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158  偶像礼拝が禁止されるわけ


聖書箇所 [出エジプト記20章23節]

 偶像礼拝の禁止が同章4節ですでに言われているのに、もう一度必要は何でしょうか。それは重要なことであるから。ではだれにとって重要なのでしょうか。もちろん、神さまご自身に、ではありません。私たちにとってです。そのわけを今回は学びましょう。

 高い倫理性を維持してほしい

 この戒めが述べられた当時の状況を知ることは役に立ちます。人々の信仰生活、あるいは日常生活はと言えば(実は同じことを意味しています。と言うのは人はいつの時代も何かを信じて生活しているものです)、恵みを受けた時には「ありがとう!」とにこにこし、そうでない時はぶつぶつ言っていました。代表的な例は試練を受けたヨブの妻でしょう。ヨブ記2章9節にある彼女のことばを見てください。これは1章21節にある「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」という彼の信仰的な態度に対するものです。確かに私たちはだれもが、いつも恵まれていたいと思っています。でも果たしてそんなことは幸せなことなのでしょうか。ノアの時代はどうだったでしょう。創世記6ー9章を参照してください。人々はノアの口を通しての神さまの愛ある助言を真剣には受け取りませんでした。大洪水の予兆である雨がポツリポツリ降って来ても、それでも毎日飲み食いし、グルメ三昧に明け暮れていました。とうとう本当に大洪水がやって来ました。彼らもそうと理解しましたが、時すでに遅し。ソドムとゴモラは死海の底に沈んでいると言われますが、同様の状況でした。経済的に物質的に豊かであった当時、心は高ぶり、神さまの警告にはいっさい耳を傾けませんでした。しかし火と硫黄が空から降って来たときにはもう改心には遅かったのです。創世記19章をお読み下さい。恵まれているときには私たちは気をつけないといけません。心が高ぶり、大事なことに耳をふさいでいないかを。でも実際はそのように心得ていることはなかなか難しいのです。そこで神さまはあなたに試練をくださいます。試練を通してあなたの人格は磨かれ、高い倫理性を誇るようになります。二つの内容があります。一つはエゴイズムの克服です。先ほど述べました偶像礼拝者の態度は人間関係に当てはめるとかなりの問題を生じる事は予想するに難しくありません。目の前にいる人を、利用できる人であると認識している間はニコニコし、そうでない時は冷たい素振り。こんな態度で私たちの世界が満たされるとしたら、そら恐ろしいことだと言わなければなりません。もう一つは罪の深い認識。私たちは罪について認識しています。でもどのレベルであるかはまた千差万別でしょう。ある人たちはこう言います。「私は罪を持っていることを認めます。でもあの人の方がもっと罪深いと思います」このような言い方をするとき、その人はまだ罪の深さを、その重大さをまだ理解してはいないのです。もし私たちがエゴイズムを、そして自分はまだましな罪人だと考える傾向とを克服するなら、それは大きな祝福をあなたに与えます。それはあなたの身近な人を変えることです。牧師が講壇に上がり、話を始めました。終わってから一人の人がこう言いました。「先生、こんなにすばらしいメッセージを聞いたのは始めてです。私はこれからはこのように生活して行こうと決意しました。彼の目は輝いていました。彼は変えられました。とkろでその秘密は。実は牧師はヤコブの手紙をただ読んだだけであったのです。ヤコブの人格が、聖められた彼の人格が大きな影響を与えた瞬間でした。聖霊さまは彼の人格を用いられました。どうか試練を神さまからのプレゼントとして受け入れてください。それは良いものなのです。感謝してください。

まことの神のスケールの大きさを知ってほしい

 こ偶像礼拝禁止の戒めをなぜくり返すのでしょうか。それは重要な戒めであるから。では次の重要さの説明へと進みましょう。神さまのスケールの大きさを知ってもらうためです。私は以前会社に務めていまいsたが、ときどき会議をする時に、一人の目立った人がいたことを思い出します。彼は課長の隣に座り課長の背もたれに自分の腕を乗せて、「よう、課長!」と言うのです。あまりにも呆れ果てた行為なので、だれも彼を相手にしなかったなあー、注意さえもしなかったなあーと思い出します。彼は自分の立場をわきまえていません。自分の分を知りません。両者の間には大きな立場の違いがあるはずです。実はこのことへの認識が大切です。あなたは祈ってもちっとも聞かれないとお考えですか。もしかするとあなたの神のスケールは小さいのかも知れません。大きな神なら大きく答えてくださるからです。この戒めが与えられた当時、社会には偶像が満ちていました。また現代も同様の事がありますが、自然を神と考える人々は多かったのです。それゆえに自然から偶像を作りました。たとえば石です。たくさんの石で作られた偶像が蔓延っていました。偶像については下の注をご覧下さい。しかしまことの神さまはこんあ小さなお方ではありません。自然の中に納まりきれるお方ではありません。

