私は書くことで世界を正しく認識している。(どこだかの万年筆のコピーより)
ずびずばー。ながしろです。
いや、また新宿で打ち合わせのあとずいぶんあるいて、東急ハンズから京王デパート丸善、小田急デパート伊東屋とめぐってウハウハしていました。いいよねいろいろあるよねまんねんひつ。トランペットをほしがる黒人の子供の顔で見ていたら、店員さんが試し書きをさせてくれました。うん。いい辷り、いい値段。 一回買ったら10年でも20年でも使うものだから、ある程度の出費は覚悟していますのよ。それゆえに、選ぶプロセスというのがすこぶる楽しい作業なのだけれども。
で、まぁ、冒頭に戻るのだわ。 書くことが世界を正しく認識する手段なのならば「創作すること」=「世界を正しく認識する」ことなのだろうか。
私は書くことで世界を正しく認識している。
論点がいくつかある。 ・己の主観を記述することで、主観的認識を具体的に示す。 ・ということは、書くということは、リアルを書くということなのか。 ・この場合における「正しさ」とはなにか。
とりあえず「書く」という行為が自己への認識になる、という点。小生、賛成でも反対でもないけど、言語をあやつって伝達の手段とする、というのがいかに難しいか、ということはよくわかります。本当はコミュニケーションに言語などつかわないほうがいいのだと思う。
なぜならば、それぞれの各個人が持っている「意思」を記号に当てはめて他人に提示することほど面倒で、誤謬を生むものは無いからです。この昨今情報技術社会だなんだって云ってるけど、情報が、言語がすべてだなんてとんでもない話よ? 情報は、感情や呼吸の結果でしかないのよ。それだのに、面白いストーリーを書きたいとか、なんとか云っても、しかたないでしょう。 目の前で人が転んだり、ボケたり、パンツ脱いだりする方が面白いのです。その面白さを、言語は「再現」するものでしかない。
それほど不確定な道具を、どうにかこうにか使って、細工して、工夫して、並べ替えて、どうにか相手に伝えるために、文芸家というのは必死の努力をします。ボディランゲージは目に見える範囲でしか届かないけど、言葉は紙に書けば地球上くらいだったらとどくし、モールス信号だったら知らない星くらいには届くかもしれない。 どうもなんかな、その辺の、認識が、なぁ。「私は書くことで世界を正しく認識している。」という云いはなんとなくわかるようでわからないようで。でも、間違ってない。しかし、言語によって、認識をするというのは実はものすごいテクネーなのです。皿から皿へ小豆を移すのだって、手でやっちゃえばあっというまだけど、わざわざ塗箸で移すのは集中力が要りますわいな。 でも、移せたら、すごいよね。 その「すごいよね」がやりたくて、やっぱり書くのかもしれない。
……表題まで行き着かないじゃないか。 いいや。長くなったから次にまわそう。 #いいかげん
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