでつかわれる。(填詞(詞)の三畳構成の長令『陽關三疊』:百三十一字は、暫くおく)ここでの「畳」とは詞(填詞)の用語と共通する「三畳」とは「三畳構成」の意で、通常は唐・王維『送元二使安西』

1渭城朝雨裛輕塵,(韻)
2客舎柳色新。(韻)
3勸君更盡一杯酒,
4西出陽關無故人。(韻)

一●○○●●○○,(韻)
二●●○○●●○。(韻)
三●○●●●○●,
四○●○○○●○。(韻)

の歌い方になってくる。

  これを繰り返すのであるが、どう繰り返すのかがよく分からない。詞学(中国詞学大辞典 浙江教育出版社)や詩学(中国詩学大辞典 浙江教育出版社)をはじめとしていくつかの本を調べたり、北京の詩詞の研究者にも教えを請ったことがある。結果を一口で言えば、諸説あるが十分なことはよく分からないということのようだ。これらをまとめると以下のようになる。


@ 先ず、第二、第三、第四の各句を二回繰り返してうたうという見方がある。

一1渭城朝雨裛輕塵,(韻)
二2客舎柳色新。(韻)
三2客舎柳色新。(韻)
3勸君更盡一杯酒,
五3勸君更盡一杯酒,
六4西出陽關無故人。(韻)
七4西出陽關無故人。(韻)


一●○○●●○○,(韻)
二●●○○●●○。(韻)
二●●○○●●○。(韻)
三●○●●●○●,
三●○●●●○●,
四○●○○○●○。(韻)
四○●○○○●○。(韻)

  これについては、白居易の『對酒五首』第三首「百歳無多時壯健,一春能幾日晴明。相逢且莫推辭醉,聽唱
陽關第四聲。」がある。ここの「第四聲」とは、註にも(今挙げた歌い方での第四番目の句で)「勸君更盡一杯酒,西出陽關無故人。」のことという。そのことを白居易の詩合成してみると「百歳無多時壯健,一春能幾日晴明。相逢且莫推辭醉,勸君更盡一杯酒。」となる。押韻は別として、意味の上では、ぴったりと合う。
 これの詩を聯で見ていくと
      一             
一1渭城朝雨裛輕塵,(韻)
二2客舎柳色新。(韻)
三2客舎柳色新。(韻)
      二
四3勸君更盡一杯酒,
五3勸君更盡一杯酒,
      三
六4西出陽關無故人。(韻)
七4西出陽關無故人。(韻)


一●○○●●○○,(韻)
二●●○○●●○。(韻)
二●●○○●●○。(韻)

三●○●●●○●,
三●○●●●○●,

四○●○○○●○。(韻)
四○●○○○●○。(韻)

となり三畳(三段構成)になる。これが妥当だ。


A 次に、各句をそれぞれ繰り返すという見方がある。(三畳≒数回 繰り返すの意ととる)

1渭城朝雨裛輕塵,(韻)
1渭城朝雨裛輕塵,(韻)
2客舎柳色新。(韻)
2客舎柳色新。(韻)
3勸君更盡一杯酒,
3勸君更盡一杯酒,
4西出陽關無故人。(韻)
4西出陽關無故人。(韻)


一●○○●●○○,(韻)
一●○○●●○○,(韻)
二●●○○●●○。(韻)
二●●○○●●○。(韻)
三●○●●●○●,
三●○●●●○●,
四○●○○○●○。(韻)
四○●○○○●○。(韻)

  しかし、これは以下のように四畳(四段構成)になり、三畳ではない、との反論がある。

1渭城朝雨裛輕塵,(韻)
1渭城朝雨裛輕塵,(韻)

2客舎柳色新。(韻)
2客舎柳色新。(韻)

3勸君更盡一杯酒,
3勸君更盡一杯酒,

4西出陽關無故人。(韻)
4西出陽關無故人。(韻)


B なお、後世や日本では、詞(填詞)の用語の「畳」(…段構成)の意から離れ、「畳」を「繰り返す」の意にとり、『陽関三畳』とは「『送元二使安西』を三回繰り返す」の意にされたようだ。

