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彼岸録

ときどき、12歳以上推奨。心して御覧下さい。


笑う、という事。 2003年11月27日(木)

他所のお宅の日記を元に適当な考察。

 笑うということが人間の特権であるというのは、これまた真理なんだそうな。伝聞調なのは、もちろん読んだ話であるからで、個人的な心情からは「つまんない」と思っているからなんであるが。南でアガリ。地獄待ちだ!(麻雀だよ)
 人間以外における「笑い」というのは、いわゆる「威嚇」なんであるという。あー、そりゃあそうだ。歯を剥き出しにする。笑いという概念を取っ払ったら、笑い声など奇声以外の何者でもない。猿なんて歯をむき出しにしてフンを投げつける。犬なんて歯を剥いたら非常に凶悪な顔になるじゃあないか、と。たしかに、人の話によく笑う人というのは、おおむね自分のことを話したがらない傾向は、あるようなきがする。会話の流れやその場の雰囲気に負けないように、ニコニコすることで取り繕う。取り繕うなんてもんじゃない。必死の抵抗を試みているのだ。
 ATフィールド(Absolute Terror Field)なんてものが一時期はやったけれども(元気かエヴァ世代!)でも、その「威嚇」を「なごみ」に変えるあたりについてもっと突っ込んでみたら面白いんじゃないかい、と個人的なテーマとして思うのであった。人徳とかモラルとか、なんだかフワフワしたものより、明確な違いから色々広げてみりゃあいいじゃないか、と。

 でも、なんで人は笑うんだろうねぇ。(締め)

p_rev 「キルビル」 2003年11月26日(水)

 なにやら、ふりふりエプロンがあちこちの日記で波及中。いいのか既婚者。

 津田沼で打ち合わせ。ああ、千葉は遠い。

 帰り、水曜は映画が千円で見られるとのことで、津田沼駅前で「キルビル」を見てくる。キルビル、なんか北欧系の名前かいな(いいかげん)と思ったら"Kill Bill"なんですな。ビルをぶっ殺せ。うはは。わっかりやすい。ストーリーもわかりやすければ映画で何を見せるかもわかりやすい。北野版座頭市が「悪いやつをやっつける」エンターティメントとしてわかりやすいのに輪をかけてわかりやすい。こっちはいわゆる復讐劇であるよ。この二作品がほぼ同時に公開されるのも面白いが、結局こういうこと、なんだろうな。

・北野版座頭市
 人を斬る、というよりも人肉を斬っている感じ。斬られた肌がめくりあがって見えたり(あの、野球の超高速カメラみたいな按配)、語らずにわかるところをあえて語らない(これ、小説でも必要だと思います)空気の作り方。要するに、"情"の描写。見ていない人に配慮するが、ラストシーンで人を斬るにしてもな。
 純文学って云っても、充分通じるところが、やはり北野作品の強さ、なんじゃろうなぁ。
・キルビル
 人を斬るシーンなんざ実に趣味が悪い(特に、やっぱりラストなんだよ、ラスト!)非常にショッキングな首や足(あと髪の毛)の撥ね方をするが、ただ、その後味の悪さをうやむやにしてしまうテンションの高さとムチャクチャさがやっぱりエンターティメントだと思うわけで。千葉真一の板前さんだとか、林家正蔵(まだこぶ平か)がチョイ役で出てたりってな細かいところの配役も美味しい。いや、かなりぶっ飛んだ内容ながらも、でも、作る側の妙な思い入れもここまで来ると、あー、気持ちいいにゃー、という感じ。
 いま、ネットなんかでゴーゴー夕張(用心棒。鉄球を使う、日本の女子高生)が人気だけれども、あの美少女ップリだとか残虐性(こんな狭いところで、刀をそういうふうに持っちゃあいけないよ)で「萌え」なんだけれども、オイラはどちらかっちゅうとあのイヤ〜ンな死に方に本意があるような気がするね。

