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404 祝福は寛容から

聖書箇所 [マタイの福音書7章1ー12節]

 寛容って、御霊の実の中に数えられているものですね(ガラテヤ5:23、24)。イエスさまは「裁いてはいけません」とおっしゃいます。その理由も添えてくださっています。裁くと裁かれるのです。論理学では逆もまた真なり。こう言い換えることができますね。寛容であれば、祝福される。確かに寛容な人は人々から愛されます。裁く人のもとには人々は近付かないのです。もう少し具体的に寛容はどんな祝福をあなたに提供すすのかを見て参りましょう。

あなたの身近な人を変えます

 人格、あるいは人間性の最高峰であり、理想と言えば、イエスさまでしょう。ところで本性を表す、という言い方があります。あまり良い意味では使われないのでしょうが、良い意味でも人が本性を表すときは、極限状態に置かれたときでしょう。イエスさまは崇められた時期もありましたが、だんだん憎しみとねたみの対象となり、ついには十字架で殺されてしまいますが、有名な一つの発言。「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか自分で分からないのです」(ルカ23:34)。何と言う寛容さでしょうか。これこそイエスさまの真のお姿、人間性!

 英国サザンプトンよりニューヨークに向け航海中の豪華タイタニック号は、1912年4月10日午後11時45分、北大西洋上で氷山と激突、翌11日午前2時20分沈没。乗客、乗員2223名中、1517名が死亡する大遭難事故となった。生存者の手記や証言を通して、事件によってあらわにされた人間性の本質を追ってみた。当時最高技術のの成果と英国が誇っていたタイタニック号が、わずか2時間半で海のもくずとなってしまう。また、安全と特権の上に身をおいていた人々が一瞬のうちに生と死の別れ道に立たされてします。こんな光景を誰が予想しただろうか。事件後多くの手記が発表されたが次第に沈没が迫ってくる船内は、はたしてどんな様子だったのだろうか。当時の新聞報道では、「恐るペき衝撃に肝をつぶし、錯乱した乗客は、鉄が砕け、桁が飛び散る大音響の中を、船室からメイン・デッキへ突進した。統制のとれない暴徒と化した群衆は、なだれのごとくサロンから外へあふれ出た」と伝えられた。実情はどうだったのか。生存者の証言は、「報道にはたった一言の真実もない。悪質な犯罪とも言える。事故は造船における人間性の欠如、つまり他人にたいする思いやりの欠如から起こったが、この報道も本質的に同じである」と批判した。婦人や子供優先の規則にならって、ほとんどの人々は乗員の指示に冷静に対処していた。残された船内では、勇気ある行動が多く見られた。船内の電灯が消えないように、最後まで船底のエンジンを動かしていた機関士たち、みんなを励まそうと、あえて元気な曲を演奏い続け、船と運命を共にしていった楽団員たち。一方ボートがただよう暗い海上でも同じ勇気が見られた板切れにつかまり、ようやくにボートに近付いてきた一人の紳士は、もうこれ以上乗せたらボートは沈んでしまうと聞いた時、「結構です。みなさん落ち着いて下さい。神さまの祝福がありますようにと別れを告げて去って行ったという。事件の日は日曜日、夜には賛美歌の大合唱の集会がもたれ、数百人が参加したという。(チャペルタイムズより)

 この話には寛容な人々の姿がそこかしこに見られますが、この寛容こそが本来の、神さまに造られた人間性なのではないでしょうか。しかし、このような寛容が罪人の世界には一般には見られないという現実があります。それだけに私たちがこのことに気付き、寛容を身につけるならば大きなインパクトを与えると言えます。

 朝鮮戦争の直前の出来事です。韓国全土を共産ゲリラが荒らし、その中で孫良源牧師の息子二人を殺害された。牧師はこのとき「私のような罪人の血統でありながら、殉教する息子を下さいまして神さまに感謝致します」と祈り、犯人の特赦を願い、養子にしました。今や息子になった孫戴善の手を握り、「あなたの罪は赦されたんだよ」と言い、彼はただただ悔い改め、涙を流すだけでした。牧師の妻は「よく私たちの息子になってくれましたね」と抱き、歓迎しました。彼はその後釜山の神学校に行き、クリスチャン実業家になりました。

 西方最大の教父と言われるアウグスチヌスは19歳でもう子どもがいたと言われるように、放蕩三昧の生活で母モニカの頭痛の種でした。でも寛容と忍耐が勝利しました。ついに33歳で悔い改め、こう言いました。「神よ、あなたは私たちをあなたに向けて造られました。私たちの心はあなたのうちに憩うまでは平安を得ません」。

 母親だから寛容であり得た、と言えるのでしょうか。かえって母親だから、肉親だから寛容であることが難しいのではないのでしょうか。でも寛容こそが人を変える、のであれば、私たちをぜひとも神さまからいただきたいものです。イエスさまがあなたに対して、あなたが罪を犯しても、失敗をしても、いつも、昨日も、今日も寛容です。このことを思い出してください。


