さて、夏の『末広亭篇』から第二段は見世物小屋である。オイラの場合は例えば外骨の弟子だった朝倉無声の『見世物研究』から始まって(いまだったら、ちくまの学術文庫に入っていたはず)、ついぞ最近江戸開幕400年とかで江戸文化ブームの煽りだかなんだか、平凡社の別冊太陽123「見世物はおもしろい」、もしくは見世物の紹介サイト(最近、興行社側からの要請でサイトが無くなってしまい、非常に残念無念鳩胸ン)など色々見たわけだが。どうも今年で最後といい続けてずっとやっているようでもあり、芸人さんの年齢が全くわからなかったりと、確かに「今年見なかったら来年は無いよ」的なニュアンス紛々なのである。幸い六〇〇なんてぇ集団もあることだし、みんなでいけば怖くない風情。ちゅわけで花園神社に集合、本日二の酉でありんした。都合四名、これらの人々である。
二の酉の花園神社を巡る。この熊手というやつ、実はけっこうアレだよな。毎年毎年の発展を祈って毎年ちょっとずつ高いのを買っていく仕組だというのを聞いたコトがある。ので、おそらく発展しないであろうオイラに関しては、毎年毎年追徴税が加算されるようなもので、買うのを控えておったのじゃが。
詠理:あ、じゃあこのコワイの一つ下さい♪
そういって取りあげたのは、熊手に注連縄、注連縄の輪の中からおかめがこっそりと顔を覗かせている意匠のものである。大きさは30センチ程度と、一番小柄だったように思う。
でも、この注連縄の藁の中からこっそりと覗くさまが、アレだ。よく言えば深窓の令嬢。悪く言えば輪入道。あ、輪入道の画像、あった。すごいよなー。夜遅く部屋に帰ってこれに暗闇から迎えられたら、安心するのだろうか。腰を抜かすのだろうか。
店員:3000円です
くわっ。確かに腰を、抜かした。
さて、メインエベントである。一度神社から出て、正面から入りなおす。拡声器のガラガラ声の方向に歩いていくと↑のような看板に出っくわす。御題は見てのお帰り、ゾロゾロと小屋の中に入る。中は一方通行になっていて、延々と繰り返される出し物を見て、見終わった人が出口で料金を払って出て行く。流れ作業興行。あー、なるほど。こういう営業スタイルも、悪くない。
箱抜け奇術→暗黒の男(前半分しかスーツがない。鎖を鼻から口へ通してしごく芸)→犬の曲芸(新人加入のため、三匹が一人一芸しか出来ない)→双頭の子供(マジです)→ニシキヘビの魔術(魔術?)→蛇女(これこそエンターテェメントだ!)→火吹女……といったところで暗黒男登場なので終演。あれ、よくよく考えると順番が違うような。まぁいいか。
別件で思い出した。例えば、ヒーリング(たわけ!)のジャンルとして読経のCDが売られているけれども、これ、音源として収録されたからといって効力が減るものだろうか。今も図書館で借りてきた「天台声明 金剛界曼荼羅供」を聞いているが、はたして、こういうものは媒体の質が上がれば上がるほど、それだけ声や言葉の力を確実に受け取れるわけなのである。
例えば、昔は江戸からそう簡単に伊勢参りも出雲参りもいけなかったわけで、貰ってきたお札が伊勢神宮本体と同じ位の効力を持つ。これ、近所の八幡宮なり神明社なりに行っても、御神体はお札一枚なんてコトがあるのと同じで、情報伝達システムの発展とライブ感、というのは別の意味で乖離してきたといえるわけよ。ミウジシャンのライブをブロードバンドでリアルタイム公開、これもまたリアルではあるが、ただ、野球選手をテレビが円でアップに見るのと、東京ドームの三階席で豆粒みたいな後藤を見るのとの違いみたいな感覚である。
と、感情移入や共感での観賞、というのが日本の観賞の仕方(主観)だとすれば、フリークスによる異世界としての「客観」をいち早く売り出したのが見世物小屋という興行だったと考えてもいい。
いまだったら人権侵害だとかで非難轟々(になるらしい)のタコ少女やら犬娘、蜘蛛女なんてきまづいのはもうやらないのかしらん。やらないんだろうな。もう。ただ、これこそ異世界のライブ感だよな。TVで作る異世界のはいかにも本物っぽい嘘っぱちだけれども、見世物小屋は偉大なるフェイクによるリアリティーである。つまり、ドラマがリアリティーを持ちながらあくまでもドラマであるところに観客が安心するんだよな。だからこそ、「あのゲイノウジンのギャラはいくらかな」だとか「今回の映画のワイヤーアクションは最新の技術を――」なんてのが売りになってしまうわけで。そういうことだ。
なので、この見世物小屋ってなジャンルはこれからはやるような気がするね。蛇食い女でも、もっとムチムチ系の若いおねーちゃんが白装束でやったりなんかして。
巫女モノに継ぐ萌え産業のような気がしますがどうでしょうお客さん。
……と思ったら唐沢なをきが漫画にしてましたな。見世物小屋女子高生。そう、こういうのだよこういうの。(←馬鹿)