 ……まぁ、鉄球を振り回す女子高生、最高なんだけれども。(しかしなんて名前だ、ゴーゴー夕張)

 「座頭市」と「キルビル」、どっちがいいとはいえないけれども、でもキルビルの続編を見に行くかどうかは、ちょっと微妙だにゃあ。

p_rev.桜場コハル『今日の5の2』 2003年11月25日(火)

 仕事場の隣では塗装工事、家では畳替えでおおわらわ、とせわしない。戸の隙間から漏れてくる有機溶剤の臭いでフイラリフーララ目の前が、真っ白にぃなぁる<(c)ライオンメリィ「ドンキホーテの従者」>、どうだい! どうもせんがな。

・桜場コハル『今日の5の2』講談社、73点。
 あー、なかなか出ないのかもなぁ、と思っていたあずまんが大王系コミックス。一巻モノで終わってしまってはいるが、この系統の「間合い」の持たせ方という点では立派に面白かった。登場するのは小学校五年生で、まぁ、軽いエッチぽさ(と、それに気がつかない男ども)というモチーフで、スレスレのところで読ませるバランスは面白いが。
 まー、ネタ的にも持たないだろうなぁ。意識的に「萌え」を入れた時点でな。これ以上広がらない、という意味では一巻モノで正解だった気がします。

 小学生にしては表情が大人っぽかったり、これを「大人っぽすぎる」と見るか、「大人への階段を上っているんだ」と見るかは、これはみなさん、御気の済むままに。金銭的に余裕があったら、買ってみてもOK。

フラッシュバック 2003年11月24日(月)

 先日の飲みの席で「裸エプロンというのはあるが裸割烹着というのはどうか」という話題があったことを急に思い出した。

 裸割烹着、か。

 ……和服、だよな。もしくはニットだろうか。(冬と湯気のイメージ)うーん。割烹着。給食を配膳する小学生。あー、古い記憶だけどそっちのほうが思い浮かぶ。給食当番は一週間使った割烹着を、家で洗って月曜日にまた次の当番へ引き継ぐのである。そう、思い出した思い出した。
割烹着で画像検索したらこんなのに行き当たったが(誰だこれは)、でも、そうか、カジュアルっぽいのでもいいんだな。
 で、話を戻す。

 裸割烹着、である。

…………うーん。
 やっぱりエプロンのひらひら感、なんだろうなぁ。裸エプロンの勝ち。裸割烹着は、なんとも寒そうだ。

 ※なおGoogleにおいては、裸エプロンで7240ヒット、裸割烹着で454ヒットした事は追記しておく。

 裸エプロン、圧勝。

今日のニュースより 2003年11月23日(日)

 勤労感謝の日。部屋の整理に費やす。

 ところで、色は変えてないけど時々リンクを張ってるって、気づいたかしらん。

■ 食べてはいけない植物

 ホトケノザはホトケノザじゃなかったんだねぇ。こういうのって、野草取りのおじいさんおばあさんは間違えないのか。にわか山歩きファンとか。

■ ファミコン生誕20周年記念人気投票

 やっぱりこうなるのか。DQIIIに関しては文句がない。ぼうけんのしょが消えたときのあの恐怖感も、オーブを全部集めてさてバラモスを倒そうかいといったときにぼうけんのしょが消えてホッポリ出したのも、今となっては良い思いでです。嘘です。ロムのバックアップ電池は死ぬまでライバルでしょう。
 なお、マリオと17票差、というのがなんとも広範囲に統計を取ったみたいで非常に良いと思った。FCゲーマーだったオイラとしては、ロックマンやがんばれゴエモン! なんていうアクション系列(敢えてシューティングとは分ける)がランクインしていないのが衝撃だったり。あでも、掲載されている30作品中、やっていないゲームは8つか。おいらも偏っているかもしれない。

横浜へ行った。 2003年11月22日(土)

I went to Yokohama. (↑わかりやすい)