1渭城朝雨裛輕塵,(韻)
2客舎柳色新。(韻)
3勸君更盡一杯酒,
4西出陽關無故人。(韻)
1渭城朝雨裛輕塵,(韻)
2客舎柳色新。(韻)
3勸君更盡一杯酒,
4西出陽關無故人。(韻)
1渭城朝雨裛輕塵,(韻)
2客舎柳色新。(韻)
3勸君更盡一杯酒,
4西出陽關無故人。(韻)
1渭城朝雨裛輕塵,(韻)
2客舎柳色新。(韻)
3勸君更盡一杯酒,
4西出陽關無故人。(韻)

  これは長すぎて、感激が或いは薄れるかも知れない。それゆえ長さから判断し、「陽關」部分を二回繰り返し

1渭城朝雨裛輕塵,(韻)
2客舎柳色新。(韻)
3勸君更盡一杯酒,
西出
陽關無故人。(韻)
西出陽關無故人。(韻)
西出陽關無故人。(韻)


と「陽關」部分の三疊ができる訳である。


  以上、まだまだあるようだが、これらのことについて、頭書の参考書には細かく出典を挙げてくれているが、残念ながら、わたしは、マイナーなものは持っておらず、原典に当たることができていない。
                      (2007.4.19)
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三五七言』

「三五七言」は詩題ではあるが、様式名でもある。三五七言体詩。填詞 で謂えば詞牌に該るもので、『十六字令』に似ていなくもない。填詞に似た詩体の一。但し、三五七言体の方が古く、嚴窒フ『滄浪詩話』では隋・鄭世翼からとされるが、作品は残されていない。鄭世翼→李白→劉長卿→寇準…と継がれていった。填詞の詞調のように見ていけば、李白のものは「秋風清,秋月明。落葉聚還散,寒鴉棲復驚。相思相見知何日,此時此夜難爲情。」で:

○○○(韻),
○●○(韻)。
●●●○●,
○○○●○(韻)。
○○○●○○●,
●○●●○○○(韻)。

となるが、劉長卿のものは「新安路,人來去。早潮復晩潮,明日知何處。潮水無情亦解歸,自憐長在新安住。」で:

○○●(韻),
○○●(韻)。
●○●●○,
○●○○●(韻)。
○●○○●●○,
●○○●○○●(韻)。

と、平字韻と仄字韻との違い、粘法の有無、対句などの有無で異なる。
両者を比べて表すと:
  李白の三五七言体   劉長卿の三五七言体
○○○(韻), ○○●(韻),
○●○(韻)。 ○○●(韻)。
●●●○●, ●○●●○,
○○○●○(韻)。 ○●○○●(韻)。
○○○●○○●, ○●○○●●○,
●○●●○○○(韻)。 ●○○●○○●(韻)。
句の字数にのみこだわった詩体とも謂え、その点、前出・填詞 とは性質を異にする。この作品は、対句や句中の対を特徴とする。詞調が決まっている『十六字令』等とは異質のものである。

          (原:2006.6.17  改:2007.4.29)
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  アイグン? 条約

 「璦琿条約」とは、歴史で習った清とロシアとの条約だが、ここではその「璦琿」の読みについて考える。いくつかの日本語で書かれた中国史の本では「あいぐん」と仮名を振っている。本当にそうなのか。いつもこれにはひっかかっていたが、漢字表記で過ごしてきた。今回、詩『東亞黎明歌』を作るにあたって、その読みを確かめた。
  問題点は「璦琿」は、「あいぐん」と読むべきか「あいき」と読むべきかだ。現代語(北京語音)では黒龍江省の地名「璦琿」は〔Ai4hui1〕で、現代では「愛輝」〔Ai4hui1〕と書き表す。「璦琿」「愛輝」ともに、日本語の漢字音に換えれば「あいき」になる。

