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401  イエスが驚く程の信仰

 ●聖書箇所 [ルカの福音書7章1節ー10節]

 この天地を、そしてあなたを造られた神さまはとても親切なお方です。生きる上で必要なものをきちんと与えてくださいます。たとえば信仰。こう言いますと、ある人たちは神機臭いとか、「またかー」とかの反応を示します。あるいは不必要なものだとか訴えたりします。後者についてはこのように説明すればお分かりいただけると思います。あなたがレストランに入ったとします。注文した料理が運ばれて来ました。テーブルには調味料はいくつか並んでいます。あなたはお醤油をかけました。この場合、信仰が働いています。お分かりでしょうか。かける前よりもさらに美味しくなるとあなたは信じてかけたでしょうね。さて、今回の題は「イエスが驚くほどの信仰」です。それほどの信仰があるというのです。主役は百人隊長です。今回少しでも彼の信仰にあやかるべく学びをしましょう。すなわち彼の「イエスが驚くほどの」信仰の中身を学びましょう。

人から愛される人格

 彼の部下が死にそうだと言うのです。そこでユダヤ人の長老たちをイエス・キリストのもとへ派遣しました(7:3)。不思議なのはなぜ両者が友好関係にあるのかです。百人隊長はもちろんローマ軍の隊長でローマ帝国の体制のど真ん中あるいは尖兵にいる立場です。ユダヤ人たちは占領された人たち。解答はこうです。真に尊敬され、愛される人は敵からも一目置かれる。実は彼はユダヤたちのために会堂をささげています。これで彼の愛の大きさを測ることができます。だから人から愛されるのです。そして愛される人は幸せです。逆に愛されない人、孤独な人は不幸です。ヨーロッパに「森の巨人」という伝説があります。森の中を通る旅人を残らず捕らえては自分の鉄のベッドに寝かせます。足がはみ出れば、それをちょん切ります。短ければ首をひっこ抜きます。何を言いたいのかお分かりだと思います。自分の基準で人を裁くことは良くないのです。友人はいなくなります。どうかいつもイエス・キリストの前にいてください。一番簡単な方法は日曜礼拝をすることです。礼拝です。これは教会に行くことと同義ではありません。真の礼拝をささげる者には常に心と精神と霊のいやしがあります。癒されたものはやさしいことばを使い、人々の心をなごませます。

 ある町のはずれに一人の少年が母親と住んでいました。彼は山に向って叫びました。「おーい!」こだまが帰って来ました。「おーい!」。おもしろくなって、今度は「ばかやろうー!」と叫びました。すると「ばかやろうー!」。「こっちへこーい。なぐってやるう!」「こっちへこーい。なぐってやるう!」。彼はびっくりして家の中に駆け込みました。「お母さん、大変。山の向こうに悪い子がいる。ぼくを殴りに来る!」母親は言いました。「いいえ、あの子は悪い子ではありませんよ。あなたがあの子に悪いことを言うからでしょ。今度はやさしく言ってごらんなさい」。彼はさっそくやってみました。「おーい!」「おーい!」。「君はいい子だ!」「君はいい子だ!」。「こんど一緒にあそボー!」「こんど一緒にあそボー!」。彼はうれしくなって家に駆け込んで母親に報告しました。

このように素直にできる人は癒された心を持った人です。

神と愛のキャッチボール

 7章5節はユダヤ人長老たちによる推薦状です。彼は人を愛するからこのように言ってもらえるのです。聖書の考えによると「神を愛する」とは「人を愛する」ことです。ヤコブへの手紙1章22節やヨハネの手紙第一4章20と21節をお読みください。あなたは神を愛しておられますか。こういう質問には難しくて答えられませんか。もしあなたが人を愛したら、愛する何かをしたら、あなたは確かに神を愛しているのです。マタイの福音書25章40節とその前後をお読み下さい。百人隊長は人を愛しました。どうやって?しもべのしもべになることによって。部下に仕えることによって。この部下は今の時代ならリストラの対象であったはずです。百人隊長はこうして神を愛したのです。これは愛のボールを神に投げ返したことを意味しています。投げ返すからにはその前にボールを受け取っていなければなりません。あなたはボールを受け取ることができます。罪の赦しを経験することによって。神と愛のキャッチボールをするということは他の人の手足となることです。このとき非常に難しい問題を解決するだけの大きな力に満たされ、実際に解決されます。ます。しもべはいやされました。しもべの病気のいやしは百人隊長にとっても良いニュースであったでしょう。第二次世界大戦の最中にドイツの村が連合軍によって爆撃を受けました。町の中心にあったカトリック教会も破壊されました。教会を愛する町の人たちは瓦礫の中から大切にしていたキリストの像を見つけました。なんと悲しいことに両腕がありません。彼らは話し合いました。新しく作り直そうか、どうしようか。一人の人がこう発言しました。「このまま教会の中に置いておこう。やって来る人たちが見て、「私はキリストの手足になりたい」ときっと思うだろうから」。あなたはいかがでしょう。キリストの手足になってみませんか。それは神に愛のボールを投げること。キャッチボールをしているうちにあなたの中に「できる」という信仰が育ちます。 

 