 どうでもいいはなしだが、電車内での英語アナウンスのときに"Soon we'll arrive to Yokohama."とかなんとか(適当)ちゅうアナウンスが入るが、あのときのYokohamaのイントネーションが日本語と微妙に違うのは解せねえ。
 ……と思ったけど、「ニューヨーク株価」のニュウヨ−クだけ"New York"発音すると違和感が残るのと同じか。紐育。ちゅういくかぶか。ちゅうかないぱねまみたい。古いな。島崎和歌子か。10年前だ。

 遠い目

 さておき、緋川小夏さんのリアロマ出版記念パーチーにいってきた。駅すぱあとの託宣によれば一時間強とでた。三鷹発吉祥寺経由井の頭線渋谷経由横浜経由根岸線石川町。ドンガバチョ。
 そうか、特急だの急行続きだのだから一時間強なのだ。渋谷で迷い、なかなかつかない東横線にハラハラしつつ、多分頑張って歩いて五時ジャストくらいだったろーか。結局二時間かかって善隣門。カピさん、緋川さん、さとさん、やす泰さん、佐藤yuupopicさんなど。場所は東園。
 まー、なんだ。美味しかった。御馳走様でした。
 色々こちらこそハッパをかけられたりして、これからも色々と実践してみようと思いますですよ。

 そういや、数日前に解禁になったボジョレーヌーボーも飲んだ。普段、自分からは進んでワインを飲もうとは思わないけれども、あー。そうかそうか。
 お酒なんだけど、果物の新鮮さが残ってる感じ。
 なるほどねぇ。確かにこういうのが好きでたまらない人もいるだろう、と思う。思ったんだったら。

(補足)
 中華街のネオンはなんだか気持ちがいいのである。病院の上の赤いランプも新宿の広告ネオンも好きでは無いけれども、中華街のネオンは――

 そうか。
 看板の中に、人間がいないのだ。

 以上、補足的今日の発見。

六〇〇文化芸能研究会(2) 2003年11月20日(木)

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 さて、夏の『末広亭篇』から第二段は見世物小屋である。オイラの場合は例えば外骨の弟子だった朝倉無声の『見世物研究』から始まって(いまだったら、ちくまの学術文庫に入っていたはず)、ついぞ最近江戸開幕400年とかで江戸文化ブームの煽りだかなんだか、平凡社の別冊太陽123「見世物はおもしろい」、もしくは見世物の紹介サイト(最近、興行社側からの要請でサイトが無くなってしまい、非常に残念無念鳩胸ン)など色々見たわけだが。どうも今年で最後といい続けてずっとやっているようでもあり、芸人さんの年齢が全くわからなかったりと、確かに「今年見なかったら来年は無いよ」的なニュアンス紛々なのである。幸い六〇〇なんてぇ集団もあることだし、みんなでいけば怖くない風情。ちゅわけで花園神社に集合、本日二の酉でありんした。都合四名、の人々である。

 二の酉の花園神社を巡る。この熊手というやつ、実はけっこうアレだよな。毎年毎年の発展を祈って毎年ちょっとずつ高いのを買っていく仕組だというのを聞いたコトがある。ので、おそらく発展しないであろうオイラに関しては、毎年毎年追徴税が加算されるようなもので、買うのを控えておったのじゃが。

 詠理:あ、じゃあこのコワイの一つ下さい♪

 そういって取りあげたのは、熊手に注連縄、注連縄の輪の中からおかめがこっそりと顔を覗かせている意匠のものである。大きさは30センチ程度と、一番小柄だったように思う。
 でも、この注連縄の藁の中からこっそりと覗くさまが、アレだ。よく言えば深窓の令嬢。悪く言えば輪入道。あ、輪入道の画像、あった。すごいよなー。夜遅く部屋に帰ってこれに暗闇から迎えられたら、安心するのだろうか。腰を抜かすのだろうか。