あなたを成功者にします

 成功者ってだれを指すのでしょう。チャンスを生かす人です。アイディアを生かす人です。「今だ!、これだ!」と分かり、そく実行する人のことです。ある人たちは「私はお金がない!」、だから成功出来ない!」と言いますが、それは間違っています。「光あれ!」(創世記1:3-)から世界の物質は誕生して行きました。言葉が発せられた、これは信仰告白と言えます。でもその前に神さまの中でアイディアがすでに生まれています。アイディア、そしてこれを生かす、これが成功者となる秘訣です。また成功者は次々に生まれてくる問題を解決して行きます。成功者は問題があることを決して否定的には捕らえません。問題を解決し、克服した後には、ひと回りもふた周りも大きくなった自分を見て喜びます。問題がある、それは生きていることのあかしです。ところで寛容と成功の関連はどうなっているのでしょうか。寛容は人にチャンスをあげることです。もうお分かりでしょう。チャンスをあげれば、チャンスがもらえます。成功者はこの法則を知っているのです。「与えれば受ける」という法則です。悪い例を二つ聖書から紹介しましょう。

 アドニ・ベゼクは手足の親指をちょんぎられました。「彼は、かつて私がしたことを今は私がされている」と言いました。士師記1章7節ををお読み下さい。

 ハマンはユダヤ人モルデカイを絞首刑にしようとそのための台を作りましたが、自分がそこで絞首刑にあいました。エステル記7章9、10節をお読み下さい。

 逆に寛容な人は人々にチャンスをたくさんあげるので、人々からたくさんのチャンスをもらえます。こうして成功して行きます。どうか常に感謝する生活をして下さい。7章9節以下をお読み下さい。あなたの信じる神さまは良いお方ですよ。あなたに常に良いものをくださいます。いままでもそうしてくださっていたし、これからもそうです。このことが分かると他の人にあなたはいつも寛容でいられます。私は勝利教会という一つの教会を牧するように神さまから委ねられていますが、とても今の立場に満足しています。なぜなら教会員は私を深く愛してくれ、多くの可能性を託してくれ、それゆえにたくさんのチャンスをくれるからです。私も同じようなことができることを常に願っています。

あなたを幸せにします

 幸せな人のイメージって、ありますね。一つは使命感をもって、張り切っている姿、でしょうか。確かに使命感ってすばらしいものですね。なんにでも勇気をもって当って行けそう、って感じ。まさにし・あ・わ・せ。ところで使命感をもって生きているってどんなことをしていると私たちは想像するのでしょうか。きっと少なくない人が、「大きな仕事、誰からも認められるような大仕掛けの働き」とお考えではないでしょうか。それも一つの姿かも知れませんが、ほんとうのところ、ほとんどは実に平凡なありふれたことをして生きることです。

 私は牧師として普段、どんな生活をしているか、ご紹介しましょう。日曜日にはいくつかの教会を周り、日曜説教をします。月曜日から土曜日の間は2ー10人が集まる小集団(聖書を学び、礼拝をします)へ参加、場所は家庭であったり、会堂であったりしますが、毎日巡回しています。同じメッセージを同じプログラムでこなして行きます。でも私にはひとつひとつがとっても意味あることと思えるのです。単純であり、平凡であるけれども。私は幸せを感じます。だれにも使命はあります。それは今、目の前に置かれた仕事です。お母さんはおっぱいをやることであり、会社員は机の上の課題を片付けることです。私たちはさまざまなしがらみに苦しんでいます。使命をもって生きることはどんなことを指すのかを整理しておく必要があるでしょう。

 アガサ・クリスティーの短編小説に『ベツレヘムの星」というのがあります。イギリスの会堂の中に掲げられている一枚の絵『救難聖人』の話です。1000年、2000年と区切りのいいところで神さまは願いごとを特別に聞いてくださると聞いた彼らが2000年を間近に控え、神さまにこう訴えます。「私たちは聖人の位を返上します。地上に戻してください」。いぶかる神さま、でも彼らの訴えにうなづきます。「よし、いいだろう」。こうして地上に戻って来た者のたちの中にペテロがいました。彼は早速屋台を開き、魚とパンを売り始めます。「さあ、安いよ、安いよー。寄ってらっしゃい、見てらっしゃいーーー!」。興味を持った人が「随分安いけど、何か裏があるんじゃあーないんだろうね」「なーんにもありません。ただ買っていただいた後で、福音を聞いてもらいたいんです。でも強制はしませんから、安心してーっ!」。ペテロの生き生きとして姿が印象的です。

 使命に生きる、それは単純な日常を生きることです。私たちはかみしもを脱いではいかがでしょうか。夫である前に、妻である前に、親である前に、会社員である前に、神の子であることを意識してはいかがでしょうか。

 神さまは幼子のようになったあなたにこう語りかけてくださいます。「私はあなたを愛していますよ!」。こう聞こえるなら、あなたはしあわせです。霊的にタッチされました。あなたも神さまにタッチしました。老人ホームのお年寄りたちは「家に帰りたい!」と叫びます。その家は嫁ぎ先ではなくて、実家です。そして「お母さんに会いたい!」と言います。子どもの頃を思い出しています。お母さんに抱かれた頃をなつかしく思い出しているのです。あなたは愛の神さまに抱かれ、そうして生まれてきた、ことを思うべきです。きっとリラックスできて幸せを感じるでしょう。そうして目の前にある事柄を感謝とともに受け入れることができ、それを一つ一つ丁寧にこなして行くことに喜びを感じるでしょう。

 こうしてあなたはあなた自身に対して寛容を身に付けます。大きな仕事をする自分しか受け付けられないのは自分に対して寛容ではないのです。自分に寛容でない人は他者にも寛容ではいられません。どうか自分に寛容であって下さい。「私はこうでなければならない。私はこういう人間でなければならない」と強制をしないでください。神さまの豊かな祝福があなたにありますように。