  「琿」字は@〔hui1;き〕と、A〔こん;hun2〕との両者がある。
@前者の〔hui1;き〕は、黒龍江省の地名「璦琿」〔Ai4hui1〕(現・黒龍江省北方の黒河市)で、そこで結ばれた『中ロ璦琿条約』〔Ai4hui1 tiao2yue1〕の読み。
A
後者
の〔こん;hun2〕は、玉(ぎょく)の名で、吉林省にある地名「琿春県」〔Hun2chun1 xian4〕に使われる
「璦琿」は〔Ai4hui1〕については『中俄璦琿條約』〔Zhong1E2 Ai4hui1 tiao2yue1〕『中ロ璦琿条約』という。

  中国語の発音系統と歴史的経緯から見て、『璦琿条約』〔Ai4hui1 tiao2yue1〕は「あいき条約」と読むべきである。「あいぐん条約」とは読むべきではない。

  漢字の旁(つくり)が「軍」になる場合、その読みは基本的に二系統ある。
@「輝」「揮」「暉」の「き系統(-ゐ系統)(-wei系統)」とも謂うべきものと、
A「運」「軍」「暈」「渾」「皸」「皹」「葷」「諢」「ツ」の「-ん系統(−n系統)」ともいうべきものである。
「琿」は@Aの両系統の読みがある。
  
  念のため、条約のもう一方の当事国のロシア語では何と訳されているのだろうか。強い関心をもってWikipediaで検索してみた。英語では「Treaty of Aigun」だ。フランス語では「Traite d'Aigun」だ!オランダ語では「Vertrag von Aigun」!! スペイン語でも「Tratado de Aigun」!!!。これらはすべて「アイグン」系統だ!!!(ショック!)

  あわてて、中国で出版された有名な『中国大百科全書・歴史T』、同『中国大百科全書・軍事』で調べた。あった、あった。『璦琿条約』〔Aihui tiaoyue〕と、第4ページ(写真)に明確に識されていた!!!! 声調符合は附けていなかったが、読者が中国人なので不必要なのだろう。
  中国語のローマ字綴り表記(ピンイン)で〔Aihui〕の〔hui〕の発音(本来〔huei〕と書き表すべきもの)は、日本人には「フイ」(「ホエ」「ホイ」「フェイ」「ホェイ」)と聞こえる。日本語文の中では、中国語音を片仮名表記して「『アイフイ』条約」、或いは、日本語の漢字の音読みで「『あいき』条約」とすべきものである。

  ロシア側の言い方は分からなかった(スラブ文字ばかりで読めなかった)が、もう一方の当事国の中国での言い方が明確になった。中国側は琿条約』〔Aihui tiaoyue〕で、本来「あいき条約」「アイフイ条約」というべきものである。

  これで落ち着いたが、欧米Wikipediaの一連の「Aigun」は、日本語慣用音から順次派生して翻訳されていったものなのか……?
                        (2007.8.18)
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  「吾將此地巣雲松」

李白詩に『望廬山五老峯』「廬山東南五老峯,青天削出金芙蓉。九江秀色可攬結,吾將此地巣雲松。」がある。その「吾將此地巣雲松」の句は、伝統的に「吾(われ)將(まさ)に…んとす」と読んでいる。しかし、語法からこの句の構成を見た場合、この「將」は「まさに…んとす」という副詞の意として使われていない。語法上は、「以」に似た意味の「…をもって」の用法になる。語法上、近い表現は「吾以此地巣雲松」「吾於此地巣雲松」になろう。李白は、或いは「吾(于)此地將巣雲松」の意で、節奏を整えるため「吾將此地巣雲松」としたのかも分からないが…。 @【將+動詞】まさに…んとす。将然形。〔しゃう;jiang1○〕。 A將:【將+名詞】を以て。〔しゃう;jiang1○〕。 B【動詞+將】…もて。〔しゃう;jiang1○〕。 C【將+疑問】はた。〔しゃう;jiang1○〕。 D動詞「ひきいる」。(「将軍」は「軍をひきいる」の意から)。〔しゃう;jiang1○〕。 E軍隊内の階級。(「大将」「中将」「少将」)〔しゃう;jiang4●〕。 それぞれの「將」の用例には、@李白の『酒』に「酒,杯莫停@明・文嘉の『明日歌』「明日無窮老、@劉言史『尋花』「遊春未足春,」、@白居易の『琵琶行』「醉不成歡慘、A頼山陽の『謁楠河州墳有作』「隻手排妖氛』、A現代語だが「
革命進行到底」、B白居易の『新豐折臂翁』「點得何處去,五月萬里雲南行」、C『晉書・列傳・王導』「「我以中州多故,來此欲求全活,而寡弱如此,以濟」、D唐の劉希夷『白頭吟(代悲白頭翁)』に「樓閣畫~仙」、E杜甫は『五首』等がある。
               (2007.11.2)

