聖書箇所 [各段落ごとに表示]
はじめに一つの小話をしましょう。
船が沈み始めていました。船長が叫びました。「だれかお祈りできる者はいないかー!?」「私が出来ます」一人の男が答えました。「では祈ってくれ!」そして続けてこう言いました。「残りの者は救命具をつける!急げ、時間がないぞー!」複雑な思いのする話です。でも少なくとも一つのことを教訓として学ぶことができるでしょう。祈ってさえいればすべては済むのか、です。もう一つ。
腕のいい偽札造りがいました。彼はできあがった一万円札を見て、自分でもほれぼれと見入っていました。しかし使ってみたところ、すぐに警察に捕まってしまいました。プライドを傷つけられた彼は取調官に詰め寄りました。「この二枚を比べてみて、いったい、どこが違っている!?」取り調べ官はこう言いました。「違いはまったくないよ。でも君が見本にしたのは偽札だったんだ」
もし私たちが望むなら、良い教会に参加したいものです。今回は良い教会の見本を勉強しましょう。
家族[エペソ人への手紙2章19ー22節]
第一に見本にすべきは家族です。聖書では家族を非常に重要視しています。その証拠をいくつか示しましょう。イスラエルは神の家族という一つの共同体でした。それは12の部族で構成されます。部族は氏族で、氏族は家族でそれぞれ構成されます。たとえばユダ部族→ゼラフ氏族→ザブディ家族のカルミ、その子アカン(ヨシュア記7:17-18)。また過越などのお祭りは家族を単位として祝われました(出エジプト記12:3など)。さらにアブラハム契約を取り上げましょう。通常契約の当事者は神とアブラハム、というふうに考えられていますが、これは間違いです。正確には神とアブラハム家、です(創世記17:7-)。神さまは家族を祝福の単位として考えておられます。あなたが神さまを受け入れますと、あなたの家族全体が祝福されます。初代教会でも一人が信じて家族全体がバプテスマを受けています(使徒16:31-34)。さて家族の一番の特徴は何でしょうか。それはやすらぎ。「ただいまー!」子どもが学校から帰って来ます。お母さんの顔を見て安心します。教会にはやすらぎがまず、必要です。ほっとする時間と空間が、そして人間(ジンカン)が必要です。イエスさまはこうおっしゃいました。
「わたしはあなたがたに平安を残します」(ヨハネの福音書14:27)、
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)。
私たちはやすらぎを得るために愛し合うことをしましょう。愛し合うことは二つの要素を持っています。許しと赦し。前者は人をありのまま受け入れること。もし不適切なことや正しくないことをしているなら、それをその人の弱さと受けとめましょうそしてその人の罪を赦すこと。私たちはこの二つを実行できるためにはたった一つのことを知れば十分です。それは親友が亡くなったこと。W・H・エリオットが名ピアニストであるコルトーの弾くショパン作曲ロ短調ソナタ(例の葬送行進曲が入っているもの)を聴いて大変感動した時に、こう言いました。これは、なんとすばらしい!私はこんな音楽にいままで出会ったことはありません!」コルトーはこう応じました。「私の心の内を分かっていただけましたか。実は今週、親友を亡くしたのです」イエスさまはあなたの親友です(ヨハネ15:13-15)。イエスさまはあなたの罪を背負い亡くなられました。
からだ[コリント人への手紙第一12章12ー27節]