おことばの力を信じるもの

 7章6、7節をご覧下さい。なんというすばらしい信仰でしょうか。おことば信仰です。これがキリスト教です。アブラハムは子どもを持つことをあきらめる年令になっていました。でもおことばが与えられ、やがて子どもが与えられました。創世記12章2節、15章4、5節などをご確認ください。ヨセフの場合はどうであったでしょうか。この場合は目で見るおことばですが、創世記37章5ー7節をご覧下さい。これは創世記50章18節で実現しました。幻や夢は目で見るおことばですが、あなたに希望を与えるものです。私が大宮駅前で路傍伝道して現在の勝利教会グループがありますが、(2000年1月で20周年を迎えました。最初の教会員は私と妻と息子の三人。いずれの組織にも属さず、また支援も受けずに)私を常に励ましたのは、ヨシュア記1章のおことばでした。特に7ー9節。その通りに私は20年経験して来ました。神さまは信頼する者を裏切ることをなさらないお方です。幼子のようにおことばに接してください。あなたにもおことばが与えられます。そして生きる確信や力や希望が常に備わります。

神の権威にへりくだるもの

 この話のクライマックスは6ー8節です。イエス・キリストは驚かれました(9)。何に驚かれたのでしょうか。権威を認める態度にです。現在日本の社会には耳をふさぎたくなるような事件が頻発していますが、決まって被害者となるのは弱い者たち、すなわち子どもたちなどです。識者は一様に現代の日本から権威が失われたと話しています。家庭の中に親の権威がありません。父親の権威が、そして母親の権威がありません。社会の基礎は家庭にあり、家庭の中において子どもたちは権威を学ぶのですが、その機会がありません。何が正しいのか、何が不正なのかが分かりません。教えてくれる人がいません。なんという不幸!権威のない社会はやがて滅びます。聖書は常に権威に従うように教えます。権威にへりくだるように教えます。権威の出所は神にあるからです。権威に従わないのは神に従わないことです。権威に従う者にはすばらしい恵みがあります。しもべはいやされました。神の奇蹟が起きます。ローマ人への手紙13章1節以下などをお読み下さい。

顔面革命                   

 ある日、顔の中で争議が起きた。口がいちばん先に不平を言いだした。「顔の中でおれがいちばん多く働いておる。シャベルこと、食うこと、味わうこと、呼吸すること、飲むこと、クシャミをすること、これだけ多くの仕事をひとりで引き受けておるのにーそして、もしおれが働かなかったら、人間のいのちは一日も保つことができないのだ。それにもかかわらずらず、いちばん下に位しておる。おれの上にガンバッテおる鼻なんか、においをかぐこととおれに手助けをして呼吸することぐらいで、そのくせ、鼻筋が通っておるなどと言われていばっておる。かれがあってもなくても、人間の生活にはいして問題はないのだ」。鼻はさらに言った。た。「口君、君の言うことは確かだ、そのとおりだ、しかしおれの上にノサバッテる目というやつはいよいよの怠け者だ。おれはとにかく、かぐ、呼吸するという二つの役目を果たしておる。にもかかわらず、目は、ただ一つ見るだけの役目だ。それにもかかわらず半分はフトソをきて眠ってしまう。そういうやつが『限光烱烱』だの『やさしい瞼』だのと得意になっておる」。目はさらに言いました。「諸君の申されるところ一応ごもっともだ。だがふしぎなのは僕の上に悠然と座しておる眉だ。眉のやつはなにをしておるのだ。仕事も役目もなに一つしないではないか。それがいちばん顔の上座にアグラをかいておる。そもそもこんな不合理な世界は捨ておくべきではない、ただちに革命によって合理的に変革せねばならぬ。いちばん働く口君がいちばんの上座、二番目は鼻君、しかも鼻の穴がたいせつなのだから鼻の穴は上方をむいて坐るべきだ、第三番目は目だ、第四番目はなにも用事をしない眉だ。かく顔面革命は成功した。かれらは一日の出発をなすべく朝の食卓についた。ところが目が下のほうについておるので、手が茶わんやみそ汁をどのへんに持ち運んでよいか見当がつかん、よいかげんにこのへんが口だろうとみそ汁やご飯を運ぶと、顔のテッペソまで持参するのだから条件がすこぶる悪い。こぼれるみそ汁やら飯つぶが、天をむいておる鼻の穴にえんりょなく流れ込む。鼻はたまらん。クシャミの連続である。火ロを噴き出した溶岩のごとく、鼻汁、みそ汁、飯つぶ、よだれが、ちょうどその下に位しておる目の中に流れ込む。目はたまらない、これらのものに涙の追加予算までして、流れ出た汚物はことごとくいちばん下の眉毛にヒッカカる。まったくふた目と見られた姿ではない。そこでふたたび顔面の議員諸君は熟議をした結果、やはり顔面の工作はむかしのままがいちばんいいようだ。神さまのお考えはわれら各自の合理主義よりもはるかに越えた、まったく別な世界からのお企てなのだ、われらはただ各自のおかれた立場にあって、お互いに助け合って忠実に任務を果たすことなのだ、との結論に到着し、この革命を撤回して、もとのとおりにして 出発したというのです。(田崎健作著『捨身で生きる』YMCA同盟出版部165ー167ページ)

 天地を、そしてあなたを造られた神さまに信頼して従ってください。聖書の中にあなたが従うべき神さまのお立てになった秩序が示されてあります。家庭とは、社会とは人間関係とはなどなど。常に神さまの権威の前に謙虚であること、これが祝福を受ける秘訣です。