店員:3000円です

 くわっ。確かに腰を、抜かした。
 さて、メインエベントである。一度神社から出て、正面から入りなおす。拡声器のガラガラ声の方向に歩いていくと↑のような看板に出っくわす。御題は見てのお帰り、ゾロゾロと小屋の中に入る。中は一方通行になっていて、延々と繰り返される出し物を見て、見終わった人が出口で料金を払って出て行く。流れ作業興行。あー、なるほど。こういう営業スタイルも、悪くない。

 箱抜け奇術→暗黒の男(前半分しかスーツがない。鎖を鼻から口へ通してしごく芸)→犬の曲芸(新人加入のため、三匹が一人一芸しか出来ない)→双頭の子供(マジです)→ニシキヘビの魔術(魔術?)→蛇女(これこそエンターテェメントだ!)→火吹女……といったところで暗黒男登場なので終演。あれ、よくよく考えると順番が違うような。まぁいいか。

 別件で思い出した。例えば、ヒーリング(たわけ!)のジャンルとして読経のCDが売られているけれども、これ、音源として収録されたからといって効力が減るものだろうか。今も図書館で借りてきた「天台声明 金剛界曼荼羅供」を聞いているが、はたして、こういうものは媒体の質が上がれば上がるほど、それだけ声や言葉の力を確実に受け取れるわけなのである。
 例えば、昔は江戸からそう簡単に伊勢参りも出雲参りもいけなかったわけで、貰ってきたお札が伊勢神宮本体と同じ位の効力を持つ。これ、近所の八幡宮なり神明社なりに行っても、御神体はお札一枚なんてコトがあるのと同じで、情報伝達システムの発展とライブ感、というのは別の意味で乖離してきたといえるわけよ。ミウジシャンのライブをブロードバンドでリアルタイム公開、これもまたリアルではあるが、ただ、野球選手をテレビが円でアップに見るのと、東京ドームの三階席で豆粒みたいな後藤を見るのとの違いみたいな感覚である。

 と、感情移入や共感での観賞、というのが日本の観賞の仕方(主観)だとすれば、フリークスによる異世界としての「客観」をいち早く売り出したのが見世物小屋という興行だったと考えてもいい。
 いまだったら人権侵害だとかで非難轟々(になるらしい)のタコ少女やら犬娘、蜘蛛女なんてきまづいのはもうやらないのかしらん。やらないんだろうな。もう。ただ、これこそ異世界のライブ感だよな。TVで作る異世界のはいかにも本物っぽい嘘っぱちだけれども、見世物小屋は偉大なるフェイクによるリアリティーである。つまり、ドラマがリアリティーを持ちながらあくまでもドラマであるところに観客が安心するんだよな。だからこそ、「あのゲイノウジンのギャラはいくらかな」だとか「今回の映画のワイヤーアクションは最新の技術を――」なんてのが売りになってしまうわけで。そういうことだ。
 なので、この見世物小屋ってなジャンルはこれからはやるような気がするね。蛇食い女でも、もっとムチムチ系の若いおねーちゃんが白装束でやったりなんかして。
 巫女モノに継ぐ萌え産業のような気がしますがどうでしょうお客さん。

 ……と思ったら唐沢なをきが漫画にしてましたな。見世物小屋女子高生。そう、こういうのだよこういうの。(←馬鹿)

びっくりダモクレス 2003年11月18日(火)

 仕事場の隣で電気工事なので落ち着かず、午前中はぷらっと買い物に出かける。柳瀬尚紀vs山田俊雄対談集『ことば談義 寝ても窹めても』(岩波書店)をBOOKOFFで購入。お二方とも日本語の玄人。ホクホクしてじっくり読むことにする。

 で、午後仕事。Nung−Khaiを起動すると、なにやら初っ端から警告である。
 ハードディスクの残り容量が残り4.9Mしか有馬温泉。

 なんですと!

……いや、おかしい。

 Nungのハードディスクは70Gある。ところが、オイラは容量よりもCPUの操作性に重視をおいているので、基本的に要らないデータはおかない、のである。で、その都合、一昨日には20G強、しかデータは入っていないはずなのである。

 なんじゃこりゃ。
 ウィルスか!?

