新規サイト011

323 「穀物のささげもの」
         に学ぶ労働の意味

聖書箇所 [レビ記2章1ー3章]

 ある日の夫と小学校4年生の娘との会話(『朝日新聞』の「いわせてもらお」より)。

 娘「お父さん、日曜日は何するの?」  夫「ゴロゴロする日」 娘「じゃ、土曜日は?」 夫「ゴロゴロする前の日」 娘「え−、金曜日はどうするの?」夫「ゴロゴロする前の前の日だよ」その後しばらく沈黙が続いた。 (広島市・月曜日はゴロゴロした次の日?・40才)

 きっとあたたかい家庭なのでしょう。ほほえましい会話です。私はそう思いつつ、働く日(平日)と礼拝する日(日曜日)のコントラストを見ました。今回は働くことの、労働の意味を、「穀物のささげもの」という儀式から学びましょう。

ささげものは小麦粉でなければならない[1節]

 小麦はイスラエルにおいては穀物の王様です。日本のお米に相当するでしょう。収穫物の中から、すなわち労働の実から一番良いものをささげなさいと勧めています。それは初穂でもあります。聖書には一部分が全体を表すという考えがあります。アダムは私たちすべての人間の代表でした。アダムが罪に落ちたとき、あなたも同時に落ちました。逆に一部が聖められれば、全体が聖められます。あがない主であり聖いお方のイエスさまを信じ受け入れるとき、どんな人も全体が聖められます。パウロはローマ人への手紙の中でこう言います。「初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです」(11:16)。さてもう一度確認しましょう。一部は全体を表すと言いました。あなたが初穂である、良いものをささげるとき、神さまのくださったもの全体が良いものであるという信仰を告白しています。そしてもう一つの聖書にある考え方、それは「同じ秤で測られる」。「あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです」(ルカ6:38)。もしあなたが収入の初穂として十分の一(マタイ23:23など)をささげるなら、神さまはあなたの信仰と気持ちを汲んで、もっともっと経済的に祝福してくださいます。

小麦粉には乳香をそえなければならない[1節]

 乳香は乳香樹の幹を傷つけるとそこからたれて来るもので、非常に高価なものです。エジプトではそれゆえに彼らの神に対してのみ使用されました。エジプトに滞在中にイスラエル人はそれを覚えました(出エジプト30:34、35)。焼香とは神への礼拝行為です。第二義的に、神の前に出る人間が悪臭(罪)を隠すためです。乳香はいまでもオーデコロンなどの原料として使われているそうです。礼拝の中でささげものをしますが、このささげものに香を添えるとは祈りを添えなさいの意味です。ルカの福音書1章10節をお読み下さい。祭司ザカリヤが香を炊いている間、祈りがなされています。祈りの中身は感謝と賛美です。私たちはささげものをするときに、「ありがとう。これは神さまからいただいたものの一部です。見て下さい。神さまのくださるものはなんと良いものなのでしょう」という思いでなければなりません。決してぶつぶつ言ってはいけません。さらに賛美はこのような思いです。「この世界で一番偉いお方は天地の造り主であられる神さまです。私は神さまを心から尊敬しております。従います」(詩篇141:2)。神さまは、このような祈りとともにささげるあなたをご覧になって、あなたの労働をさらに祝福してくださいます。

小麦粉に油をそそがなければならない[2、4-7節]

 油とは何でしょうか。もちろん聖霊のことです。イエスさまは30歳の時に聖霊に満たされました。ゆえに立派な仕事をなさることができました。それは十字架の上で死ぬこと。これは人々に永遠の命を与える働きです。そればかりかイエスさまご自身も高められました(ピリピ2:9-11)。立派な仕事の中身がここに明白です。すなわち自分も高められ、他者にも喜びが提供されるもの。自分は喜んでいるが他者は迷惑である、自分は他者が喜ぶためにはひたすら苦しむのみ、はともに不健康です。第一、長続きするはずがありません。聖霊の油注ぎを受けるとこのようなことを克服でき、健康に働くことができます。不健康な働き方はどのようなものかお話しましょう。まずはその原因です。目的と手段を混同したり、ごちゃ混ぜにしています。私たち人間の生きる目的は、そして働く事の意味は何でしょうか。それは神さまのご栄光を表すこと。そのための手段の一つが働くことです。以前リッカーミシンが倒産しました。トップセールスマンがまもなく自殺をしました。会社の栄光を表すことが彼の人生の目的でした。いや、働くことが目的であったと言えるでしょう。ここに悲劇が生まれました。

 ビリー・グラハムが言いました。「外におけるどんな成功も、家庭の失敗を償うことは決してできない」。イエスさまは「安息日が大切か、それとも人か?」という意味の事を言われました(マタイ12:1-14)。言い換えれば、「組織が大切か、それとも人か?」「規則が大切か、それとも人か?」となるでしょう。もちろん人の方が大事です。人が大事にされるための組織であり、規則でなければなりません。これを分かっていない時に、目的と手段の混同やごちゃ混ぜが起きます。そして悲劇が起きます。どうか神さまのご栄光を表す、すなわち私たち人間が幸せになるための労働、というふうに位置付けて働いて下さい。家庭も同時に祝福されるでしょう。大事にされた者たちの集まりが家庭なのですから。聖霊さまの油注ぎがなされると私たちはこの真理を理解します。

パン種と密を使ってはいけない、塩を使いなさい[11節]

 パン種とはイースト菌。聖書では罪の象徴です。密も同様の意味があります。塩は腐敗防止の意味です。「穀物のささげもの」はお祭りであり、神さまとの祝福契約締結をお祝いするためのレセプションです。私たちはこう言わなければならないのです。「神さまといつまでも仲良くしたいのです」と。これが塩を使う意味です。ところでこれはどのような方法によって可能でしょうか。血によってです。現在は第2章を学んでおりますが、前には第1章、後には第3章があります。当たり前なのですが、大切なことが含まれた配置です。「穀物のささげもの」は決して単独ではなされません。常に血を流す「ささげもの」とともになされました。第1章も第3章も血を流す「ささげもの」について語っています。「穀物のささげもの」はサンドイッチにされています。すなわちあなたが心の中に十字架をしっかりと刻み付けているとき、あなたには新たに魅力的な働きが示されたり、現在の仕事の中に神さまにも人々にも、そして自分さえも喜べるものが含まれていることを悟らされるのです。

 一人の女性の話をしましょう。彼女のお父さんはアル中でした。代わりにお母さんが乳飲み子を抱えて仕事をしました。やがて過労で倒れ、子どもの手を両手に握りしめたまま、息を引き取りました。3歳の弟は病院に運ばれましたが、衰弱が激しく、すぐに亡くなりました。彼女はなんとか助かりましたが、危ういところでした。でも栄養失調にかかっていて生准の弱視を背負わざるを得ませんでした。孤児院に引き取られた彼女は12歳の時に訪れた牧師の説教に感動し、新しい生まれ代わりを経験します。高校を卒業する時、孤児院の一室で膝まづいてこう祈りました。「神さま、私は、私の一生を不幸な人のためにささげます。私を用いてください。私もイエスさまが十字架の上でなさったような働きをしたいのです」。彼女の名前はサリバン。目が見えない、耳も聞こえない、話すこともできない少女ヘレン・ケラーを育てた人です。 十字架を見上げる時に、あなたも「私は人々を喜ばせる仕事をしている」と悟るのです。目に見えるもの、目に見えないもの、さまざまなものが私たちの生活には必要です。あなたはそれらを生み出し提供する立派な仕事をしておられます。