聖書は「見えないものは必ず見えるようになる」、「見えるものは見えないものの実体を表現している」という考えを持っています(マタイ6:21など)。目に見える人間のからだは教会の性質を実によく表現しています。手と足が喧嘩している、妬んでいるなんて考えられるでしょうか。ところでからだの中を流れて栄養を運ぶものがあります。それは血液。型は何?O型でもなく、B型でもありません。キリスト型です。このキリスト型はからだの中を巡りながら二つの大切な栄養を運びます。二つのメッセージと言ってもいいでしょうか。「互いに尊敬しなさい」と「互いに必要です」です。私たちはこれらのことを率直に互いに表現し合うべきです。ただしこのことのためには心が癒されている必要があります。イエスさまがあなたの心を癒してくださいます。さて、私たちが互いにからだの一部分同士であって尊敬しあい、必要としていると認識できるためにはどうしたらいいでしょうか。あなたの賜物・能力を磨いてください。それが自信につながります。ところで、私はついに決定的な「理想的な教会を作り上げるための方法」を見つけました。あなたには興味がありますか。こういうことです。あなたは聖霊さまがあなたに示されたアイディアを受け入れて感謝して実行すればいい。ただそれだけです。聖霊さまは神であって、二重人格者ではありません。からだの各部分に対して相互に不利益になるような指令を発することをなさることがあるでしょうか。どうか心を静めて聖霊さまからたくさん有益なことをしていただいてください。曾野綾子が『いい人をやめると楽になる』という本の中でこういう意味のことを言っています。「くれない度は老人度を表す」。「くれない」とは「ああしてくれない、こうしてくれない」のことです。神さまに愛されているあなたには「くれない」などと叫ぶ必要はもはやありません。豊かに与えられます。これはあなたの中で静かな自信となり、目の前の人に対して素直にもなれ、いとおしくさせてもくれるでしょう。
財産[使徒の働き4章32ー35節]
ここに起きていることはなんとすばらしいことでしょうか。ところで何が原因でしょうか。力でしょうか。内面的な何かがあるに違いありません。それこそ財産。ではそれは何?それはやさしさ。タレントの萩本欽一さんがこういうことを話しています。
小学校6年生の時です。クラスで成績が一番になりました。得意げに帰宅すると、お兄さんに叱られました。「一番になったからと言って、えばるな。2番か3番でいいんだ。1番になると、人が見えなくなるぞ!」。いつもやさしいキンちゃんの顔が浮かぶエピソードではありませんか。
佐藤愛子さんがある夫婦の会話を聞いていて妻に同情しました。でも意外そうだったのは、それに対する彼女の反応でした。「あー見えても主人はやさしいんですよ」。彼女の説明によると、どんなにきついことばを使っても不自由なからだの部分については決して触れないというのです。彼女は身体障害者でした。
私たちはどうでしょうか。まるで身ぐるみ剥ぐように、これでもかこれでもか、というように、根掘り葉掘り聞かないとすまない、とことん追求するということはないでしょうか。だれでも隠しておきたい部分があるのではないでしょうか。知られたら恥ずかしい面があるのではないでしょうか。やさしさとはそのような部分や面に触れないこと。そんなやさしさはどうやって手に入れることができるでしょうか。それはイエスさまとの交わりから。
小津安二郎監督の作品に『お早う』(1959年)があります。小学生の二人の男の子たちが父親に「お前たちはおしゃべりが過ぎる」と叱られます。以来二人ともいっさい口をきかなくなります。子どもなりの意地があります。母親は「いつまで続くかしら」と微笑み、、父親は「挨拶もしない奴があるか」と言いあきれかえります。この映画のクライマックスは愛し合う若い男女二人の駅のプラットホームでの会話です。「お早う」「お早う」「いい天気ですね」「ほんとうに」「あの雲、何かに似ていませんか」「ほんと、何かに似ていますわ」
どこにでもありそうな、ありふれた会話です。でも何か、ほんわかとしたものが感じられませんか。やさしいのです。あたたかいのです。よみがえられたイエスさまが弟子たちに、「お早う」とお声をかえられます。あなたは今朝、イエスさまに「お早うございます」と言われましたか。いかがでしょうか。平凡な挨拶。でもこれが大切。あしたから実行してみてください。あなたの心の耳に、「お早う!」と聞こえるはずです。同時にイエスさまからやさしさを受け取っています。もし私たち一人一人がこうしてやさしさを受け取って集まるなら、やさしさがいっぱいに満ちた教会がそこにはあるでしょう。