 Norton Anti-Virus2004を先日購入したばかりだ。大枚はたいて2001より役立たずでは目も当てられない。
 ……そうか!
 ……経費で落としたからか!?
 ……考えないことにしておく。

 パソコンの意志のままにネットのキャッシュを削除し(299Mあった!)、要らないアプリケーションを削除して、それでも67Gある。
 おかしいですよ、奥さん。
 こうなったら手作業。Cドライブのフォルダのデータ量をプロパティからスキャン、で、異常に重いフォルダを暴いていくしかない。
 ありました。
 UNITE MOVIE内部(45.4G)
 ……Σ(−−;

 えーと、わからない方はネットに堪能な方に聞いてみてください。別に聞いたから殴られるとかさげずまれる、という事は無いと思いますが、ただ、オイラは馬鹿にされるに違いない。

 で、完結に申し上げますと。
 半ば壊れたデータを無理に加工しようとしたために、とんでもない容量のカスが発生したと。ので、その45Gの偉大なるカスをゴミ箱に放り込むと、あっという間に一件落着だったのでありんした。

 教訓:海外で拾った動画に、気をつけよう。(←馬鹿)

rev.緋川小夏「季節はずれの岬のまちで」(後編) 2003年11月16日(日)

 前回までのあらすじ

 緋川小夏「季節はずれの岬のまちで」を面白く読んだが、異変に気づいた。

++++++++++++++++++++++++
 で、その異変なんですが(単刀直入やなオッチャン! そこがあーたのええとこや。やかまし)。

 なんで違和感なく読めてしまうのだろう。

 簡単に云ってしまえばそういうことなのである。
 リアルロマンスはリアルじゃないロマンスだ、と前回書いた。つまり、男性用のエロ小説が男の欲望本位なものなわけで、女性にとってみれば「そんな都合よくいくかー!」という感じなのだろうと思う。逆に、拾ってきたレディコミなんて読むと、なんだこの茶道の宗家で製剤会社の御曹司、って。で、胸板が厚くて(大学時代はラグビーやってました、なんて)精力絶倫、自分とこの精力剤で私を今日も眠らせないの♪ なんてぇのが乗ってしまうと、男としてはほほーう、これはこれはなんとも生活観のハッキリしたロマンスで、なんて思ってしまう。あと、単身赴任の夫の留守に、義理の弟が! なんてのも。ああこりゃあ、実際に妹がいる人間が妹属性のエロにはまらないのといっしょだな、と思うわけですが。どうも話がずれるな。ずらしてるのは俺ですが伺か。

 と、不思議に思ったので、この本に収録されている他の作品を読んでみる。

 ――出た。

 比較読解。第二回リアルロマンス大賞の受賞作を読んでみる。

 主人公の私は平凡でそこそこ裕福な家で暮らしていたが、高校生卒業のときに不慮の事故によって両親を失い、天涯孤独の身になる。家を売って、内定していた工務店で働くようになるが、当時付き合っていた男(工務店の取引先の人)とも別れたところで「先生」と出会う。まぁ、本編はこの「先生」との痴情なんであるが、この先生がものすごい。日本の中世文学の教授で合気道の師範で、書道の大家なんである。

 ポカーン。

 で、相思相愛で「私」は先生と結婚する。<先生は「美佐都も自分の世界を持ちなさい」と言ってくださり、私は料理とお茶とお花と着付けのお教室に通うようになった>なんてあるとおり、不幸な「私」から一点、何不自由なく生活する「私」。

 だう〜ん。

 でまぁ、その間にごくソフトなMがはいり、華道の先生が、実は昔「先生」に捨てられた女だったりする。別に女同士のいさかいもなく、ただ「私」の優越感だけ浮き彫りにされる。お仕置きもエスカレートして、幸せなまま、幕。