 さざえさんで有名な長谷川町子さんが田河水泡さん・高見沢順子さん夫妻の家に弟子入りしたときのことです。お母さんとともにやって来て、「先生、娘を日曜日には教会に行かせていただけないでしょうか」と頼み込みました。「ああ、いいですよ」。教会は隣の建物でした。田河水泡さんの「のらくろマンガ」も売れるようになった頃、ある夜、酔っぱらって帰って来て、「あーあ、俺は自分のことさえ、コントロールできない、あーあ」と順子さんに嘆きました。すると順子さんは「教会を訪ねてみたら」。入門講座が進む中、あるとき牧師先生との間に次のような会話が交わされました。「神さまを信じませんか」「でもその神さまが分かりません」「分からないから信じるのです」「もし分からないままで信じて飛び込んで落っこちたらどうします」「落っこちてごらんになればいい」。そうです。落っこちて見ればいいのです。もちろんそんなことはありません。すべての世界は神さまの世界、神さまが治めておられます。でもこのようなことを私たちはどのようにして理解できるようになるのでしょうか。それは出エジプトの経験から始まります。20章2節をお読み下さい。出エジプトの経験とはこの大きな罪の世界から神さまが脱出させてくださったというものです。ここに偉大な神さまとの生きた大きなふれあいの始まりがあります。

まことの神を身近な存在として再認識してほしい

22節をお読み下さい。こんなにもスケールの大きい、それゆえに近寄りがたい神さまが、なんと人と直接話される、というのです。まったく不思議なことです。しかし、これは本当だとすると、あなたに対してとっても近い存在、と言えます。あなたは神さまを近くに感じておられますか。もし感じておられないとすると、あちらこちらと神を探し回らねばなりません。偶像はこのようにして人々に求められるものです。近くにおられるのであれば、呼べば応答があるはず。さあ、あなたにはどうでしょうか。申命記10章17、18節をお読み下さい。神さまは弱い人に現れてくださることが分かります。あなたは弱い人ですか。それとも強い人ですか。一人のカウンセラーの話をしましょう。」彼はいつも本当の優しさ(人を憂う、と書きます)とは何だろう、愛するって何だろう、と考えていました。死に行く人々に出会う機会の多い職場で、これをいつも神さまに問うていました。よくあるケースはベッドの周りに集まって「ガンバレ!」という言い方でした。彼には違和感が感じられるものでした。痛みに耐えながら、長い時間を過ごしている人に、もはやガンバレない人に対して。ある日、一人の女性がベッドに寝ている人の足をたださすっている姿を目にします。何にも言葉を発しないのです。たださするだけです。なんとも彼には新鮮に思えました。病人は痛みと戦っていて、彼女はその戦いに、さすることによって病人の味方として参加していたのです。そうだ、これだ、と彼は思いました。そして同時にイエスさまのおことばを思い出したのです。十字架に向うイエスさまの嘆く女性たちへ向けてのイエスさまのおことばを思い起こしたのです。

 「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。」(ルカ23:28)、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)

 すなわち自分自身をコントロールできない事情を持つ人の気持ちや立場に立つイエスさまのお姿です。これを共感と呼ぶことができるでしょう。死を目の前にし、天国の希望を持つ人ばかりではないことのゆえに悩んでいた彼は、今日もベッドのわきで足をさするのです。

イザヤ書のおことばに聞きましょう。

 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」(57:15)

私たちはへりくだって、私たちの中に空洞があって、それを真に埋めることのできるお方は神さましかいらっしゃらないと認めるべきです。へりくだって神さまに寄り掛かるべきです。あなたは必ず身近に神さまをお感じになるでしょう。

 釣りざおを置き、たばこに火をつけ、ひと息吸い込むと、渓渓流に紫煙が立ちのばる。「たばこにはロマンがある」。東京・杉並区で広告企画会社を経営する及川晃さん(43)はそう思ってきた。喫煙歴20年余り、−日3箱のベース。しかし、たばこの害は今や世の常識だ。喫煙者の7割は禁煙を考えているとのデータもある。衣川さんもその例にもれず、禁煙には何度も挑戦したが、1日と続くことはなかった。昨年、病院の禁煙外来で、かむとニコチンが吸収できるニコチンガムの処方を受けた。「ガムがたばこの代わりになるものか」と、最初こそ、あなどっていたが、欲求が突き上げてきた時にガムをかんだ。すると気持ちが静まり、あまりの効果に驚いたという。「たばこが好きで吸ってきたと思っていたのに、実際はただのニコチン中毒。たばこを吸わされているだけじゃないかって気づかさわました」……「あなたは、ニコチン依存よりも、心理的な習慣としての依存が強いからでしょう」と大阪がん予防検診センターで禁煙指導をする医師、中村正和さん(44)に指摘された。禁煙を難しくしているのは、ニコチン自体の依存とたばこへの心理的な依存の2つだ。……。(読売新聞1999年5月26日号『禁煙という病』1)

依存することは恥ずかしいことではありません。私たち人間には空しさがあるからです。空洞があるからです。ただ何に依存するかが問題です。良いものに依存すべきです。神さまに、イエスさまに、聖霊さまに依存して良い人生を過ごしましょう。偶像は要りません。