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400  信仰の応用問題

 ●聖書箇所 [ルカの福音書10章25節ー42節]

 エルサレムからエリコへ下る道での出来事でした。旅人が襲われ、瀕死の重傷を負いました。この道は当時非常に危険な道で知られていました。エルサレムは海抜700メートル、エリコは死海の岸にあり、死海は海面より400メートルも低いのです。両者の距離は30キロメートル、すなわちこんな短距離で1100メートルもの高低差がある、しかも岩がごろごろ、くねくねした山道です。強盗たちにはもってこいの場所であったでしょう。隠れる所を探すのに何の苦労もありませんでした。三人が通り掛かり、最後のサマリヤ人が助けました。これはイエスさまがなさったお話ですが、きっかけは、と言えば律法学者の質問から始まりました。25節にある、「先生、何をしたら永遠のいのちを受けることができるでしょうか」です。この質問は「信仰とは何か?」という基本的な問いです。私たちはこれに対する答えを持っています。すなわち「神を信じること」。でもこれは基本問答です。しかし今回学ぶ箇所は応用問題とその答えにまで踏み込んでいます。では応用問題の答えとは何でしょうか。これは「人を愛すること」です。私たちは人々、すなわち社会の中で生きています。人との意味ある、建設的な関係なくして生きることに何の意味もありません。「人を愛する」ことこそ信仰です。では具体的に人を愛するとはどういう意味かを見て行きましょう。

他者の気持ちを汲む


私は初めて教会に足を踏み入れたときのことを今でも忘れません。とってもやさしく丁寧に歓迎してもらいました。実は教会の前で檻の中の熊さんよろしく、行ったり来たり。未知との遭遇は誰でも不安がいっぱいです。思い切って玄関の引き戸をあけました。そうして今は牧師、迎える側になりました。いつもこのときの気持ちを忘れないようにと願っています。他者の気持ちを汲む、それは愛です。コンサートの会場には演奏中には入れません。演奏者と聴取者との間の気持ちなどのやり取りを壊さないという配慮であり、また礼儀です。日本の文化は本来人の気持ちを大切にする非常にすぐれたデリケートさを持つものです。辞書を開けば、「気がつく」、「来にかける」、「気を配る」などなどの表現が満ちています。一人の男性が長年の夢が叶い、ついに理想の車を手に入れました。早速ドライブです。良い静かな運転音、ほおを撫でる気持ちの良い潮風。彼は何とも言えない幸せな気分に浸っていました。ふと、なにげなく気付いたのは、少年が手を振っている姿。でも彼は通り過ぎようとしました。するとガツン!明らかに少年が石を愛車にぶつけた音でした。彼は、その瞬間、どうしたでしょうか。あなたならどうしますか。彼は急ブレーキをかけ、煮えくり返る思いで、ドアを開けるのももどかしく、少年のもとへ。事情が分かりました。少年はこう言いました。「ごめんなさい。こうでもしないと止まってくれないと思って……弟が大怪我をしたんです」。

祭司は傷付いた旅人を見てどのように振る舞いましたか。31節をご覧下さい。彼はいったい何を考えていたのでしょう。多分間違いなく、民数記19章11節の規定でしょう。「もし死人であったら、7日間汚れる、そうすれば私の仕事に支障が出る」というふうに。人の苦しみに思いが行きませんでした。一連の話の最後にマリヤの歓迎ぶりが出てきていますね。マルタの姉妹ですが、マルタはイエスさまを迎えようとバタバタしています。反対にマリヤはじっとイエスさまの足下にいます。どちらの態度が良いのか、昔から議論がありますが、すなおに読めばマリヤに軍配が上がるでしょう。イエスさまのお答えが証明しています。マリヤの何がすぐれていたのでしょうか。イエスさまはいったいどのような立場にそのときにいらっしゃったのでしょうか。エルサレムを目指しておられました。何のために。十字架にかかるために。彼の気持ちがどのようなものであったでしょうか。決して忙しく立ち働くマルタがイエスさまの気持ちを汲んだとは言えないでしょう。マリヤはじいーっとそばにいたのです。

与えることを常日頃考えている

サービス精神が旺盛な人は頼もしさや温かさを人々に与えます。いつも彼は輝いています。人々は彼に向ってこう言います。「あなたのそばにいるととっても気持ちがいい!」「気持ちが明るくなる!」レビ人は傷付いた旅人を見てどのように振る舞いましたか。32節をご覧下さい。彼はいったい何を考えていたのでしょう。この種のタイプはこのようなものです。「私はだれにも迷惑をかけていないし、一人で生きて来た。だれとも関わりあいを、特に面倒に巻き込まれるのはごめんだ!」。このような人に聞きたいのは「朝、だれがあなたの心臓のスイッチを入れてくれたのか」です。いかなる人間もいのちを造り出せません。すべてのものは与えられたものです。私たちは謙虚でなければなりません。冷たい心であってはいけません。私たちは多くを受けています。感謝の気持ちを持たなければなりません。私たちは生かされています。