 …………。

 じゃあなんだよ。主催者側が求めていたものって、単にレディコミの代用品としての「文章」だったというわけか。小生は、少なくとも六〇〇に関しては、他の表現手段の後追いをするような小説を書かせる気は、ない。映像をそのまま文章化すりゃ陳腐だし、レディコミと同じコトをやらせたら、映像のほうが脳に響きやすいもの。それだったら、敢えて小説でやる必要はない。(※)

 受賞作のような突拍子もない(ながしろ個人の感想で言えば、どうしよーもない)作品があるという事は、つまり緋川視点が達観しすぎていたのが最大の敗因であると思う。ノスタルジーはノスタルジーとして、現在はしっかり男を受け止めている、なんて、きっと中心読者層には「わかりきった」ことなのだろうな。そういう意味では、なんか現実から離れられなくって醒めてしまう部分もあるのかと考える。
 一方、某Qでもこっそり書いたけれども、結局ノスタルジーは美化されて当然だから、非常に共感者を選ぶ。で、あまり共感を得られない読者にはとっとと飽きられてしまう(※2)。
 出版社からしてしまえば、例え読者が馬鹿でも、売れる層に向けて本を出さなきゃならないわけで、なぁ。要は、小説が求められていなかったのである。この結果だけ見ても、濃度の差はあれど、やってることは扶桑社もフランス書院もかわらないよなぁ。まだ、F文の方が、エロの自覚がある分、品があるかもしれない。ともあれ、視覚世代に小説を読ませるのは本当にムヅカシイのである。小説書く側も映像や漫画の技法をそのまま持ってきちゃうし。

 ともあれ、今回に関しては緋川さんにとって非常に不幸な結果だったんじゃないかなぁ、と考えるのである。R−18にも応募されていらっしゃるようだけれども、周りに実力があるんじゃなくて、おそらく筆の上だけでも淫乱女になれてないんだろうなぁ、というのが結論。(※3)
 緋川作品に関しては男性であっても共感できるところがあるから、一読してみたらどうかヤマさん。(←誰だ)

 ……とまぁ、何を書けば売れるかてなところまで、色々考えた、と。

 ※1:ただ、こういうレディコミチックなものが程度が低い、とは思わない。浅川マキと一青窈を比べてどっちのレベルが高いなんて云えますか。越路吹雪と戸川純を比べて、どっちが高尚だって云えますか。ただ、緋川作品のほうが明らかに大人だし、ずっと小説としては深い。

 ※2:お陰で、某Sという作家の作品をある時点からぱったり読めなくなった。作品名は『麦の道』なので各自推測のこと。『麦の道』以前の作品は、実は全部ある。(汗)

 ※3:念のため。レディコミの延長としては大賞受賞作は受けるのかもしれないが、小説としてはクズである。これだったらうちの黒に書かせたほうが、まだ幾分かいいに違いない。

rev.緋川小夏「季節はずれの岬のまちで」(前編) 2003年11月15日(土)

「後になって、『私莫迦だなぁ、なんであんなやつと付き合ってたんだろ』と思っても、そのときだけでも夢を見せてくれる男がいいんだよ」
 ※ この方と飲んでいたときの発言。


 知り合いの作家さんである緋川小夏さんの短編である。扶桑社文庫のリアルロマンスベストセレクション「愛のかたち」に収録されており、これはなんだ、そういう公募があったのだろうな。そこでの佳作セレクションである、と。

 さて、と。ずいぶん前の日記でも触れたのだが、じゃあ女性の読むロマンスってなんだよ、という。例えばフランス書院(最近は芸風が広がりましたな)のあの黒表紙の文庫、あれに出てくる「口では嫌がってもカラダは掃除機」、という『便利な』女性は男性の欲望でしかなかったり、同じくフランス書院のラピス文庫なんつてたら、やおい関係でも結構濃い目のホモホモでやんして嗚呼、こゆのも結構確実に売れてるんだな、という実情もあったりして。あのなんですか。ホワイトハートだの角川ルビー文庫の隣にラピス文庫が平然とおいてあって、小説好きの小学生のおにゃのこがうっかり腐女子ロードに参入する魔の口はしっかり開かれていたりなんかしちゃって。第一、同じF文でも美少女文庫(旧・ナポレオン文庫)よりもラピスのほうが置いてあるもんなぁ。店に。小学校高学年の娘さんがいたら、ちょっと気をつけてもいいかもしれない。などと。

