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403  気持ちの良い交わりの為の知恵

聖書箇所 [ピリピ人への手紙2章1ー5章]

 私たち人間は他の人間と交わりをしないでは生きることができません。もっと積極的には、他の人と交わりをすることによってのみ、人間として成長すると言えます。今回は互いに気持ちの良い交わりをする為の知恵をご一緒に聖書から学びましょう。

互いに弱さを持っていることを認める[4節]

 「自分のことばかり」考えていましたとは、私たちが間違いをしたり、失敗をしたりするときの弁明する(言い訳をする)性質に触れたことばでしょう。ならば他者も同様であることを覚えなさいと助言していると見ることができるでしょう。事実私たちは弱い。悪習慣から離れられないとか、正しいことであると頭で理解していても実行できないとか。さて、この弱さの存在を承認するならば、何が私たちには必要でしょうか。それはやさしさ。

 イスラエル人を導いたリーダーとして有名人ではモーセを思い出します。彼は兄のアロンとともに優れた働きをしました。モーセは神さまからアロンの死が近付いていることを知らされ、アロンにそれを告げます。静かに彼はそれを受け入れ、脱いだ祭司の制服を敬承者であるエルアザルは着て行きます。たんたんと進むその様子をそばで見ながら、モーセは思わず、こうもらします。「お兄さん、お姉さんのミリアムが亡くなったときは、私とお兄さんとが見送りましたね。そして今、お兄さんを私が見送ります。では私を見送ってくれるのはだれなのでしょうか」。

 ちょっと予備知識が必要です。モーセは預言者、アロンは祭司。前者は戒めを伝え、多少の厳しさの伝達者です。対称的にアロンは祭司、常に人々の失敗を神さまに執り成す働きでした。そこには優しさがあります。人々の世論もこの差を表しています。モーセの死を悲しんだのは男性ばかりでしたが、アロンに対しては全員が、でした(申命記34:8、民数記20:29)。もちろんアロンと言えども人間ですから、優しさゆえの失敗もあります。つい人々の気持ちに迎合して偶像礼拝をしてしまいました。これは彼の汚点です(以上、民数記20:22-29と出エジプト32参照)。でも彼の持つ優しさは神さまのご性質を反映したものでした。

 創世記9章20節以下をご覧下さい。泥酔した父親ノアを辱めた息子ハムは呪われています。優しかったセムとヤペテは何をしたのでしょうか。欠点を見ない、弱点を突かない、ことをしました。私たちにとって一番の弱点は何でしょうか。それは罪を持っているということ。神さまはあなたを愛して、それを責めないとおっしゃいます。代わりに責められたのがイエスさまでした。十字架の上で。今神さまの優しさがあなたを救います。互いに弱さを認識し、優しさで覆いましょう。


互いに違っていることをはじめに認める[3節]

 「互いに人を自分よりもすぐれた者と思」わなければならない根拠はなんでしょうか。神さまの前にすべての人は平等であり、同等の価値を有しているので、人間そのものに優劣があるのではありません。では何が違う?それは賜物の違いです。種類や程度の違いがあります。これを認め尊重しなければなりません。「あの人はこう思う、こう反応する、そうだ、そうyに違いない」という思い込みを捨てることをお勧めします。なぜならだれも同じ反応をすることはありえないからです。あなたが彼に物をあげたとしましょう。「彼は『ありがとう!』と言うはず」という前提ははじめから捨てておきましょう。もしかするとありがたくないかも知れません。自分ならこう考える、こういうふうにする、という思い込みを捨てておきましょう。そうでないとショックを受けますし、さばきたくなるのは避けられないでしょう。

 私たち人間は本来違った性質を有する存在として造られています。人間の歴史そのものが違った者の出会いからスタートしていることを覚えてください。それは男と女です(創世記2:18など)。違っていて当たり前。そのように神さまがはじめからそのようにお造りになりました。先の兄弟、ハムとセム・ヤペテの性格の相違を覚えてください。エサウとヤコブの違いも有名です。疲れて野から帰ってきたエサウ、それを待ち受けていたヤコブ。

 創世記25章30節にある「食べる」は正確には「呑み込む」です。前者は突進型、後者は計算型と呼べるでしょうか。同じ親から生まれながらこうも違います。違いは神さまの創作です。尊重しなければなりません。私たちは決して一人で生きているのはありません。非常に多くの人々の世話になりながら生きています。それも互いに違っているからこそ、ありがたい仕組みと言えます。互いに不足を補い、助け合うことができます。

自分のできることをする[5節]

 イエスさまは十字架で死ぬことがおできになりました。これは33歳と6ヶ月目のことでした。でもそれ以前には不可能でした。ヨセフは本来憎たらしい兄たちを気持ち良く赦しました。これもこのとき(創世記45章)にできたことであって、以前には不可能でした。

 他者のために死ぬこと、赦すこと、そんなに簡単なことではありません。でもできるときがやってくれば、できます。でもできないときに無理矢理しようとすれば、歪みが生まれます。従って自分に対してのみならず、他者に対しても強いてはいけません。互いに気持ちの良い交わりをするためには今自分のできることをしようと考えるようにすべきであり、できないことは無理にしようとはしないことです。もし反対に振る舞えば新たに重荷を負うことになるでしょう。さらにもう一つの重荷もあります。それは、できることをしない、です。霊的な精神的な運動不足の状態です。ですからいらいらします。いらいらは身近な人への八つ当たりとなって現れやすいものです。

 さて最後に以上の知恵の源泉はどこにあるかを考えましょう。いつもこれらの知恵を活用できるように、最後の提案です。それはイエスさまと常に人格的な交わりをすること。

 理由を説明しましょう。創世記1章1節にある「はじめ」の前には何があったのでしょうか。それとも何もなかったのでしょう。何事も起きてはいないのでしょうか。実は起きています。それは知恵の誕生。箴言8章22節をお読みください。「わたし」とは知恵です。この知恵がこの世界を造られました。続けて箴言3章19節をお読み下さい。この知恵はキリストです。キリストは人となり、地上に来てくださいました。いまあなたの心の中にいらっしゃいます。このお方があなたの心に知恵を語ってくださいます。