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銭塘江の流れ

  銭塘江の河道は、唐代では今よりも南側ではなかったろうか。劉禹錫に『浪淘沙』八月「濤聲吼地來,頭高數丈觸山迴。須臾卻入海門去,卷起沙堆似雪堆。」がある。銭塘江の秋分の逆流をうたっている。「頭高數丈觸山迴」での「山」とは、写真(07.10.9)の左側の山の赭山(しゃざん;Zhe3shan1)(蕭山市)と「その対岸にある龕山(かんざん;Kan1shan1)」という。だが、対岸(写真を撮った側(北側):下沙側)には何もない。現代杭州の精図『杭州八区図』では赭山は、上掲写真の通りだが、龕山は対岸(北岸)である写真を撮った側ではなく、写真の赭山の更に奥(南側)に龕山(かんざん;Kan1shan1)ならぬ坎山(かんざん;Kan3shan1)がある。現在の地形から謂えば、北側から順に 1銭塘江 2赭山(しゃざん) 3龕山(坎山)(かんざん)だが、かつては赭山(しゃざん)と龕山(坎山)(かんざん)との間を今の流れよりやや真っ直ぐに銭塘江が流れていたのだろう。北側から順に 1赭山(しゃざん) 2銭塘江 3龕山(坎山)(かんざん)だったのだろう。今の杭州空港(杭州蕭山国際機場)の辺りを銭塘江は流れていたのだろう。これらの地名は、『中国歴史地図集』第五冊 隋・唐・五代十国時期(中国地図出版社)54ページ「唐 淮南道」や、55−56ページ「唐 江南東道」にはない。
                 (2007.11.12)
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日本人にとっての中国の漢詩と、中国人にとっての古典詩

  (別段、統計を取っているわけではなく、勘で書いているが、)どうも日本で紹介されている古典中国詩(旧体詩、旧詩、古詩)には、偏りが激しい。日本人に「代表的な中国の漢詩は?」と尋ねると、或いは次のように答えるかも知れない。

「春眠暁を覚えず」、「床前月光を看る」、「菊を采る東籬の下,悠然として南山を見る」、「空山人を見ず」、「白髪三千丈」、「人生七十古来稀なり」、「白雲尽くる時無し」、「獨り坐す幽篁の裏(うち)」、「国破れて山河在り」……。

これらは、それぞれ素晴らしい詩には違いないが、苦悩に満ちた塵世から大空を悠悠と流れる雲を仰いで……或いは、疲れた心を癒すために苔生した岩陰に……といった感じになろうか。日本に紹介され歓迎された『唐詩選』の編者・李攀龍の影響とも謂えるが、それを受容する日本側の事情もあったろう。アンソロジーは『唐詩選』のみではなかったが、『唐詩選』の「枯淡」が当時の日本人の琴線に触れたのだろう。大胆に謂えば、そこに日本の俳句にも似た共通の感情があったのだろう。

  わたし自身は、これら悟りの境地に至る詩も好きだったが、フランスの詩や日本の明治以降の自由詩に謳われている華麗な心情の世界が更にすきだった。そのような詩は、中国古典詩には無いのか…と尋ね歩いたその結果がこのホームページである。
  たくさんあった。中国古典詩にも、自由な心情を大胆に謳いあげた情熱の詩歌が実にたくさんあった。しかもそれらは中国人の支持を得て、彼等の日常生活(や現在の出版物)に大きな位置を占めている。ただ、それが日本人が思い描く中国古典詩の世界と、中国人がイメージするそれとは大いに異なっていることだ。

  本サイトで広く中国人が愛唱・諳誦しているものを採りあげ、中国の詩詞世界を紹介している所以である。
               (2007.11.25)
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