 閑話休題。

 さて、リアルロマンスとは、[リアルならざるロマンス]である。まー、そゆいみでは日本版のハーレクインとでも理解しておけばいいかしらん。つまり、年齢層が二十代後半以降の女性で、なんかカッコのいい男がいて、恋に落ちる。愛してなきゃ体なんか開けない、いや、体がOKってことは愛してもいいのかも、みたいな逆転も含めて、女性の「ロマンス」なんだろうと考えるアメリカだとハーレクインなんて一群がありますな。ともあれ、この辺の作品をロマンスと呼ぶとする。
 で、緋川作品。コンピューター機器の展示会で「偶然」知り合った男と恋に落ち、今は男に組み敷かれている。組み敷かれているのに、最中に、ふと昔の、岬の町にいた頃の彼氏である「いっちゃん」のコトを思い出す。お互いにクラスの輪が苦手同士で仲良くなって、成り行き上、彼氏彼女の事情が出来る。一匹狼だからっていっちゃんはいい男であったために私(涼子)は女性陣の壮絶なイジメを受ける。授業を抜け出して、使われていない海の家やシーズンオフの土産物屋の倉庫でセックス三昧なんて幸せな日々を送るも、いっちゃんの赤毛のイタリーにより涼子は妊娠、その他家族の諸々の事情もあって別れた、と。この辺りの回想シーンが描写的な見せ所。淡白ではあるけれども絶対に崩れない描線があって、それがノスタルジーの上で力強く生きている辺り、むっちゃ面白いのである。
 さて、と。これはオイラの私見であるが、恋愛の現場なぞはスタンダードでいい、と思っている。これを「ありきたり」と評する面々もあろうが、「ありきたり」であって当然なんだと思う。作品での「若さ故」の色々を見ていると、やっぱり人間である以上必ず通る道は誰も同じなのでは無いかと思う。そりゃー男は阿呆ですので、ナカダシ勇者を尊敬したりするところは確実にある。(現に、ナカダシというジャンル自体が売りになっているアダルトの企画がたくさん在るわけだし)けれども、そういう阿呆男に憧れを抱いている「私」の姿も、作者はちゃんと書けている点に注目したい。そのために、今リアルで、私の中に埋まっている「男」がいる。「私」の視線はこんなだ。

 (いっちゃんか……)
 私は男の体の重みを全身で受け止めながら、岬の町で過ごした遠い日々の出来事を静かに思い出していた。
(P119)

 「その声を聞きながら私はいっちゃんからはぐれてしまわないように、背中にまわした腕に精一杯の力を込めた。(P128)

 昔の私にとっての男は<はぐれないように>すがるものなんだけれども、今の私にとっての男は「受け止める」ものであるところに、作家自身の主体が現れる。男なんざ何時までたっても阿呆ですので、エラソーにさせておけばよろしい。それを受け止めて自分の言うこと聞かせるのが女性の強さだし、だからこそうまくいくんじゃん、というと参議院のせんせえにに打ん殴られそうですが、でもしかし、そういった若さ故の成熟してしまった「私」は思い起こしてしまう。しがみついていないと跳ね飛ばされそうだった「男」というものが、今ではその重みを受け止めながら、別のことまで考えちゃうという(笑)この実感一つ一つが大した質量で迫ってくるとですばい。――ただまぁ、いっちゃんはかっこよすぎなんだよなぁ。小生なんぞがニョショウを後ろ抱きにして口説いても、あとで「心臓バクバク云ってたよ」なんてメールが来ちゃあ、目も当てられませんで。

 長くなったので、続きは次回。

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