さっと実行する

 「これはいい事だ!」と分かったら、即、実行!」。これが大切です。さっと動く。「私にはできない、私にはできない!」と叫ぶ人は「これはいい事だ!」と分かっても、もともと実行しようとする思いがないからです。実は「これはいい事だ!」と分かるとき、聖霊さまがあなたには働いてくださっています。だから実行できます。サマリヤ人はさっと動きました。33ー35節をお読み下さい。なんとも行き届いた様でしょうか。これはユダヤ人への皮肉です。サマリヤ人はユダヤ人から見て異端者であり、軽蔑の対象でしたから。そういう彼らがユダヤ人社会の中枢部分にいた祭司やレビ人たちより大きな愛があったと言うのですから。私たちも気を付けなければなりません。他の人を見下して、「あの人は愛のない人だ!」。もし間違っていたらどうするのですか。ある人たちはマタイの福音書の次の文章を実行しています。

 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(6:2-8)

自分のしている良いことを決して宣伝しない人たちが私たちの世界にはいるのです。いや、あなたのよーく知っている人であるかも知れません。私たちは人を一瞥しているに過ぎない、これが人間としての限界です。「共同体ーゆるしと祭の場」(ジョン・バニエ)がこう言っています。

共同体(家族などのこと:井上注)の持つ最大の困難は成員に理想を押し付けて自分自身でない者になるように強制することである。成員にあまりにも多くを要求し、ありのままであることを受け入れずに、他の人になることを強制する。やがて成員たちは自分自身を隠すようになり、互いに正直でなくなる。真に良いことを実行できる者でありたいものです。28節と37節でイエスさまは「実行しなさい!」とおっしゃっています。律法学者は議論好き人間を代表しています。「永遠のいのちとは」、「愛」とはなどいくら議論しても、永遠のいのちも愛もそこには生まれません。トルストイがこう言いました。「未来における愛というものはない。愛はただ現在における活動である」。私たち人間の生きる目的はいったい何なのでしょうか。最近の新聞にこういう投書が載っていました。「今、話題の本となっている作家、五木寛之さんの「人生の目的」を読んでみたが、「人生に目的はあるのか。私はないと思う」という著者のの意見には少々落胆した。何のために生きるか、が分からなければ、人生を真におう歌することは難しいと思うからだ……生きる目的が分からなければ、「生きる力」もわいてこないように思う。ゴールもないのに、やみくもに走れる道理がないではないか。(読売新聞2000年1月25日)

ではどのようにしたら愛せるか

 多くを受け取っている事を確認してください。これが分かれば私たちの愛の行動は難しくありません。というのは私たち人間には恩返しの気持ちが備えられているからです。ちなみに「隣人を愛せよ」と言われますが、「隣人」とはだれでしょうか。イエスさまにお尋ねしましょう。36節の答えがあります。サマリヤ人です。「隣人を愛せよ」とはこの場合、救助してもらった旅人がサマリヤ人に恩返しをしなさい、という意味です。これが応用問題の答えの一つです。しかし低いレベルの愛です。でも愛です。では高いレベルの愛は。それはサマリヤ人のした行為です。彼には危険を侵す用意がありました。というのは当時被害者を粧って道に倒れている場合があったからです。看病しているときに周囲から突然仲間が襲い掛かります。いつの時代でも傷付いた人を助けるには返り血を浴びる危険を覚悟しなければならないのです。だからレベルの高い、愛の行為と呼ぶにふさわしいのです。でもあなたは決して無理をしないでください。応用問題なのですから。ただし目標にはなるでしょう。まずは恩返しからです。気象用語に「三寒四温」という言い方がありますが、人生用語にも「三感四恩」があります。「三感」とは感謝、感激、寛容、「四恩」とは親の恩、師の恩、友人の恩、社会の恩。


フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーは『エミール』の中でこう書いています。人間は王であろうと、金持ちであろうと、産まれるときは裸、死ぬときも裸。生きている間、さまざまな衣装で飾る。ほとんどの人はその衣装に目を奪われて一生を終える衣装よりも人間の生き方こそが大切ではないでしょうか。その大切な生き方こそ

、人を愛して生きること。